東京タワー/穹と、わたし
久しぶりに近くで見ると、はりめぐらされた完璧さに圧倒された。
こんな大きいものを造るのは大変だっただろうな。どんなに作り上げていっても床ができることがなかったのだから。
鳶さんってすごい。
友達の鳶さんを思い出した。
私自身は全く建築に関わったことがないのにどういうわけか小さな頃から建築に携わっているひとが身近にいる。だから色々な話を聞くのだけれど、でも未だに不思議で仕方がない。どうして人間の手があんなに高いものをまっすぐ造れるのか。
建築は住まわせるとかおさめるとかいうことよりまえになにかがある気がする。
ピラミッドよりもっとまえから、ずっと。
遠くから車で東京タワーに近づいた。
わっと急に見えてきた東京タワーに興奮して、ぶれちゃった。
あったかい飲み物を飲みながら、車から空を見る。
たくさんのことを思い出す。
車に乗るといつもこう。タクシーでもそう。
流れてゆく景色に動かされて、揺すられた砂の底から浮かび上がってきたみたいに、景色が時々ふっと訪れて心をかきまわす。
車の助手席に乗っているといつもどこかに力が入ってしまう。
首を起こしているのはただ景色を見たいからじゃない。どこに進んでゆくのかを見たいのだ。把握しておきたいのかな。自分でもちょっと分からない。
自分が運転していることを想像している、というのもちょっとある。自分が行くだろうと思っている方向から裏切られてちょっと疲れたり、思ったとおりの車線に乗って気持ちが良かったり。
だけど昨日はそのことを放っぽってだらんと弛緩して、ただ空や流れてゆく街灯や高速道路の裏側を見ていた。
走ること、走る方向に私の意思は働かなくていい。もともと私の意思ではどうにもならないことなのだから。動かされるままシートに身を沈めていよう。
そうしてただ冷たくひえた空を、ビルの間をすごいスピードで走り抜けてゆく星を眺めた。
そして自転車のことを思い出した。
小さいとき住んでいた団地から隣の町にあるスーパーまでよく自転車で行った。
たいていは自分の自転車だけど時々はお母さんの後ろに乗って。
普段自分でそのコースをこいでいるせいかもしれない。それともカーブを曲がるときに体重のかけ方を判断するのは後ろのひとの役目だと思っていたためか。
(小さいとき私は何故だかお母さんが少し恐くて、とても気をつかっていた)
どうしてもお母さんの背中から首を伸ばして行く手を確認しようとしてしまう。
なんだかはらはらするような、肩がぎゅっとつまったかんじで疲れて、はっとそのことに気づく。
やめようやめよう、とぐにゃんと意識を緩めすべてを任せてみる。手の意識はぐにゃん、にしないまま。
(今思うとあの感じ、体と意識との分離の感じはときどき、今踊ることに繋がっているかも。)
そうしてぼけっと空を見る。
目のはしっこにうつる町の景色はびゅんびゅん走ってゆくのに、お母さんの背中はぐんぐん動いているのに、空だけはぼおっとそこにいる。
まるでふたりだけのひみつみたいに。
身を任せている私と空の力の抜け加減はちょうど等しくて、いつもより近くかんじた。
だけど長いことひみつは続かない。ぐいっと自転車が揺れるたびにまたすぐ意識を取り戻してしまう。
しごとしごと。カーブだから体重をかけなきゃ。あとは、なるべくお母さんの邪魔にならないように。
その繰り返し。
まただ。
もう8歳には戻れないのだということに、思い当たってどこかがきゅっとする。
もどりたいわけじゃないのに、なんでだろ。
きっとそれだけは不可能だから、かな。
これを書いていて、意識を違うところへやることを覚えたときのことを思い出した。
そのことは、また今度。
