アマヤドリ -116ページ目

john:gilbertさんの日記からお借りしました。



「自立」ということを
「依存」と反対であると単純に考え
「依存」を無くしてゆくことによって
「自立」を達成しようとするのは間違ったやり方である

「自立」は十分な「依存」の裏打ちがあってこそそこから生まれ出てくるものである

「依存」に裏打ちがあるということと
「依存」の中に両者ともに溺れこんでいるということは違う

「自立」は「依存」の無いことを意味しない

そもそも人間は誰かに「依存」せずに生きていくことなどできないのだ

「自立」ということは「依存を排除すること」ではなく
必要な「依存」を受け入れ自分がどれほど「依存」しているかを「自覚し感謝していること」ではなかろうか

「依存」を排して
「自立」を急ぐ人は
「自立」ではなく
「孤立」になってしまう

人生のなかには一見対立しているように見えて
実はお互いに共存し裏付けとなるようなものが案外多いのではないか

そのような目で自分の生き方をみてみると
必死になって排除しようとしていたものに価値があることがわかるのではなかろうか

その発見によって
生き方に厚みがでてくると思われる




美しいものとそうでないものとか、善と悪とか、喜怒哀楽とか、自分と世界とか、わかるものとわからないものとか、孤独ということばとか、
自分のなかで分別して配置しておけばきっと安心だったのだろうけれど、でもそれではどうにも説明のできないものごとがぎしぎし音をたてるようになった。
名前をつけ自分なりに解釈をつけて配置づけてみたそのことが、“感じている”ものとの間に齟齬をきたしていることに気付いたから。

なにかに名前をつけて自分の中心と結ぶことは相手をとらえることでもあるけれど、反対にとらえられることでもある。
だから慎重に、肌で感じることや勘に耳を澄ませなくてはいけないし、そうでなければふわふわと自由にさせておくのがいい。
ただしやはり忘れてしまわないように、ほんの微かなしるしはつけておかなければ。

ものすごくしばられてる。
そのすべてが悪いわけじゃなくて…とこうして書くことがもうすでにそういうこと。
両極にあるものすらいつも表裏一体。その間に濃淡があるだけですべてを含んでいる。
こんなにきりのない世界を抱え込んでいるなんて、抱え込める可能性があるなんて、ちょっと前の私は気付けていなかった。

混沌にも整然にも、無限にもたった1点にも同時に存在できる。

まるで宇宙みたい。

邂逅


今年はじめてのとんぼを見た。
朝、歩いていて立体交差みたいにすれ違った。
思わず振りかえったけれどとんぼはそのまま行ってしまった。

彼がわたしのことを思い返してくれなくても、
私はいつまでもその一瞬を反芻する。

4.5 -I.F.M.M.H.



裸足で踏んでいるこの地のはるか下。
色のなくなるほどに燃える天上よりもはるか。
むすびついていつのまにかそのすべてが彼になった。

抜け落ちた翼がつくった波紋を、
いつしか彼はその透明なひとみでとらえる。

地と天のむこう



日本の動きは西洋の動きと違って平面的だと思っていた。
姿、面を2次元で印象づけるようなイメージがある。
体のつくりも顔のつくりも西洋のひとに比べたら平面的だからかな。
日本の舞台ってもともとはあまり円形だっり奥行が深かったりしないんじゃないだろうか?
見せる面と、そうじゃない部分をはっきりと分けているような、気がする。
…気がするだけでこれは勉強不足でわからない。

だけど日曜日に舞をみたり、それから去年の歌舞伎を見ても思ったことだけれど、そこには微妙なねじりの美しさがある、と思った。
そしてかたちそのものの美しさよりも空気の隙間、かたちとかたちの間の、物体のない余白の部分。


能の舞台の下には瓶が埋められているんだよとおばあちゃんが教えてくれた。足を踏みならす時にはその瓶の場所を意識するのだという。
その時、友達にきいた鼓をやるひとが武道のワークショツプに来ていたときの話を思い出した。
武道に必要な相手との間や、読み取ること、相手とのコンタクトの仕方は踊りに深くつうづるものがあって、武道からダンサーが得るものは大きいらしい。私も興味があるのだけれど…。
そこに鼓を打つひとが参加していたらしく、ただやみくもに高く鳴らそうとするよりも求める先と自分をつなぐことでよりクリアな音が飛ぶようになった、という話を聞いた。
能を見ていて、やはりその床のしたの瓶に自分の踏み抜きの音を繋げようとすることで、こちらに伝わってくるものがずいぶん変わるのだろうということをずっと想像していた。

床のしたに瓶がなくても踊るときに頼っているこの床のもっと下、地のはるか、そして天上のはるかとむすびつくことができたら、その循環のなかに見ているひとを取り込むことができるのかなぁという気がした。


それにしてもどうして能楽堂もお相撲の土俵も、おうちのなかにあるのにちゃんと屋根があるのだろう。
屋根のうえにはぎりぎりになんの変哲もなく天井がある。
西洋のひとだったらあそこに空の絵を描くのだろうか…というのは単純すぎるけれど、
そこに日本の面白さがあるような気がした。

4 -B.B.P.


いつもの公園についたとき、地球を一周したね、と見上げる。
汗もたくさんかいたし足のうらもちくちくする。
でもちゃんとひとりであるけた。

ちいさな水たまりの空を見て、海をとおらなかったことに気付く。
空ばかり見ていたから。


覗き込むとあおがあんまり深く果てしなかったから、
いそいで靴の裏でゆらした。