∞ | アマヤドリ

john:gilbertさんの日記からお借りしました。



「自立」ということを
「依存」と反対であると単純に考え
「依存」を無くしてゆくことによって
「自立」を達成しようとするのは間違ったやり方である

「自立」は十分な「依存」の裏打ちがあってこそそこから生まれ出てくるものである

「依存」に裏打ちがあるということと
「依存」の中に両者ともに溺れこんでいるということは違う

「自立」は「依存」の無いことを意味しない

そもそも人間は誰かに「依存」せずに生きていくことなどできないのだ

「自立」ということは「依存を排除すること」ではなく
必要な「依存」を受け入れ自分がどれほど「依存」しているかを「自覚し感謝していること」ではなかろうか

「依存」を排して
「自立」を急ぐ人は
「自立」ではなく
「孤立」になってしまう

人生のなかには一見対立しているように見えて
実はお互いに共存し裏付けとなるようなものが案外多いのではないか

そのような目で自分の生き方をみてみると
必死になって排除しようとしていたものに価値があることがわかるのではなかろうか

その発見によって
生き方に厚みがでてくると思われる




美しいものとそうでないものとか、善と悪とか、喜怒哀楽とか、自分と世界とか、わかるものとわからないものとか、孤独ということばとか、
自分のなかで分別して配置しておけばきっと安心だったのだろうけれど、でもそれではどうにも説明のできないものごとがぎしぎし音をたてるようになった。
名前をつけ自分なりに解釈をつけて配置づけてみたそのことが、“感じている”ものとの間に齟齬をきたしていることに気付いたから。

なにかに名前をつけて自分の中心と結ぶことは相手をとらえることでもあるけれど、反対にとらえられることでもある。
だから慎重に、肌で感じることや勘に耳を澄ませなくてはいけないし、そうでなければふわふわと自由にさせておくのがいい。
ただしやはり忘れてしまわないように、ほんの微かなしるしはつけておかなければ。

ものすごくしばられてる。
そのすべてが悪いわけじゃなくて…とこうして書くことがもうすでにそういうこと。
両極にあるものすらいつも表裏一体。その間に濃淡があるだけですべてを含んでいる。
こんなにきりのない世界を抱え込んでいるなんて、抱え込める可能性があるなんて、ちょっと前の私は気付けていなかった。

混沌にも整然にも、無限にもたった1点にも同時に存在できる。

まるで宇宙みたい。