アマヤドリ -113ページ目

夢/歪んだ顔、ひっかかりごと

夢…と現実の境。

私は眠ろうとしている。
うつぶせで枕の下に両手を入れ、額を埋めて。
目をつぶるとひとの顔が浮かんでくる。何度かきけしてもぱちぱちしても浮かぶ。
こわくてなかなかねむることができなかった。

ずいぶん前からお世話になっているイギリスの女性がいて、そのひとに話したら
「あなたはちゃんとあっちゃんを忘れてないのね」
と言われる。
あっちゃんにこころあたりはあるがそのなんのことかわからず
「?」
という顔をしていると、やさしく、
「以上」
と話がおわる。


そしてそこで目が覚めた。

視点、反転

ワークショップで友達になったひとと話していて、はっとさせられたひとことがあった。

絵を描くときにその対象物に触れてその感触を絵に表しなさいと言われたけれど、それは客観的な感覚だと思った、
だけどあるダンサーのレッスンに行って、水になったり風になったりする、自分のなかから生み出すその感覚を知って自分の絵が変わった、

ということば。

自分の指が触れて感じるその感触は「客観的」と感じとり、表現することもできるのか!と、おもしろかった。
もしかして、これは写真を見て写真家のひとみを内に感じる気がする、その逆のかんじかたなのかもしれない…と、とりとめもなく考えた。
彼女の意図からは離れてしまっているかもしれないけれど、これは私の受け取った感触で、そこから生まれるなにかがあって…と、ぐるぐる。

私たちは自分の感覚から離れることもできるし(この場合は離れるというよりも遠い、ということだろうけれど)、逆に他の感覚をトレースすることもできる。
そのときに感じる距離感は、決して一定じゃない。


同時に感じたのは音楽と踊りの関係のこと。
ひかりとおどることの関係のこと。
音楽を聴いて踊っているうちはまだ「客観的」で、音やひかりのただなかにいてその境がわからなくなるとき、わたしはその動きのなかで生きるのかなぁと、思った。
このことを感じるのはもう何回目、なんだけど、また新しい方面からやってきたかんじ。
塗り直し、にじんでまた生まれ変わり。


ワークショップで新しい動きや挑戦に出会うことも素敵だけれど、こうして新たな感覚に出会うことって、たからものだ。

ワークショップ2・3日目/小さなお知らせ


2日目から、少しまわりのことを意識できるようになってくる。
今までは自分しか見る余裕がなかったのに、今は少し心を通わせる瞬間があって、それがうまくいってもうまくいかなくても心のなかでにやり、と笑ってしまう。

3日目の今日は、慣れてきたところでそれをまた楽なほうに落ち着けまい、ということを考えた。…といってもはじめるとなかなかそうはいかなかったけど。
コンタクトをしていったり、それぞれのインプロを見たりしてだんだん個性がわかってくる。それぞれの表現がおもしろくて、わくわくした。

動いているときはもちろん、始まる前や終わったあとにそんなにお互い話すわけでもなかったのに、なんだか不思議に近づいてゆけるのが嬉しい。
この同じ場に集まったということだけで通じあう要素はあるのだろうけど、でも、いちまいでもにまいでもいいから殻をむいてそこから生み出してみよう、と、だれもがしているこの場ならではのことかな、と感じた。

日曜日のショウイングは一般公開なんだそうです。
5日間でつくりあげたものだから、仕上がった作品というわけにはいきません。だけど今まさに発見中!の私たちを見られるかも。
もしみにきてくださるかたは、ぜひ。

無料です。

またね

私にとって高校時代はとても特別なもの。
あらゆる感情の芽のようなものをあの時代に手に入れたのではないかと感じている。
自由で、凛としてて、だけどいい感じに抜けていて…おもしろいひとばかりだった。先生たちも。たくさんいろんなこと見逃してくれたなぁ…。

自分の感情やアンバランスさを持て余したりもした。
ひとと本気で向き合ってもすれ違うことがあるんだと知った。
暗いひとみで空を見上げるしかない夜を知った。

だけど素敵な友人を得た。
踊りにであったのも、このとき。


高校時代を一緒に過ごした友人たちはなにか同士みたいな感じすらして、どんなにとおくにいてもきっといつまでも同じ時代を一緒に生きていくんだろうという気がしていた。
たとえあまり話したことのないひとでも、なんだか、あの時代をあの場所でともに過ごしたというだけで。


その高校時代の友人が土曜日、急になくなった。
いつもにっこにこ、運動神経もよくてなんだかふっと緊張感をといてくれるような、明るいひかりをまとったひと。同窓会でもいつも、あちこちの輪にふらふら寄って明るさを振りまいてくれるような。
いつでもまたあの笑顔にあえると思っていたのに…
ほんとうに急で、ほんとうに信じられない。

顔をみたらなんて言おうかな、って思っていたけど、ガラスを撫でることしかできなかった。

もー。
元気に、またみんなを集めてほしかったよ。
笑顔を見たかったなぁ。

ほんとに帰ってこないのかなぁ…


やすらかにね。

ワークショップ1 日目

自分のからだの中にまっさらに耳を澄ませることは難しい。
この、ただの物体としての複雑さ以上の絡まりを感じる。入り組んでいるだけじゃなくていらない、どこにも通じていない破片や糸くずのような雑念がなんて多いんだろう。
ただの管みたいにすとんとシンプルになりたいのに。
耳を澄ませて手を伸ばしてもかならずその雑につきあたって、遠回りをしたり、かえって閉ざしてしまったりする。

自分の体をある程度把握しているから、ということもあると思う。
動くことには慣れていて自分のなかにいくつかの動きのパターンがある。反応のパターンができている。
私はその、自分のからだの語彙の貧困さを知っているから、新しいものを探したくて耳を澄ます。
知っている動きは忘れて。通り一辺の、つくった演じ方をやめて。
なのに私のからだは、楽なほうを選ぼうとする。こんな動きを知っているよ。こんな表情やシチュエーションを持ってるよ。

インパクトに対して即座に反応して生み出して、それをこころや感覚だけの動きにとどめず表にまで膨らませる。
その過程に嘘があるのはいやだけれど、私は真っ暗な部屋でひとりそれをしたいわけじゃない。
だから、嘘と演じること、の責めぎあいの間でいつも曖昧な答えしか出すことができない気がしている。
だから、曖昧にしか見えないだろうと思うと冷や汗がでちゃうくらい。


昨日のワークショツプで久しぶりに長い時間コンタクトインプロをやった。
私はひとと接しながら動いたり、ひとと息を合わせたりすることが今のところとても苦手だ。
昔から動きが乱暴な質だし、もしかしたら細かく方向音痴だからかもしれない。
繊細に相手のちからの方向を感じ、意図を読み、反応を返す…というその一連の動きを繰り返すなかで、どこまで素直に物理に従えばいいのか、どこから意志が生まれていいのか、コントロールすることを忘れてしまう。
ということはつまり、からだが鈍いんじゃなくて考えることが鈍いんだなぁ。

からだとあたまがまだ喧嘩をしている。
からだが器用なところはあたまがそれを阻止するし、あたまがからっぽなところはからだが自由に動きすぎて見せるものにならないし。

そんなことを再確認しながらも、コンタクトインプロを長くやることでその体のなかのからまりがほぐれ、「さら」に近づいた瞬間が確かにあった。
接している部分のことだけを考えて、ただそのちから関係のことを皮膚で感じる。
相手のその手も迷っていることを感じる。
次どこへ導こうかな。
反対の手へ意識が移行する。
だんだん押し返しているのか私が導いているのかわからなくなる。


ワークショツプは4日間。
日曜日にshowingがある。
なにがみつかるかなぁ。


はなさんが先生と友達みたいで「見に行くねー」とか軽い感じで言ってたので、冷や汗がでた。