アマヤドリ -101ページ目

懐かしい路


久しぶりに成子神社を通った。
リハーサルの行き来にそこが気持ちいいよ、と教えてもらって。

木々がつくる影と日差しが交互にからだにかかる。後頭部に降り掛かりしみつくせみの声を聞きながら石畳に映る自分の影を踏む。

懐かしい。

子供のころなにが楽しくてなにが不安だったか、あまり覚えていない。
感じるものごとを、まるでことばをもたないもののように留めさせることなく飲み込んでは時間のなかに手放してきたような気がする。
夏休みはあんなに長かったのにわたしはいったいなにをしていたんだろうな。

景色は覚えている。
この長い道を歩くとちょうどたてものとたてものの間から夕日が強く差し込んできて肌をやいたこと。
お祭りのあと、階段と坂のさかいめにはたくさん500円玉が落ちていたことも。
丸いジャングルジムで深刻な話をしたこと、裏庭で待ち合わせをしてレシーブの特訓をしたこと。

日傘をさしながら、子供の頃は吸い込むように日差しに顔を向けてまぶたまでやけろ、と考えていたことをまた再び思い出す。
私はもうにどと、あの頃に戻ることはないのだ。
どんなに望んでも12歳だったわたしには帰れない。
なにを考えていたのか聞きたくても。どんなふうに世界を見ているのか聞きたくても、にどと。


そのころの友達とご飯を食べた時にちょっとしたことをメモしてもらったのだけれど、その時ふと、むかし一緒に勉強したことを思いだした。
まったく忘れていたのに、彼女が鉛筆を握るその手のかたちや文字が生まれていく様子は、もりもりと私の記憶を呼び覚ました。
デジャヴじゃないかと思うくらい。


なんていろんなことを忘れちゃうんだろう。
胸の奥深くが静かに、きりきりとなみだを流す。
時間のなか残してきた残像への懐かしさと、いとおしさに。

18:08、aout

ぎゅっとしたかたまりをこころのなかに飼っていたらだめだな。
わたしらしくない。

…いや、わたしらしい。

でもそれを手に余るほど長く持ちつづけて、腐らせてしまうのはわたしには合わない。

なにが苦しいのかな、疲れているだけなんだろうか、とほったらかしにしておいたものに、ささくれが生まれる。
何をするにもそれがひっかかって、ちょっとした痛みが走る。
そのほんの端を指でつまむ事さえできれば、すぐには核心に迫れなくても、するすると辿るうちに埃を被った皮が消え、白い本体が見えてくる。
この作業ができる相手がいる、というだけで私は救われる。
問題そのものが解決しなくても。

そのきっかけとはちょっとお昼を食べた友達かもしれないし、ちょっと立ち寄ったmixiの日記の一文であるかもしれない。
日記につけてもらったコメントかも。


生き返ったように感じたり、もう行き止まりだよと弱音を吐きたくなったり。
どんなものでも吸い込んで透明にしてみせると思えたり、自分が無くて、周囲の色がただ堆積してゆくだけのように感じたり。


外は夜の闇がくるまえの、肌に染みそうなあお。

ローザンヌガラ感想 1

やっぱりこういうオープニングで始まるのね!と初めてのローザンヌガラ。
2階席からだからちょっとそれぞれの表情が見えなくて残念だったけど…。

私が素敵だと思ったのはくるみを踊った女性。
たおやかでやさしくて、という印象が確かなテクニックを包んでいる。これ、たぶんこの方の内面もあると思うんだけど…。
これがバレリーナから見てどうなのかわからないけれど、地面と足の関係がいいなと思った。
ほんとうは私はよく跳ぶダンサー、ちょっとした動きのなかに鈍さが感じられない、感覚で踊るダンサーが好き。
この方はどちらかというと地面から離れるとぶれるタイプだった。跳躍も高くはないし(もしかしたらあえてそう踊ってらしただけかもしれない、けれども) ちょっとしたところでどこかがおいてきぼりになる。
なのに、床とすごく密、というか、大切にちからをもらっている感じは見ていて膝をそろえちゃうようだった。
丁寧に踊ること。
そうだそうだ。


そしてお友達の出ていた作品。
よくもここまで!というくらいあらゆる動きを入れていた。
本当にからだのきく二人だったなぁ…無駄なステップがない。
動きはわりと無機的なのに、ドラマティック。

ただすごーく残念だったのは照明…どうしてオレンジのライトがあんなに見づらい色なの?ちょっと赤すぎる。黒板に赤で字を書いたら見にくいみたいに、ちょっと見づらかった。

構成と踊り手が作品をドラマティックに仕上げているのだから、照明があんなふうに劇的に変化しないほうがよかったなぁ、と思う。小さな劇場ならあの範囲の変化はおもしろいかもしれないのだけれどなにしろ人に対して光のあたる範囲が広いからものすごい場面転換に見えてしまって…これなくても素敵なのになぁ、と思った。

作品はおもしろかった。
好きな音楽だったし。
もっと彼の踊りを見てみたいと思う。


つづく。

舞台稽古開始、ローザンヌガラ

稽古が本格的に始まったとたんものすごい筋肉痛…だったのだけれどそれも過ぎ、ひとのからだはすごいなぁと改めて思う。
がむしゃらに踊るのも私らしいけれど、からだのことを把握してコントロールしながら動くことをもっと知りたいと思う。

どうしてもまだイメージがつかめない。
何回目なんだ、と自分に呆れもするけれど。
自分がぱっとイメージできるものは多少こんがらがったことでもすぐに動けるし忘れない。だけどイメージのつかないものは何度繰り返してもその手順を追うばかりで踊った気がしない。
イメージからからだへ、の順路はスムーズなのだな。
詳細を練って全体像につなげる回路を通じさせなきゃ。

気持ちのいいところで踊りたい。
だから今はへとへとになる覚悟を決めよう。



これから友人の出る、ローザンヌガラを観にゆく。
どんな作品なんだろう。
楽しみ。
イメージのあみめに血が通うように、今日はみてみよう。

複雑なせかいと単純なこころ

意識したわけじゃないのに、戦争にまつわる映画を立て続けに観た。
『麦の穂をゆらす風』と『戦場のピアニスト』と…これは戦争の映画じゃないけど、『ハウルの動く城』。
前の2本であまりにも気持ちがふさいだのでハウルを流し観したのだけれど、みてよかった。このしめがなかったらどんよりした気持ちがぬけなくてたまらなかっただろう。

私はひとを殺したくないし殺されたくないし、誰かのだいじなひとを奪いたくないし奪われたくないし、
だから戦争はいやだな。
もっと本当は難しいあれこれがあるのもわかっている。
だけどこの感覚だけではどうしていけないの?と、わからず屋の子供みたいにこころのどこかが叫ぶ。
理由なんか、それだけでいいじゃない!というふうに。

善悪があるから闘いがあるわけではない。
だけど私のこころが必死に叫んでいるこの感覚。
それが覆されてしまうことっていったいなんなんだろうか。