東京湾花火大会
仕事がだいぶ長引きそうなのであきらめてこつこつ働いていたら、今日は東京湾花火大会だということを思い出した。
職場の人が、じゃあ屋上まであがって見る?とつれていってくれたので見ることができた。
思いのほか東京湾は近くて、特等席で眺めることができた。
花火をみながら、おわらないで欲しいなと思う。
花火がおわると夏がおわったような気持ちになるから。
もちろん、すぐに暑さが思い出させてくれるんだけど。
たくさんのヘリコプターが飛んでいて隅田川のときにはあそこから眺めたんだっけ、と思う。
するとペルセウスの方から星がおちてきて、蒼く燃え尽きた。
落差、裏付け、かたより
今日はいつものアイドリングが聞こえない。
金曜の晩らしく笑い声が聞こえ、そしてセミの声。
日差し避けにかけたすだれの内側にいるとやっぱりひとつ、街の音もとおい。
ターシャ・テューダーにしてもトーベ・ヤンソンにしても野上照代にしても、このところこころひかれるひとには共通項があるような気がする。
自分をとりまく世界に対してもったいぶらずに情熱を溢れさせながら、その対峙のしかたは、自身のこころの深いところを穏やかにたどるやりかたとなんらかわらない。
慎重さと静けさと、確信。
同時にこころが存在している。
引くことや計算ではなくて、自身がどうありたいかをきちんと知っている。
つりあいを取りながらも、微笑む。
私がこうありたいのかもしれないという像を投影しているにすぎないかもしれないけれど、
こうありたいのかもしれないと気付いたことが大きい。
おどけすぎたり、軽んじられておこうとするのは悪いくせ。
楽なところに逃げたいだけなのだ。
偏っていることを認めるのも。
私には、わたしの居場所があるから、と保留にしていることのなかに、実は見いだせるものがあることに気付かないなんてもったいない。
居場所、であるはずのものをがんじがらめにしてしまうだけだ。
ぱしーんと割れて、もう欠けらすらみえなくなってちりぢりに、
そうしていちから、
とできたらいいんだけど。
風にふかれてしまうほどに軽いことと、すべてを抱いて翔ぶことと
ターシャ・テューダーの庭を見て、庭いっぱいに咲き乱れる色とりどりの花や、土を掘り返すターシャの手、花畑をぬって歩くたなびくスカートや輝く髪を写真に撮ってみたいなあと思った。
だけどそこでふと、今の私が写真にすることができるのはほんの一瞬の今をぶしつけに切り取ることなんじゃないかということに思い当たり愕然としてしまった。
これまで積み重ねてきたすべての時間をあらかた無視して急に今割り込み、あたかもそのすべてを知っているかのように切り取る。
きっと撮られたひとは、この写真でなにがわかるの?と思うだろう。
綺麗に撮ってくれてありがとう。だけど昨日のわたしも明日のわたしも、ここにはない。
ここに写っているのはうすっぺらなひかりがとらえた、行儀のよい肖像画。
感じるのは写真を撮っている私の、ほんの表面をなぞって満足している自分勝手な好奇心。
そうだ、ほんのうわっつら。
私がほんとうに愕然としたのは、私はいまだにからっぽなのだということにゆきあたったから。
毎日何かに触れる。感動を味わうこともよくある。ときには生まれ変わったのではないかと思うくらい強烈な印象の感覚もそこにはある。
だけど私のなかにはいったい何が積もっていっているだろうか。
表面を波立たせる風に私は手を伸ばし、ときおり息をする。太陽の光をあびる。星のきらめきを眺める。
だけど足がかいている冷たい水の奥底は相変わらずがらんどうで、呼吸の音がしない。見下ろしてみてもぽかんと闇がひろがるばかり。なにかいる。なにかいるけれど、アメーバみたいに不確定でイメージとしての自覚すらない。
なにを、手にしてきたのか。
どこを歩いてきたのか。
指でたどったかたちや足の痛みやこのこころが咀嚼してきたはずのものはいま、この私のどこに?
このごろ感じていたアンバランスさはまさにこれだった。
わたしは、からっぽなのだ。
からっぽでうすっぺらなのだ。
焦る必要はないのに、誰のために、何のために急ぎ足で通り過ぎてきたんだろう。
本質を掴んでもいないのにどうして次のものに手を出せたのだろう。
なんとなく感じ取ることと、雰囲気だけを鵜呑みにすることは違う。
今このわたしのなかにつまっている隙間は余裕じゃない。
だからちかごろ、何かをいれようとしているのに蓋が開かないみたいに、かつんと音をたてるのだ。
ぎゅうっと心が拒否しているようにぱんぱんで相容れないのだ。
私のなかに透明なぶぶんが見えるとしたら新しい光ばかり見ているからなんじゃないだろうか。
筒抜けにあらゆるものをおっこどして、そのことにも気づかず能天気で笑ってきたから、では?
なにもつもっていないのに「すごいね、素敵だね!」って、さも色んなものがこのこころに染み込んでいるように錯覚をしてきたのでは?
だから、負ける、と思う。
私には私が今日見た彼女のことすら、満足には写真にできない。
もちろん当たり前のことなんだよ。
私は写真家ではないのだから。
だけど結局すべてがそういうことなんだ、と思うから。
だからからだがすっと冷えた。
うすうす気づいていたことをかたちにしてつきつけられたような気がした。
だけどしあわせなこと、とも思う。
私がまだまだその一歩も踏み出せていないことをこうしてちょっと自覚できたのだから。
そして同時に、こういう性分の自分を知ることも大事で、こうありたい、と目をきらきらさせることばかりが前へ進ませてくれるのではないと、味わったのだから。
はじめてのお風呂
まだ明るいうちからお風呂にはいることにした。
お友達の作った曲をお風呂CDプレイヤーでかけながら風呂釜を磨く。
ターシャ・テューダーのおかげだ。私の動作はいつもよりずっと丁寧。少なくとも、今日のうちくらいは。
見慣れないことをしている私をちゅんが追う。
脱衣かごにちょこんとつかまって私の動向をうかがい、今肩に飛び乗ろうかやめようか、を繰り返している。ジレンマをからだ全体でみせてくれる。
ちゅんはお風呂が怖いのだ。
いつだったかお風呂に入ろうとする私からちゅんがいっこうに離れないので、たわむれに風呂場に備え付けの棒にとまらせてみた。
最初はじっとしていたけれど、湯船から湯気がたちのぼり私がちゅんの名を呼んだ途端おおあわてで外に飛んでいってしまった。
去り際に私が浸かっている湯船のなかにふんを残して。ささやかな仕返しのつもりか。
きっとぼわんと響く声も、しろっぽい空間自体も、ドアを閉じてじゃぶじゃぶも、なにもかもが謎に満ちていて怖いのだろう。
その気持ちはよくわかる。
脱衣かごからちゅんは一生懸命長くなって私を覗こうとしていた。つんのめっては羽根をばたつかせてピーッと苛立ちをあらわしたりしている。
おもしろいから、かごをドアのまん前に移動してドアを開けたままお風呂に入ることにした。
いいかおりのするバスソルトを多めに入れて、湯槽のふたを半分閉じ、そこにお風呂CDプレイヤーとお水と本を持ち込む。
ドアの外には好奇心でぱんぱんのちゅんの顔。
まだ外は明るく、せみの声が入り込んでくる。
なるべく激しく動かないようにし、響くような声をたてないように。ほら、恐くないんだよ、と水を見せたり気持ちよさげな顔をしてみたりのアピールを続けていた。
ちゅんは内側に開いたドアの把手まで進出してきた。
自分からここまで入り込んだのは初めてで、きっと大冒険なんだろうなぁと微笑ましい。
緊張感が高まりすぎるからなのかただの気紛れか、また脱衣所まで退避してしまう。
また把手へ。
脱衣所へ。
たまに、台所のほうでバナナをもらったりして。
何回目かの把手のあと、ちゅんは湯槽のふたにぽとんと降り立ち、そろそろと端っこまでぴょんぴょん寄ってきて私がなにに浸かっているのか、どのくらいの深さなのかを見定めにやってきた。
覗くからだ全体から緊張感がびしびしと発散されているからおかしい。不器用で可愛いやつ。わかりやすすぎだよ。
脱衣所、把手、ふた、をまた何度か繰り返したのち、私の頭にとまった。
ちゅんからみなぎる好奇心から、私はもうこいつはほどなくおちるな、と確信していた。
だってもう、あたまをつかむ足の裏の温度が、ほんきだ。
かなり汗だくになってそろそろあがりたい気持ちになってはいたのだけれど、ここまできたら逃せない、と頑張って誘う。
かるく無関心さを装いながら、時折深く身を沈めてみたり、両手でお湯を掬ってやさしく流れを作ってみせたり。
ちゅんはまんまと頭から肩へ降り、たてた膝へ丸くつくった腕を伝って恐るおそるお湯へ近づいていった。
長いしっぽが浸かり足が浸かりしても平気な顔をしていたから温度は大丈夫なのだな、と安心したとたん、ばちゃっと、なんとも不器用に飛び込み(というか落ち)、ぱちゃぱちゃっとお腹だけ濡らしたかと思うと慌てて変な格好のまま把手へ戻っていった。
そうとうどきどきしてるみたいでしきりに足踏みをしている。羽根もうまくたたまれていない。
だけど自分がお風呂に入れたことがうれしいようだった。
私がうれしかっただけかもしれないけど、でも確かにちゅんはやったぞ、という顔をしていた。
そのあと、水浴びの時いつもそうであるようにちゅんはもう一度ぱちゃぱちゃをやりにきた。
それからちょっとほっとしたように羽根を乾かしていた。
大冒険だったね、ちゅん。
トイレに慣れ、ついに風呂場の謎も解いたね。
しかも今度はここは人間がが自分でいうところの「水浴び」をするところだということまでわかった、のかもしれないね。
そうして発見してゆくことはどんなにかちゅんののうみそをばりばりと押し広げているんだろう。毎日私たちからいっときも離れず行動をともにして、ことあるごとにちゅんは発見したり、謎をといたり、なにかとなにかが繋がったりしているんだろうね。
モノリスだね。
次の世代の知的生物は翼があるかもしれない。
また一緒にお風呂に入ろう。
だけどちゅんが出ていったあと、死んでぺちゃんこになった小さな虫が湯船に浮いていたよ。
いつからそんなもの、くっつけていたんだい。
ターシャ・テューダーの庭
ずいぶん前に録画していた『喜びは創りだすもの~ターシャ・テューダー四季の庭』を見た。
私がおばあちゃんのうちに遊びにいって感じるゆったりとした時間や、丁寧な毎日のことを思い出した。
どうしてそれに惹かれるのかということの謎のはしっこが、こころのどこかでほどけた気がする。
ターシャは3歳の頃に見たグラハム・ベルの庭に咲くロサ・ユーゴニスという黄色いバラを見て花に心ひかれたという。
90歳のおばあちゃんの庭というから、もっとこぢんまりしたものだと思っていた。
だけどターシャの庭は東京ドーム20個分の広さだそう。ほとんど森だ。
おうちは息子さんの手作り。石垣はコンクリートのつなぎを使わない。好きな花ばかりを集めてひとつひとつ手で植えた、楽園みたいな場所。
毎日歩いて枯れた花をおとし、土の様子を見、にわとりとコーギーと一緒に草むしりをする。
何十年もまいにち積み重ねられた目と手が庭をくぐってゆく。庭は彼女を信頼して、自由に体を伸ばしている。
まいにちまいにち。
私のまいにちとはきっと全然ちがう。私に流れているじかんとは全然ちがう。
なにより、私がまいにちみているものへのまなざしと、ぜんぜんちがう。
彼女のことばはほんとうに穏やかだ。
英語のニュアンスがわからないから私が読み取れるのはその音の響きからにすぎないけれど、ゆっくりと確かで、だけど見逃さないような。見逃さないって目を光らせて赦さないということではもちろんなくて…。
だからといって全部をくるんで手放しに甘やかせてしまうのともまた違う。そこにあるものをあるがままに認め、どんな風にそこに自分が向かえばよいかということを知っている。
そんなかんじ。
世界から自分だけが浮いてしまうことなく、一緒に生きているってこういう感じなのではないかなあ…。
庭にはたくさんの花が思いおもいの場所に咲き乱れている。実際には好き勝手に生えているわけではなくて、ターシャの長年の経験と試行錯誤の積み重ねで一番生きいきと咲ける場所に植えられている。
冬は花たちが眠る季節。
ターシャは秋から寒さに弱い花たちを温室に入れたり、来年の春に咲く花の球根を植えたりする。
ひとつひとつ、手で。
私はめんどうくさがりやだからこういうまめな仕事のことを考えると目が回ってしまう。ターシャの生活は素敵だと思うけれど実際自分がこの生き方をできるかというとそれは難しいだろう。
こんなふうになれたらいいのにという憧れがあることは確かだけれど。
「楽しいことはそれを待つ喜びも嬉しいのよ、春は必ずやってくるのだから」と彼女は言う。
生きてゆくことは毎日の積み重ねだし、そこには苦労があって、時間の消費があって、汗とかすり傷とかがあって、だけどそういうものを当たり前のこととして受け入れることは私にとって簡単ではない。
どこかが変わることが必要。
変わりたいという大きなきっかけが今はまだないけれど。
だからしばらくは憧れつづけるのだろう。
こんな庭にも、おばあちゃんのうちで感じる時間の流れにも。
手はふたつしかなくて一歩の長さは決まってる。
一日の時間がきまっているからできることは限られてる。
限られていないのはこころがかんじることのおおきさだけ。
「幸せとは、心の持ち方の事」ということばは決して初めてきいたことばじゃない。
だけどこの生きかたを感じたあとで聞くとまた全然ちがうものになる。
私がおばあちゃんのうちに遊びにいって感じるゆったりとした時間や、丁寧な毎日のことを思い出した。
どうしてそれに惹かれるのかということの謎のはしっこが、こころのどこかでほどけた気がする。
ターシャは3歳の頃に見たグラハム・ベルの庭に咲くロサ・ユーゴニスという黄色いバラを見て花に心ひかれたという。
90歳のおばあちゃんの庭というから、もっとこぢんまりしたものだと思っていた。
だけどターシャの庭は東京ドーム20個分の広さだそう。ほとんど森だ。
おうちは息子さんの手作り。石垣はコンクリートのつなぎを使わない。好きな花ばかりを集めてひとつひとつ手で植えた、楽園みたいな場所。
毎日歩いて枯れた花をおとし、土の様子を見、にわとりとコーギーと一緒に草むしりをする。
何十年もまいにち積み重ねられた目と手が庭をくぐってゆく。庭は彼女を信頼して、自由に体を伸ばしている。
まいにちまいにち。
私のまいにちとはきっと全然ちがう。私に流れているじかんとは全然ちがう。
なにより、私がまいにちみているものへのまなざしと、ぜんぜんちがう。
彼女のことばはほんとうに穏やかだ。
英語のニュアンスがわからないから私が読み取れるのはその音の響きからにすぎないけれど、ゆっくりと確かで、だけど見逃さないような。見逃さないって目を光らせて赦さないということではもちろんなくて…。
だからといって全部をくるんで手放しに甘やかせてしまうのともまた違う。そこにあるものをあるがままに認め、どんな風にそこに自分が向かえばよいかということを知っている。
そんなかんじ。
世界から自分だけが浮いてしまうことなく、一緒に生きているってこういう感じなのではないかなあ…。
庭にはたくさんの花が思いおもいの場所に咲き乱れている。実際には好き勝手に生えているわけではなくて、ターシャの長年の経験と試行錯誤の積み重ねで一番生きいきと咲ける場所に植えられている。
冬は花たちが眠る季節。
ターシャは秋から寒さに弱い花たちを温室に入れたり、来年の春に咲く花の球根を植えたりする。
ひとつひとつ、手で。
私はめんどうくさがりやだからこういうまめな仕事のことを考えると目が回ってしまう。ターシャの生活は素敵だと思うけれど実際自分がこの生き方をできるかというとそれは難しいだろう。
こんなふうになれたらいいのにという憧れがあることは確かだけれど。
「楽しいことはそれを待つ喜びも嬉しいのよ、春は必ずやってくるのだから」と彼女は言う。
生きてゆくことは毎日の積み重ねだし、そこには苦労があって、時間の消費があって、汗とかすり傷とかがあって、だけどそういうものを当たり前のこととして受け入れることは私にとって簡単ではない。
どこかが変わることが必要。
変わりたいという大きなきっかけが今はまだないけれど。
だからしばらくは憧れつづけるのだろう。
こんな庭にも、おばあちゃんのうちで感じる時間の流れにも。
手はふたつしかなくて一歩の長さは決まってる。
一日の時間がきまっているからできることは限られてる。
限られていないのはこころがかんじることのおおきさだけ。
「幸せとは、心の持ち方の事」ということばは決して初めてきいたことばじゃない。
だけどこの生きかたを感じたあとで聞くとまた全然ちがうものになる。
- トーヴァ マーティン, Tovah Martin, Tasha Tudor, Richard W. Brown, 相原 真理子, ターシャ テューダー, リチャード・W. ブラウン
- ターシャ・テューダーのガーデン

