落差、裏付け、かたより | アマヤドリ

落差、裏付け、かたより


今日はいつものアイドリングが聞こえない。
金曜の晩らしく笑い声が聞こえ、そしてセミの声。

日差し避けにかけたすだれの内側にいるとやっぱりひとつ、街の音もとおい。


ターシャ・テューダーにしてもトーベ・ヤンソンにしても野上照代にしても、このところこころひかれるひとには共通項があるような気がする。
自分をとりまく世界に対してもったいぶらずに情熱を溢れさせながら、その対峙のしかたは、自身のこころの深いところを穏やかにたどるやりかたとなんらかわらない。
慎重さと静けさと、確信。
同時にこころが存在している。
引くことや計算ではなくて、自身がどうありたいかをきちんと知っている。
つりあいを取りながらも、微笑む。

私がこうありたいのかもしれないという像を投影しているにすぎないかもしれないけれど、
こうありたいのかもしれないと気付いたことが大きい。


おどけすぎたり、軽んじられておこうとするのは悪いくせ。
楽なところに逃げたいだけなのだ。
偏っていることを認めるのも。

私には、わたしの居場所があるから、と保留にしていることのなかに、実は見いだせるものがあることに気付かないなんてもったいない。
居場所、であるはずのものをがんじがらめにしてしまうだけだ。


ぱしーんと割れて、もう欠けらすらみえなくなってちりぢりに、
そうしていちから、
とできたらいいんだけど。