風にふかれてしまうほどに軽いことと、すべてを抱いて翔ぶことと
ターシャ・テューダーの庭を見て、庭いっぱいに咲き乱れる色とりどりの花や、土を掘り返すターシャの手、花畑をぬって歩くたなびくスカートや輝く髪を写真に撮ってみたいなあと思った。
だけどそこでふと、今の私が写真にすることができるのはほんの一瞬の今をぶしつけに切り取ることなんじゃないかということに思い当たり愕然としてしまった。
これまで積み重ねてきたすべての時間をあらかた無視して急に今割り込み、あたかもそのすべてを知っているかのように切り取る。
きっと撮られたひとは、この写真でなにがわかるの?と思うだろう。
綺麗に撮ってくれてありがとう。だけど昨日のわたしも明日のわたしも、ここにはない。
ここに写っているのはうすっぺらなひかりがとらえた、行儀のよい肖像画。
感じるのは写真を撮っている私の、ほんの表面をなぞって満足している自分勝手な好奇心。
そうだ、ほんのうわっつら。
私がほんとうに愕然としたのは、私はいまだにからっぽなのだということにゆきあたったから。
毎日何かに触れる。感動を味わうこともよくある。ときには生まれ変わったのではないかと思うくらい強烈な印象の感覚もそこにはある。
だけど私のなかにはいったい何が積もっていっているだろうか。
表面を波立たせる風に私は手を伸ばし、ときおり息をする。太陽の光をあびる。星のきらめきを眺める。
だけど足がかいている冷たい水の奥底は相変わらずがらんどうで、呼吸の音がしない。見下ろしてみてもぽかんと闇がひろがるばかり。なにかいる。なにかいるけれど、アメーバみたいに不確定でイメージとしての自覚すらない。
なにを、手にしてきたのか。
どこを歩いてきたのか。
指でたどったかたちや足の痛みやこのこころが咀嚼してきたはずのものはいま、この私のどこに?
このごろ感じていたアンバランスさはまさにこれだった。
わたしは、からっぽなのだ。
からっぽでうすっぺらなのだ。
焦る必要はないのに、誰のために、何のために急ぎ足で通り過ぎてきたんだろう。
本質を掴んでもいないのにどうして次のものに手を出せたのだろう。
なんとなく感じ取ることと、雰囲気だけを鵜呑みにすることは違う。
今このわたしのなかにつまっている隙間は余裕じゃない。
だからちかごろ、何かをいれようとしているのに蓋が開かないみたいに、かつんと音をたてるのだ。
ぎゅうっと心が拒否しているようにぱんぱんで相容れないのだ。
私のなかに透明なぶぶんが見えるとしたら新しい光ばかり見ているからなんじゃないだろうか。
筒抜けにあらゆるものをおっこどして、そのことにも気づかず能天気で笑ってきたから、では?
なにもつもっていないのに「すごいね、素敵だね!」って、さも色んなものがこのこころに染み込んでいるように錯覚をしてきたのでは?
だから、負ける、と思う。
私には私が今日見た彼女のことすら、満足には写真にできない。
もちろん当たり前のことなんだよ。
私は写真家ではないのだから。
だけど結局すべてがそういうことなんだ、と思うから。
だからからだがすっと冷えた。
うすうす気づいていたことをかたちにしてつきつけられたような気がした。
だけどしあわせなこと、とも思う。
私がまだまだその一歩も踏み出せていないことをこうしてちょっと自覚できたのだから。
そして同時に、こういう性分の自分を知ることも大事で、こうありたい、と目をきらきらさせることばかりが前へ進ませてくれるのではないと、味わったのだから。