経済学における価格理論
モノやサービスの値段である価格がどのように決定されるか。このきわめて大きな問題に、経済学が一つの回答を出したのは1870年ころにさかのぼる。これは、前に概見した需要と供給の考え方である。
なお、需要とは、家計・企業などの経済主体が市場において購入しようとする欲求であるが、経済学では、購買力に裏づけられたものをいう。この、購買力に裏づけられているという点が重要で、需要と供給の不一致を解消するためには、財の数量を調節すること(数量調整)しかできないという、ケインズの考えに裏づけられている。
いっぽう、供給とは必要に応じて、物を提供することである。
需要と供給の考え方は簡単にいえば、需要と供給の均衡点に価格が決まる、という考え方である。いいかえれば、良いものであれば需要が多いので値段が高くなり、悪いものであれば需要が少ないので値段が安くなる、ということである。医療ではこの考え方が当てはまるのであろうか。そもそも、医療サービスの購入において、買う、という感覚があるのであろうか。
買う感覚がない医療
なにかを「買う」ということは、きわめてよくあることである。映画のチケットを買う、化粧品を買う、レストランで食事をする、大きなものでは自動車を買う、家を買う。それらには当然であるが値段、すなわち価格がついている。
医療費の支出は、家計にとって大きなものであるが、医療の場合に「買う」という感覚がある人は好きないと思う。より正確にいえば、病院や薬局で提供されるサービスや、薬剤、情報などを、「買う」ととらえている人は少ないのではないか。
なにかを「買う」ときには、値段を考える。買うものの価値と値段を秤にかけて、価値が大きいと思えば「買う」し、小さいと思えば「買わない」ことになる。そして、この決定はその人の持っているお金の量によっても影響される。持っているお金が多ければ、多くのもの、高いものを「買う」し、そうでなければ「買わない」ことがある。なぜ医療で「買う」という感覚がないのかは、まさにこの点が重要である。日本では国民皆保険制度によって、国民が価値を意識することなく、医療サービスを受けているからである。
いっぽうでは、アメリカのように、皆保険制度もなく、保険を民間にゆだねている国にとっては、医療はまさに買うものである。
いのちの沙汰も金次第?
ところで、医療が扱う「いのち」というものは、人間の存在そのものであるがゆえに、値段と天秤にかけることができないとう解釈がある。要するにそもそも命とお金は秤にかけることができない、というわけだ。一見、正しそうであるが、実はこれは間違っている。ショッキングな話ではあるが、「いのち」も金次第のところがあるのである。新たな「いのち」を買うことはできないが、もしかするといまある「いのち」についてはちがう解釈ができるかもしれないのである。
たとえばアメリカでは医療保険に加入していない人が大勢いる。しかも医療はかなり高額である。こういった人たちは、病院に支払うお金が手元にないときには医療が受けられない。手遅れで死ぬこともある。自分の病気の状態と財布とを秤にかける。すなわち、「いのち」を買うことになる。このような状況では、医療を「買う」値段もきわめて重要になるし、買うものの価値と値段を秤にかけることになる。「いのちの沙汰も金次第」という部分があるのである。
いまの日本では、お金と価値を考えないで医療を買う人が多いが、こんどは医療の質と価格との関係が問題になってくる。もし受けられる医療が、病院によって値段がちがったらどうだろうか。
値段で価値を判断する
なにかを買うときに価値を見極めることはきわめて重要である。しかしながら、その「なにか」の価値はそんなに簡単にわかるものばかりではない。そのものの価値がわからないときにはどうするのか。そんなときには値段で判断することも多いのではないだろうか。すなわち、実際の世界では、「高いものほど価値がありそうだから買う」ということがありうるのである。
値段でそのものの価値を判断することが多いものは、そのもの自体がわかりにくいものである。高度な技術を使った機械などはそうであろうし、不動産、自動車の修理や化粧品などもそうかもしれない。逆に、食品や日用品の多くは値段が質を反映するものであろう。
では、医療はどうか?まさにわからないものの代表である。前述した不確実性の話になるが、どんな名医であっても、目の前の人の病気を100%当てることはできないし、治療することもできないのである。いいかえればそれほど人間の体は複雑だし、医学にはまだまだあまりにも多くの限界があるし、医師もそうなのだ。
となると、どうであろうか。病院によって値段に差があり、値段が高い病院がよい病院だという話が広がれば、みな値段の高い病院に行くであろう。場合によっては、「うちのおじいさんが入院したとき、こんなにお金を払ってできることはすべてやったんだから、死んでしまっても悔いはない」といった考えも出てくるかもしれない。そして、そのうちあくどい人が、内容はよくないのに値段を高くするかもしれない。なぜならそれを買う人には価値が評価できないので、値段が高いから内容もよいと思って受診する人が増えるため、そのほうが儲けられるからだ。
しかし、安心してほしい。現在の日本の医療では、値段が高い病院がよい医療を行っているとはいえない。
というより、日本の場合には医療の値段が公定価格であるために、よいものが高いというような一般常識が通じない世界になっているのである。しいていえば現在の診療報酬は「多くのことをしてもらえばもらうほど高い」という料金体系である診療報酬のなかの一定の割合であり、この診療報酬は、医療機関で行った行為や病気によって異なっている。たとえば、ある病院では糖尿病の入院日数は平均二十日から三十日で、入院費用は平均四五万円から六四万円である。同じ糖尿病でもコストがちがうのは、主に医療行為の差、すなわちインシュリンの使用の有無や、病気の重さ、すなわち合併症の有無、程度の差によるものであり、担当医や医療技術による差は少ない。
つまり、医療の良し悪しには大きな関係はないのである。
もちろん、この考え方に安心できない人も多いと思う。すなわち「価格の差によって質がよいか悪いかを判断できない」ということにもなるので、上述したように、医療サービスの内容や質が情報の非対称性などのために評価できない、おまけに値段でも判断できないということになると、受けたい医療をどうやって選択すればよいか、という疑問が出てくる。
なぜ、よいものの値段が高くないのか
個別の話に入る前に、なぜ、よいものに高いお金を払うのが当たり前、という常識が医療では通じないのか確認しておこう。
まず、無責任のように聞こえるかもしれないが、医療を提供する医師にとっても、これで100%完璧といえないことがある。したがって、医師側も「最善を尽くすことで患者さんにもっともよい価値をもたらすようにがんばる」という考え方がベースになっている。そこには対価としてのお金は発生するが、よい結果だったから値段が高いとか、よいものを提供したから値段が高い、という考え方がないのである。
また、よいものを提供したから値段が高いという制度では、所得の低い人がよい医療を受けることができない可能性が高くなってしまう。
ただし、医療も多様化している。したがって、医療の本質的な部分である病気の治療との関連が薄い、美容形成、病室の快適さといった部分については、公定価格ではない。
参入の制限
医療に関する価格について眺めたついでに、もう一つ医療界で市場を重視する経済学者から批判されている点を考えてみよう。それは医療産業では、新規参入が行いにくい点である。この新規参入の規制とは主に病院や診療所を指す。なぜなら、医療周辺のさんぎょう、たとえば製薬業では、なんら参入の制限はないし、実際にバイオベンチャー企業などな新しく創立され、株式市場に上場したものもある。また、医療周辺のサービスにおいても、医療事務の請負や医療給食の外部委託なども新規参入の制限はない。
経済学では、独占はよくないものとされる。経済学では、市場が適切に働けば、その働きによって資源がもっとも効率的に配分され、人びとの厚生がもっとも高くなる(パレート最適)という考え方があるので、それを達成するために、独占はよろしくない、ということをいっているのである。
これについては後に、医療をめぐる規制との関連でもう一度考えるが、医療の場合には、医師でなければ医業をなしてはならない(医師法第一七条)、株式会社は病院経営ができない(医療法第七条)といった規制があり、そこに非医師や株式会社が参入することは事実上むずかしい。
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