hey‼︎

いつまで愛想笑いをしているのかね

いつまで見て見ぬ振りをしているのかね

いつまでいい人を演じ続けていくのかね

君は。



自分で終わらせる勇気は
そこにないの?




あんたは悪くない。

間違えたんじゃなくて、
違っただけ。

そこには必ず真実の想いがあって、
その時そうするしか選択はなかったの。


ただ、違っただけ。



これ以上自分に嘘はつかないで。

これ以上無理に責任を果たそうとしないで。



あんたのその気持ちが伝わってきて、
痛いほど伝わってきて、

悲しくて、悔しかったよ。




ゴメンね、思った人じゃなくて。


あんたの思った人になろうと頑張ったけど、なれなかった。
ゴメンね。


嫌味とかじゃないんだよ。
ほんとに謝ってるんだよ。



なろうとすること自体が間違ってたんだろうね。

わかってたの。

わかってたんだけどね。

ただ嬉しかったんだ。

ありがとうね。



だからこそ、
期待通りじゃ無かったみたいで、
申し訳なくて。
ゴメン。



けど、

私は楽しかった。幸せでした。
今年入って1番目の恋愛でした。


初の海外旅行も、
国内ドライブ旅行も、
安心で、穏やかで、心から癒されました。

いっぱい美味しいもの一緒に食べれて
幸せでした。お店たくさん調べてくれてありがとう。


1人では経験出来なかったことばかりです。ありがとう。




私はそれだけで十分なんだけど、



あんたはまだまだ若いし、
いろんな経験もしたいだろうし、
もっと尊敬できる人とお付き合いしたいんだろうな。


と思って、私は身を引きます。



勝手に疑心暗鬼になってるだけかもしれないけど、



そう思ってしまうのが私。
そう思わせてしまうのがあんた。



どっちもどっちかな。




荷物は送るから住所教えてね。


結局あんたの半分も知らないままな気がします。


次はもうちょっと自分の気持ちを伝える努力してね。


生まれ変わってもまた会おう。

じゃあね。バイバイ。




と言いたい。
Life is choices. 

これは戸田奈津子さんのおことば。

本当にそう思う。

だからこそ、人の人生は千差万別。

みんなそれぞれの人生の分かれ道が場面場面であり、
自らそれを選択することでまた新たな道が開かれる。

三十路を過ぎれば、
どれだけ近しい人間、例えば、学生時分、同じような環境に生まれ育ち、同じような生活を送り、同じ感覚で笑いあい走り回っていた旧友でも、

それぞれ独自の価値観が培われ、違いが見えてくる。

今、見えているそれがみんなのchoicesの塊であり、これからもどんどん進化していくのだろう。



なにが言いたいかと言うと、

たまに自分のchoiceをまるでそれが全ての正解のように押し付け、他人のchoiceを否定する人がいるが、
それはあまり意味のないことなんだ。

だって、どんなに状況が似てようと、
それぞれの立っている場所は全く違うのだから。


ただ、自分の人生の幸運を自慢したいのなら、
またお話は別だが。


自分にうそをつかない。

他人に自分の今を託さない。



このことに気づくまで随分時間がかかった気がする。


自分の人生、楽しまなきゃ損である。

自分で舵を取らないともったいない!


そうココロに刻もう。

最近わからないことがある。


この前ある勉強会に行ってきた。
政治哲学の大学教授と元米国でディーラーをしていた金融のプロお2人の話を聞く会だった。
勉強会と言っても、彼らの政治的見解を説き伏せるのではなく、
メディアでは公開されないような公文書やデータなどの確かな情報と、それを元にプロが分析した知識を庶民に届けることが目的だった。
普通に暮らしていたら得ることのできない、とても貴重な情報だった。
少なくとも私はそう思った。

しかし出席者は定年を過ぎた初老の方々ばかりで、若者と言える人は私1人だった。
その事態に誠に勝手ながら危機感を抱き、若い世代を少しでも増やせたらと思った。
そこにちょっとした正義感のようなものがあった。


後日、職場の同僚で興味がありそうな人を誘ってみた。
(特に次回の日程は決まっていなかったが)
反応は苦笑いをされ、下記のようにすんごくやんわり断られた。

その人が言うには、昔勉強会にはよく行っていたがもう辞めた。
経験上ではなく、机上の物語を語る学者の言うことは鼻につくんだそうだ。
(その人の勝手な妄想からくる結論はこの際置いておくことにする)
要するに、「私向きではない。No Thank You。」そういうことだ。

私は帰宅後、なんとも言えない羞恥心を覚えた。
まるで、田舎者が初めての経験に高揚し、とっくに経験済みの都会の人間に自慢するような。
なんとも軽はずみな子どもっぽい行動をしてしまったかのようで、恥ずかしくなった。


けどその反面、別に悪いことではないし、そんなバカにされるようなことでもないんじゃないかとも思う。(バカにされたというのは、勝手な思い込みかもしれないが・・・)


会に参加する若者を増やし、双方から有難がられたいエセ正義感があったのは否めない。
この手の話題を帰り際で軽く切り出したのも配慮に欠けたかもしれない。
私何かやってますアピールってお聞き苦しいものなのかもしれない。



けど、私は別にいいじゃん!と思ってしまう。。。


私はただ、このような話ができる同世代の人がほしいのだ。
この話はきっかけに過ぎず、いろんな人と政治的論議がしたいのだ。
別に知識がなくたっていいじゃない。
知ったかぶりしたっていいじゃない。


けどちょっとでも一般の枠から外れた発言をすると引かれる気がする。
上記テーマの場合特に。


それって日本的なもの?それとも常識的なもの?

わからない。

そんなとこまで気にしないといけないことが、
めんどくさくって、生きづらくって。

ほんとストレスフル。



私が気にしすぎなのかな?
実はここ数年、胸にモヤがかかったような状態が続いている。
これはなぜなのかずっと考えているが、未だはっきりと答えが見つかっていない。

ただ30才目前にしてなんとなくだが見えてきたのは、
このモヤモヤは、認められたい・必要とされたい願望が原因なのではないかということ。
そしてその“認められたい・必要とされたい”気持ちの根源は、自分の「弱さ」にあるのではないかということ。



今思えば、10代後半~20代前半は自分のしたいことができればそれで満足で、それ以外全く見えていなかった。
世間一般とは違う刺激的な毎日を過ごすことに充実感を感じ、恥ずかしながら、世間一般的な選択をした同世代の子とは違う自分が誇らしかった。
そして、周りからもそう思われているであろう自分でいることに酔っていた。



しかしその数年後、私の身勝手な選択により両親の高額な投資を受けたにも関わらず、それに見合う結果を出せたかは疑問が残る学生生活を終え、社会人としてもはっきり成功しているとも言えない現実に直面してしまう。



自分の選択は間違っていたのではないか。
自分が得た価値以上の迷惑を周りにかけてしまっていたのではないか。
そのような不安からか自信を失くし、キャリアにも消極的になってしまった。
(行動は大胆なのに、一旦冷静になったり雲行きが怪しくなると、急に超ネガティブモードに陥る。私の悪い癖。)




そしてその結果、

想像していた自分になれなかった現実から逃避し、自分では上げることを諦めた自分の価値を他人に上げてもらう為、他人に必要とされたい・認められたい気持ちだけが先走ってしまう。
しかしなかなか実現しない現実とのギャップからくる葛藤によりココロにモヤがかかっている。


こういうことなんだと思う。
(なんて性質の悪い。)




故に結論を言うと、


周りの目を気にせず、
他人の評価に頼らず、
諦めず自分の目指すところに自分で進むこと。


それが一番なんじゃないかな。
簡単なようで、それがなかなか難しい。
是非毎年恒例にしたい本年度年末振り返りの回。
(2012年は年始にしかしていなかったことを今さら知る。)

過去の記録を見返して感じるのは、なぜ私はこんなに忘れっぽいんだという怒り。
そして何も変わっていないという虚しさ。
人間そんな簡単に変わらないということです。




さて、本題に移る。


私の2013年はどうだったのか。思い出すのには時間がかかりそうだ。


理由の1つは、「仕事」に時間を取られることが多かった。
本業に加え、2012年4月から続けていた副業にも時間を取られ、体力的+精神的ストレスが倍あった。
それらが故に、毎日が怒涛の如く過ぎ去り、記憶に残っている事柄が少ない。

27-29歳という女としては最も輝く年齢で、副業に時間と体力を費やし、美肌を痛めつけたという結果になってしまったことは、今思えば少し後悔が残る。(しかも5万円の給料滞納があるしね・・・)

しかし、悪いことばかりではなかった。
副業をすることによって、自分の居場所をいくつか持つことの大切さを肌で感じることができた。

人は3つの顔を持つと魅力的になる。と聞いたことがある。
複数の自分の顔があるというのは、自分が属するコミュニティ(居場所)が複数あるということ。それが3つあることで、魅力を発するということだ。

私は、副業を持つことによって、
本業で見せる自分、友人に見せる自分、副業で見せる自分、
この3つの全く違う顔(居場所)を持つことができた。


自分が魅力的になったかどうかはわからないが、これは私にとても良い効果をもたらせた。
私の短所でもある「周りの目を気にする」ということをさせずにしばらく過ごせたのだ。


心理的には、「他に居場所があるからどう思われても良いか。」いつもは落ち込んでしまうようなことをしてしまったとしても、「他の2つのコミュニティの人たちには絶対知られないし、ここで失敗したとしてもこれを教訓に他で活躍すればいい。」という感じ。



なんとまぁネガティブな発想。




さらにそれが確信に変わるようなこともあった。

2013年10月。
副業からようやく解放されしばらく経った頃から、自分の心理に変化が生じてきた。
本業での自分の評価が気になり出したのだ。
ある大きな仕事で上司と上手くコミュニケートできなかったのも理由にあるが。
他人と比べ、自分の評価が下がっていると感じてしまっていた。
分かっているのに、その一瞬は忘れている。
そして後悔。そして悪循環。

10月は昇給の時期でもあった。
社長には異例の昇給も頂き、自分の評価が成されているのが証明されているのにも関わらず。



3つの顔が2つに減ったとき、自信を保てなくなってしまった。
というか、3つから2つになった自分の居場所の中に、自分の存在を確かなものにしようと躍起になっている自分がいた。プライベートの交流もとても少なくなっていたので、余計に依存してしまったのかもしれない。




そう。
私は「超」がつくほどネガティブなのだ。
加えて、周りに認められたくて、決して弱点を知られたくない完ぺき主義者なのだ。

私は一旦自分への自信を失くしてしまうと、
他人と比較し自分の劣を無理矢理認識し、
他人に嫌われることやバカにされることに異様なほど敏感で、
自分が他人に嫌われるようなことをしないように常に心がけ、
全ての状況下で最も適切な(誰にも嫌われない)判断を下すことを第一目標とし、
しかし記憶力が乏しい為、同じ事をやっては後悔を繰り返し、
自己基準で他人の中での自分の評価が下がったであろう瞬間を感じてしまい、
勝手に凹み勝手に挙動不審に陥り、
基本他人を信用せず、
少しでも自分のマイナス面に気づいた人間には瞬時に距離を取ってしまう、
超ネガティブで、自己防御に対する完ぺき主義者なのだ。


他人に嫌われることに異様なほど拒否反応を示してしまうのは、
昔いじめられた経験が原因にあることは間違いない。


私は、自分の短所を愛することができないから、
他人にもそれを見せることに恐怖を感じるのかもしれない。
短所を見せるだけで嫌われると思ってしまっているのかもしれない。




もしかすると、2013年はそれを心底自覚させられた1年だったのかもしれない。



この2013年の小さな発見が、今後の私のココロの舵取りの指針になる気がする。



まずは自分に自信をつけれる状況に持っていき、
ネガティブモンスターをなるべく長く封印すること。



もしいつか醜く弱い自分を丸々愛することができたら、私はもっと強く美しくなれる気がする。
でもそれはまだまだ先のお話。



来年早々3つ目の顔を探そう。
考えたことはあるだろうか。

自分たちの国旗がどういう意味を持つのか。
自分たちの国歌はなにを詠っているのか。

それらに付随してくる、愛国心、ナショナリズム、民族主義とはなんなのか?
憲法19条「思想・良心の自由」とはなんなのか?
韓国はなぜそこまで旭日旗を嫌がるのか?
そして日本は今なぜ改憲に向っているのか?

私は、育った環境からか、国旗・国歌をなるべく避けて生きてきた。例えば、卒業式では国歌斉唱のときは必ず座っていたし、祝日に道端で国旗を見ると、「げっ。このおうちは怖い人たちなのかな。」と、嫌悪感を無意識の内に抱いていた。(未だに民家が掲げる祝日の日の丸は不思議に思うけど)

曖昧な記憶の中でうっすら覚えていることがある。
それは私の小学校の卒業式。
まだ国旗掲揚、国歌斉唱の強制力はなかった頃に、国旗を挙げようとする校長を止める母親の姿。
それはいったいどういう意味があったのだろう。なぜ母親はそうまでして、私の卒業式に国旗を挙げさせたくなかったのだろう。

国旗国歌法(式典では国旗・国歌は必ず掲げなさい法と私は理解している)は1999年8月13日が公布・執行された(らしい)。
そこから今までにそれを拒否する教師は首にさせられたケースを何度か見たことがある。

そもそも、なぜ強制しなければならなかったのだろうか。
国を崇めるという事自体に違和感を感じるのはおかしなことなのだろうか。

なぜ自分たちの卒業という式典にお国に感謝しなければいけないのか?
感謝するなら親であり、教師や教育機関であり、そのような制度を創り出してくれた人々ではないのか?

そもそも国とはその土地に住む人間たちの集合体であり、国というものは崇められるものではないはずだ。
民主主義国家として、そこに矛盾はないのだろうか。

単に日本人が住むこの国の象徴にすぎない国旗。
国内の小さな式典にそれらを掲げる必要性とはなんなのか。
強制することになったのは何らかの圧力があったからなのではないのか。

そんな発想もなく、日本に生まれてきたことへの感謝などで浅く認識し、国歌斉唱•国旗掲揚を不思議に思えない人たちがあまりにも多い気がするのは私だけだろうか。

私は自分を大切にしている人は魅力的だと思う。

自分を大切にしている人とは、
周りに依存せず、1人の時間を大切にできる人。

周りとは、好きな人/恋人、友人、上司、同僚、世間体、流行。なんでもいい。


例えば、

今日は仕事帰りにほしかったお風呂グッズを買って、読めてなかった雑誌をお風呂で読みながらアロマを焚いてゆったりしよう!
って、自分の心を労わったり、


今夜は仕事帰りにレイトショーを見に行って、寝る前に音楽を聞きながらあの本を読もう!
なんて文化的な自分に浸ってみたり、


今夜は明日の弁当のおかずを準備してから寝よう!と、自分の健康を労わったり


1人でいても、自分の為にしたいことは山ほどある。


けれど、恋愛モードなったとたん、それらを瞬時にほっぽらかして、相手からの電話やメールを待つばかりの日々。

彼からいきなり誘われても大丈夫なように、余計な予定はいれない。

すかさず電話に出れるよう、お風呂の時間は短く。

常に携帯を気にしてる状態で、何事にも集中できないし、何かに取り組もうという発想がない。

1時間が1日のように感じられ、待ちきれずに余計な行動をする。

一日中携帯と睨めっこして何時間も浪費する。

そして、ようやく連絡がきたら待ってました!と言わんばかりの反応。

無論、余計な予定は入れてないので誘われたらスケジュールはあなた以外スッカラカンよ。シッポをふって、どんな非常識な状況でもほいほい会いに行く。


よくいろんな恋愛本にも書いてあるけど、そんな人間は魅力的ではないのはどうやら事実のようだ。

なぜなら、依存の果てには、自己中でワガママで子どもでヒステリーな人間に成り下がる、ってことが待っているから。

それはもはや脅威である。

女子はどんな人でも、恋に落ちて冷静さを失うと、依存型の人間に陥りやすい。

そんな時はまず、できるだけ彼のことを考えるのを辞めて、自分を労わる時間に集中する。
彼よりも自分を第1優先にする。
自分の生活のペースを乱さない努力をする。

今まで大切にしてた自分の為の時間も同じように愛せること。

それが、醜い女に陥らせようとする恋の魔物から身を守ってくれて、結局自分を大切にすることとなる。
そしてそれがせっかく好きになれたその素敵な相手を大切にすることに必ずつながるから。


それができれば誰から見ても、魅力的な大人な女性になれる気がする。
"男の毒は男でしか消せない"

少なくとも1番手っ取り早く失恋の傷を癒す方法であることは間違いない。

しかし、そもそも男に対する気持ちってなんなんだろう。なぜ、傷は女では解消できないのか。他の男でしか解毒できないというのは、単なる女としての自分への慰めにしかすぎないのではないか。

ただ、"私のことを相手にする男は他にいる。"

そんなしょーもない安心感を頂いて、毒を消しているだけなのか?

しかし、ある男の毒を解毒してくれるような手っ取り早い男とは、先の男より自分にとっては劣るのでは?
では、その劣る男からの安心感によって、果たして問題は本当に解決できるのか?

もしくは、恋愛感情の全くない男友達でも同じく毒を消せるのか?
ただ「男」からの慰めをもらえれば癒えるのか?
じゃぁなぜ「女」ではダメなのか。

男と女とではどれほどの違いがあるのだろう。

そして、失恋のやり場のない気持ちを、その場しのぎで忘れれるだけの解決策なのではないのか。

それなら、知らないうちに利用されてしまうその手っ取り早い男性対する誠実さを失うくらいなら、自分の力で立ち直れる力を持てるよう鍛えるほうが、人間としてプライドが保てるのではないのか。

そんなことを考えていると、そのように先の男の毒を癒している自分が情けなくなった。

男と女とはそんなもん。
と、簡単に納得するには、まだまだ経験が浅すぎる。
好きになれそうな人がいても、今はこれ以上発展させたくないときがある。

それは男も女も関係ない。

いろんな要因があると思うけど、真面目な人間の場合は、たぶんそれらのほとんどは外的要因なんだろう。

仕事や家族、友人、世間体。

それらを考えると、これ以上発展させてしまう勇気・覚悟がまだない。
今のお互い好きかもしれないグレー期間を長引かせたい。

そしていつか整理できたときに向き合おうと、わざわざ発展させるような言動を制御してしまう。

そんな時、
相手には阻まれるものがなにもない場合、バランスが崩れてしまう。

相手には問題ないのに・・・


阻まれるものがない側は、
突然勢いがなくなったのを肌で感じる。
そして相手が何を考えてるのかわからなくて、苦しくて、
はっきりさせたい衝動に駆られてしまう。


しかし、そこではっきりさせたら終わり。

話し合いでお互い理解できたとしても、今ではない。
では、いつならいいのか?
その答えは今は出ない。いつ出るのかもわからない。

それがわかったとき、お互い相手に気遣いがうまれる。

阻まれるものがない側は、自分の気持ちが重いのではないかと気を遣う。

発展させたくない側は、自分の勝手で相手の時間をムダにしてしまうのではと気を遣う。

そして、修復できなくなってしまうのだ。

お互い惹かれていても、こんな恋愛があるんだなと初めて感覚的に理解できた。