言論の自由 | 秋山のブログ

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MMT現代貨幣理論入門」の巻末解説に、MMTには反対しているクルーグマンが、アメリカ上院の共和党議員がMMT非難決議を上げる動きをしたことに対して、思想警察のような動きだと非難している話が出ていた。面白いのは、左派、リベラルの立場に立つ松尾匡氏が、日本の左派、リベラルが自分の意見にそぐわない意見が封殺されることに対して、クルーグマンのように反対する素養を持っていないのではと危惧していることだ。何だか最近の事件を想起させる。

 

言論の自由など表現の自由が重要であることに異論はない。ただ気になるのは、その理由として、憲法に書いてあるからといったような最初からある決まり事のように考えて、しばしば何故重要なのかと視点が抜けている点である。何かのルールなり、理論なりには、それが成立した根拠があるはずで、それを理解していなければ適切な運用は困難である。単語がひとり歩きして、おかしなことにもなりかねない。

 

さて、それでは言論の自由(又は表現の自由)の根拠をあげてみよう。

まず、基本的な根拠として、それぞれ異なった思想が競いあうことによって、より発達していくといった考えがある。これは特に学問においては重要で、またその効果もよく経験するところであろう。

またよく知られているのは、民主主義において、プロパガンダによって国民が誤った認識を持たされ、その判断が歪められることを防ぐために重要だという考えである。それ程洞察力が高くなくても、相反する主張の両方を見比べてみれば、正解に辿り着く可能性は高いであろう。よく出来た嘘でも、丁寧な反論や批判を読めば、騙されないで済む確率は上がるだろう。特に検閲の禁止が求められているのは、プロパガンダが時の政府によっておこなわれてきた歴史的背景によってだと思われる。

他には、人間にとって表現することが幸福感に結び付くからといった意見もあるかもしれない。確かにそのような視点もありうることではあるが、それではここまで重要視される理由にはなりえない。当然他者の権利を抑制してまで達成すべきことにはならないはずだ。

 

逆の視点から見ると、プロパガンダをおこなう人間にとっては、自由な言論は邪魔なものだ。そのため自分の主張は、しばしば言論の自由を盾にして尊重されるべきとする一方で、その批判やそれとは異なる主張に対して、健全な議論以外の方法すら使って、邪魔をしようとする。本末転倒なことには、主張に対する正当な批判が、言論の弾圧だなどと主張されることすらある。

 

主流派経済学が、その有用性などではなく、政治的手法によって反対派を抑制してきたことを、今まで多くの根拠となる事例をあげ説明、もしくは根拠となる文書を紹介してきた。MMTに対する非難決議も、そんな事例の一つということであろう。プロパガンダをおこなうつもりがなかったとしても、自説の正当性を崩されないために、反対意見を抑制することは、学問として自殺行為である。また、そのような行動に出るということは、堂々と主張できるほどの、正しさを持ち合わせていないと言っているようなものだ。