貨幣の理解と財政均衡 | 秋山のブログ

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経済財政諮問会議の下に経済財政一体改革推進委員会などというくだらない組織ができている。くだらないと指摘する理由は簡単だ。委員におなじみの御用学者が名を連ねているからだ。本来財務省の力を削ぐための経済財政諮問会議(とはいえ新自由主義の経済学者を中心に据えたことは間違いでもあった)であるのに、こっそり抜け道を作られている。目的も財政不均衡の改善であり、そのために歳出抑制をおこなうという実に幼稚なものだ。経済全体のことなどこれっぽっちも考えていない。

 

財務省が財政均衡にこれほど拘るということに関しては、なかなか理解に苦しむ。全く経済全体を考える必要のない生活を送っている人間であれば、国家と家庭(もしくは企業)を混同して考えることもあるかもしれない(むしろそう間違える方が普通かもしれない)。しかし十分な教育を受け、国家的な仕事についている人間が揃いも揃って、近視眼的な思考に陥っているなどということは不思議ですらある。

 

家庭と混同する理由の一つは、貨幣とは何かということを理解していないということだ。一般的な生活において貨幣とは働くことによって得られるもので、使えば無くなってしまうものだ。しかし全体を俯瞰すれば、取引をおこなっても貨幣は無くならず、持ち主を変えるだけである。貨幣とは借り入れによってのみ発生し、返済によってのみ消失する、取引の道具に過ぎない。

 

この三橋氏の実体経済の循環の図でもよく分かるだろう。

 

日本経済の貨幣のストックもそれを裏付けている。貯蓄と負債は絶対に一致する。

 

大昔の経済学者を観察してみれば、いつのまにか貯蓄されているものと考えたり、金鉱であると理解したりしているが、それは金鉱の裏付けがなければ流動性を保てなかったための誤解であり、流動性を持った借用書であるという本質が現在の貨幣と異なっていたわけではない。この誤解から発生する考えが重商主義である。輸出をして、外貨を得ることが豊かになることであるといった、アダム・スミスによって否定された誤謬である。現在の場合は、重商主義は輸出をして外貨を増やさなければ貨幣を増やせないといった勘違いに生まれ変わっている。自国の貿易黒字は、他国の貿易赤字、つまりは他国が借金をした結果であることに気がついていないのだ。

 

貨幣が借り入れによって増えるもの以上でも以下でもないこと(ベースマネーが信用創造によって増えたものというのも誤解だ。準備率は金鉱同様足枷に過ぎず、日本において最早その足枷は使われていない)を理解すれば、様々なことが分かってくる。上記の図を見ながらいろいろ考えるといいだろう。デフレ、少子化、高金利(ゼロ金利だが配当は高い)の状況であれば、財政均衡に少しでも舵をきった時点で、成長が抑制され不況に陥ることも容易に分かるはずだ。実際に税制均衡下で成長した国は、余程の小国以外は存在しない。(安倍総理がTPPに拘るのは、輸入によってそれを賄おうとしているのかもしれない。しかし、それはドイツがギリシャに対しておこなったような相手の犠牲の上でなりたつことであり、日本の規模では成功しないだろう)

 

まず最も必要なことは、財政均衡が重要だという考えを完全に捨てることだ。それは無責任なことでもなんでもない。無責任だと感じるということは、国家と家計等を混同していると白状しているようなものだろう(私から見れば、学問に真摯に向き合わず御用学者になる連中の方が余程無責任だ)。

財政政策で貨幣を注入する場合も、資本家の利益になって仕舞い込まれるような分野を避けるべきだろう。企業の圧力に負けてはならない。もちろん出産、育児、介護、医療が正しい選択だ。目標はGDPの増加ではなくて、単位時間あたりの国民の収入の増加である。それが実現した時初めて、経済は再び成長し、適切なインフレがおこるだろう。僅かな人口減少などたいして問題にならないことも分かるだろう。

次に、インフレが起こった時金利や配当に対して管理をしなければならない。インフレに合わせて金利などを上げなくてはいけないという理由はない。外国からの投資が無くなっても(途上国のように、投資とともに入ってくる技術に期待する必要がないので)日本は困ることはない。以前のように銀行の融資が主体になればよいだけのことであるし、それが適切におこなわれればよいだけのことである。そうなってくると需要もあるので、企業がまた融資を受けて設備投資をしだすだろう。内部留保を貯めている企業の方がもちろん安定しているが、それは不況に強いということであって好況ならば関係ない。

企業が借り入れて使うような状況になれば、今度は財政を均衡させることができるようになる。均衡させる必要もないのであるが。

 

日本の不況が延々と続いていることだけではなくて、財政が不均衡になっている理由も、新自由主義の経済学を政策に取り入れたからだ。米国の制度をとりいれた、平成になってからの日本の制度の変更は、ほとんど改悪以外の何ものでもないだろう。

 

財務省は、国民が音を上げて増税に賛同するまで節約を続けるつもりかもしれない。しかし国民にとって国のサービスの低下は増税と等価である。どちらも正解ではない。国民が間違っているのではなく、貨幣とは何か、成長とはなにか、既に書いたような構造を理解できていない財務省官僚が間違っているのだ。

国民が出来ることは、財務官僚を批判し続けて正しい認識の人間を増やすことと、財政均衡の問題を理解している議員を応援することだろう。しかし議員に関しては少し厳しいかもしれない。安倍総理は、財務省の経済政策には反対するスタンスであるが、今ひとつ理解できていないようで、周囲の議員が愚かにも財務省の詭弁を鵜呑みにしていることもあって、鉾をおさめている感がある。今回の件は、経済政策まで手がまわらないうちに、勝手に財務省にやられてしまっているのだろう(安倍総理のトップダウン扱いしている記事もあった)。緊縮財政に反対している野党議員も、条件反射的な反対で理解しているように見えないところもまた問題である。