ジャーナリスト藤原亮司のブログ
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産業のないガザで、人々はどうやって食っていたか

ガザには産業や経済と呼べるものはない。当然、いまの話ではなく昨年10月7日にイスラエル軍に侵攻される前の話だ。

かつては農業が盛んで、イスラエルや海外にも輸出されていたが、2007年の封鎖で完全に止まった。他にも僅かに家具や菓子が作られていたが、それも同様に止まり、また少し規模の大きい工場や家内工業所は2009年や12年、14年のイスラエル軍の攻撃でほぼ壊されている。

 

第2次インティファーダ(2000~2005年)までは、ガザのエレツ検問所から基本日帰り(イスラエル内での宿泊は許されていなかった)でイスラエル内に働きに行く労働者も多くいた。

土木建設業、飲食業、ホテル、農業、清掃など、基本は単純労働や肉体労働などが多かった。しかし、第二次インティファーダが激しくなり、2002年頃にはガザを出て働く許可は下りず、エレツ検問所を出ることは許されなくなった。


パレスチナ人がいなくなったそれらの仕事には、タイや中国、フィリピン、インドネシアなどの出稼ぎ労働者が取って代わった。

もしいま仮にガザからイスラエルに人が出られるようになっても、もはや働ける場所はない。


「2007年にガザは封鎖された」と報道などで伝えられることがあるが、それはガザに入ってくる商品も、イスラエルに出荷される商品も完全に止まったということであり、一般人の行き来は2002年頃には止まっている。
2007年頃にはガザで禁煙が流行ったのは、煙草もめったに入ってこず、そもそも売っていないか、あっても高価で買えなかったからだ。

イスラエルから商品(食料、燃料、医療品、日用品など)が入らなくなったのと、エジプト側のラファ検問所も封鎖されたために、ガザとエジプトの国境の地下に最盛期は1000本とも1500本とも言われる大小のトンネルが掘られ、ガザの経済は密貿易で回っていた。


ハマスやファタハ、イスラム聖戦のトンネルもあり、同時にラファで少し金を持っている一般人もトンネルを掘り、密貿易業者となった。食料や燃料、日用品などに限らず、車やバイク、生きたヒツジ(食用として飼育するため)、動物園のライオンなども搬入された。エジプトから入ってくるガソリンは粗悪で混ぜ物が多く、当時ガザを走っている車はマフラーから大量の煙を吐き出していて、やたら空気が悪かったのを覚えている。

 

しかし、そのような「商品」だけが入ってくるのではなく、エジプトのシナイ半島から武器(アラブの春でだぶついた武器が、シナイ半島で売られていた)や、その製造のノウハウも入ってくる。また、カッサームやイスラム聖戦の戦闘員がトンネルから海外に出ていくこともあったため、2012年にはイスラエルとエジプトによって、トンネルは一度すべて破壊された。

イスラエル軍は空爆で、エジプトはトンネルに水を入れて破壊し、国境の地下に鉄板を打ち込んだ。

そして再度、商品は主にイスラエルから入ってくるようになったが、ガザに対する懲罰のためにそれら商品を止めることによって、ガザを経済的にも管理できるようになった。

 

ガザの住人は現在223万人ほどといわれるが、そのうちの7割超が難民である。この難民というのは、イスラエル建国に伴ってガザ以外のパレスチナから来た人たちを指す。

難民に対してはUNRWAからの社会保障や生活支援があり、産業を失ったガザでは、難民たちは支援によってどうにか生活をおこなうしかなくなった。

では、難民ではない3割弱の人たちはどうかというと、なんせ7割が難民なので、彼らから家賃や地代などの不動産収入がある。そのような「不労所得」があり、かつ南部のラファに縁を持つ人たちが、トンネルを掘って闇経済時代には儲けた。

その当時はガザ市に欧米の高級コスメを扱う専門店などもでき、一部の金持ちに人気だったこともある。

 

他に、まだガザが完全に封鎖される前に、エジプトや湾岸諸国などの外国に出稼ぎに行き、いまも働いているパレスチナ人が家族や親族にいる人は、そこから仕送りなどの支援もある。
それに、ハマスや自治政府、UNRWA以外の国連機関や諸外国などからの援助を受けることもある。。

ガザの生活費は「1日ひとり1~2ドル」と言われるように非常に困難だが、飢えて死ぬ人はほぼいなかった。しかし、人々は漫然と援助だけで暮らしていたわけではない。

産業がないので雇用される仕事などどこにもない。しかし、小さな飲食店や商店などの小商いをし、なんとか自立した生活をしようとする人も多くいた。家で育てた鳩や鶏を売る人。漬けたピクルスを売る人。育てた野菜を売る人…。それらで稼いだ金を貯めて、煙草やお菓子を、缶詰などを仕入れて小さな店を始める。自分で稼いだ金で生活をしたいと望んでいた。
 

そしてもし、いつかパレスチナ人の状況が少し良くなって封鎖が緩み、自分が生きているうちにガザを出られるようになれば海外に出て仕事に就き、自立した暮らしを送りたいと望んでいた人もいる。

ガザで大学を卒業しても、何もすることがない。かつて、「いつかは自分が稼いだ金で生活を」と望んだ人たちは、もはや中年になり老人になった。

そして、せめてなんとか小商いで自立を、と望んだ人たちの小さな商店や飲食店も、今回の侵攻で壊され、そして今も壊され続けている。

 

 

 

 

「パレスチナ支援」という構造的不条理

UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)は、その名の通りパレスチナ「難民」を救済する機関である。パレスチナ難民に対して、教育、保健、医療など社会福祉を行なっている。


1950年5月1日より、パレスチナ「自治区」の西岸地区、ガザ地区、レバノン、ヨルダン、シリアで活動を行なっている。

1967年6月の第三次中東戦争まで、ガザと西岸地区はイスラエル領ではなかった。ガザはエジプト領、西岸と東エルサレムはヨルダン領だった。

 

イスラエルの勝利により、現在パレスチナ「自治区」とされている地域は、イスラエル占領下になった。その結果、ガザと西岸の「難民」は、微妙な立場に置かれた。

繰り返すが、UNRWAはパレスチナ難民を救済する機関である。難民とは外国に出た避難民のことであり、国内に避難した人たちは国内避難民(IDP:Internally Displaced Persons)と呼ばれる。

 

この時点で、ガザと西岸の難民たちは、難民とも国内避難民ともつかない地位になった。イスラエルが占領者となった以上、社会福祉の責任はイスラエルにあるはずだが、「難民」に対してその活動は行わず、UNRWAが継続して行うことになった。当然、イスラエルがそれをしない以上、誰かが救済事業を続けなければいけないので、UNRWAがやるしかない(当時はパレスチナ自治政府もない)。

また、この地域でのUNRWAの活動をやめることになれば、イスラエルの占領そのものを認めたことになるという葛藤もあったと思う。

しかし、国連も国際社会も「なぜイスラエルがそれをしないのか?」という疑問も突き付けることもなく、また占領そのものに対しても、制裁や圧力を伴った強い抗議をすることもなく、ガザと西岸、東エルサレムでのUNRWAの事業は継続された。

 

本来が占領者がすべき占領地の社会保障をUNRWAが肩代わりし、国際社会がそれに資金を提供する。UNRWAはパレスチナ難民が人間らしく生きてゆくためにはなくてはならない存在ではあるが、その存在が同時にイスラエルがやるべきことの肩代わりとなり、そこにつぎ込む金を自国のために使えるという皮肉な状態が続いている。

 

UNRWAに限ったことではない。パレスチナにつぎ込まれる多くの援助、産業発展の支援、インフラ整備、2009年・12年・14年のガザ侵攻後の復興など、すべて国連と諸外国が唯々諾々と行なっている。繰り返すが、そこにはイスラエルへの制裁も圧力も、強い非難すら伴うことはない。

諸外国などの支援で行なわれている西岸の農業やその加工品などの輸出。しかし、イスラエルは国境でパレスチナ自治区向 けの輸出入の管理を行い,関税を代理徴収したうえでパレスチナ自治政府に渡している。パレスチナで騒ぎが起きれば、そのカネをストップして懲罰を与えることができる。

また、西岸の道路整備などにパレスチナ人を雇用することで、生活の安定を図る事業。しかし、整備された道路はユダヤ人入植者専用道路となり、パレスチナ人の車両が通れなくなるケースもある。入植者専用道路でつながった点在する入植地は、点在していたそれらを面で巨大化させる効果もある。

 

これら一例だけを見ても、「パレスチナのために」不可欠な援助が、イスラエルの占領への後方支援になってしまうという不条理、構造的な問題が、常にパレスチナへの国際支援には付きまとっている。
 

 

ガザのサミール、その子どものハムザたちきょうだい

ガザのサミールとは2002年2月からの付き合いになる。その当時彼は30歳で、結婚して間もなく、妻のおなかの中には第一子がいた。のちのハムザである。

私が泊まっていた安ホテルで働いていたが、当時から仕事が極めて少ないガザでは毎日働くことができず、週に2日か3日の勤務だった。第二次インティファーダ(イスラエルの占領に対する民衆蜂起)が始まっていたガザは封鎖が始まっており、イスラエルにも海外にも出ていくことはほぼ不可能だった。

 

彼が子どもの頃はガザにもイスラエル人が訪れることがあり、ビーチで海水浴をし、物価の安いガザで買い物をして帰った。サミールの父親はそんなユダヤ人と親しくなり、よく家に招いてお茶や食事を共にしたという。

サミールはそんな自分たちとは違うユダヤ人の姿を見て育った。その姿からガザの外にある文化や習慣に興味を持った。

 

しかし、第一次インティファーダ(1987年12月~1993年9月)が始まり、イスラエル軍部隊がガザの中を闊歩するようになる。多くのガザの人が拘束されたり、殺されたりした。それを見た少年時代のサミールは、他の子どもたちと同じようにイスラエル軍の車両に投石をした。

ユダヤ人が憎かったのではない。攻撃をし、人々を拘束するイスラエル軍に抵抗を示しただけだ。子どもの頃からユダヤ人と生身の交流があった彼は、いまだにユダヤ人そのものに憎しみや偏見はない。むしろ、ユダヤ人たちの賢さに敬意を持っているという言葉を何度も聞いたことがある。中には、皮肉で言ったときもあっただろうが。

 

第一次インティファーダが終わった後、サミールは一度だけエジプトに行ったことがある。

不自由なガザを出て、子どもの頃から憧れていた外国で商売がしたい。自分にはどんな可能性や能力があるのかを知りたい。そう思って、まずは1週間ほどカイロに下見に行った。そして、ガザに戻るため国境のラファ検問所の入国検査で、サミールはイスラエルに拘束された。子どもの頃、イスラエル軍に投石したという理由で。それから、1年4カ月間、イスラエルの刑務所に服役させられた。

 

しかし、へこたれないサミールは、ただうなだれて刑務所にいたわけではなかった。今は流暢に話す英語もヘブライ語も、そのときに看守とのやり取りで身につけた。耳学問なので、読み書きはできない。

イスラエルに捕まった経歴が残るサミールは、もう海外に出ることは許されない。せめていつかガザで自分の店を持ちたいと思いながら、金を工面する生活をしていた。

 

ガザにはそもそも仕事がない。海外に出稼ぎに行っている家族もいないサミールは、そこからの援助もない。どうやって無いところから金をかき集めてきたのか分からないが、私が知る限り彼は3度カフェを開業させたが、2度イスラエル軍の侵攻で破壊された。3度目の店も、2014年の侵攻で閉めた。

そのあとは小さな食料品店を開業させたはずだが、当然この侵攻でもう店はない。ほんとについてないやつである。

 

しかし、それでも彼の口から悲観は聞いたことがない。どんなに理不尽な目に遭っても、ようやく手に入れた自分の店を破壊されても、自虐とともに笑い飛ばした。「まあ、これがガザというもんだ」と。彼はハマスにもファタハにもイスラエルにも、「結局、どれも自分たちの体制を守ることしか考えてない」というスタンスで、そんな社会で生きる自分自身をも常に俯瞰して見て生きてきた。

そして、そんな社会であっても、自分自身の力で自立して生きようとしてきた。

 

妻のヤスミーンはわりと厳格なムスリマのようだ。長男のハムザは大学4年の10月、卒業まであと少しというところで大学そのものが壊されて消えた。私がサミールの家に行くと、いつも静かに私たちの話の邪魔をしないように、しかし熱心に耳を傾けていた。

長女のシャイマはよく気が付く、いかにもきょうだい思いの優しいお姉さんだった。今は結婚したそうだ。次男のアナスも穏やかで頭がよく、年齢よりもずっと大人だった。次女のサラは当時まだ3歳だったが、おてんばでよく喋る明るい子どもだった。たった3歳でも、この子は自由なところが一番サミールのそんな部分と似ている、と思った。

他にも、シャヘッド、アスマ。それと、私の会ったことがない一番下の子がもう1人いる。

 

ハムザが高校に入るとき、スマホを買ってあげた。そのかわり、いつかガザを出て世界に行けるようにしっかり英語を勉強しろと、説教じみた老婆心も言った。外国で自分の能力を試す夢を諦めるしかなかった父親とは違う、パレスチナ人の生き方がいつかできるように。

今回の侵攻が始まって、電話で初めてハムザと話した。最後に会ったのは12歳のときだから、サミールの通訳なしで話すのは当然初めてだ。ハムザは立派な英語を話した。野太い声になっていたハムザと英語で直接話をしていることが、とても感慨深かった。

いま、彼ら家族はガザの家を破壊され、避難民として過ごしている。「避難」といっても、ガザには安全なところなどどこにもない。サミールは首に砲弾の破片が刺さったまま手術ができず、次男のアナスは左目を負傷し視力を失った。

彼らを「ただ死ぬ順番が回ってくるのを待つ」状態にはさせたくないが、何もできない。
以下のURLは、ハムザがやっている、ガザを脱出するためのクラウドファウンディングです。
もしよろしければ、僅かな支援をお願いします。

 


 

映画「関心領域」鑑賞、繰り返される「アウシュビッツ」

映画「関心領域」鑑賞。
2023年5月にカンヌ映画祭で公開された米・ポーランド合作。
アウシュビッツ強制収容所の所長、ルドルフ・ヘスとその一家を描いた作品。ヘスはナチス親衛隊中佐であり、アウシュビッツの建設からユダヤ人ら大量虐殺に直接関わる。1947年、その罪で絞首刑にされた。

劇中、収容所の内部は一切描かれない。そこに隣接するヘスの豪華で美しい庭、周囲の森や川などの豊かな自然の中での一家の暮らしだけが、淡々と描かれている。
平穏で幸せな暮らし。しかし、映像のどこかには微かに銃声、遠くの叫び声、呻きのような音が聞こえ、収容所の煙や炎が映り込む。

無邪気に見える子供たちの行動も、どこか精神が壊れかけているかのような仕草が目立つ。映画の途中からこの家にやってきたヘスの妻の母親も、初めはこの家を気に入っていたにも関わらず、ある日耐えられなくなり姿を消す。

この母親はかつて、金持ちのユダヤ人宅の家政婦として働いていたという短いひと言が劇中には織り込まれており、ユダヤ人を肌身に知る母親だけが、この環境の異常さに気づく。

この映画のカンヌでの上映から約5カ月後の2023年10月7日、世界は今もまだ「アウシュビッツ」が世の中に存在するのだということを、改めて思い知ることになる。
そして、その「アウシュビッツ」の塀の外にいた人たちと、塀の中の人たちの関心領域がまるで逆転しながら、繰り返されていることに。
その現実にもはや当事者となった人たちは、気づく機会さえごく少ない。

ガザのアベッドとファティマ夫妻

2002年のガザでは、もうひとりとても親しくなった人がいた。
泊まっていたアダムホテルのウェイター、アベッド・マンスールだ。
彼もサミールと同じように週に2日ぐらいしか働けないが、仕事に出てきた日には終わってからも私が取材から帰ってくるのを待っていてくれ、何かと話した。

彼はまだガザが封鎖されていなくて海外に出られたころ、ウクライナの医学校に留学した。医者になろうと思ったのだという。
しかし彼の実家は学費の援助を続けられず、2年ほどで彼の留学は打ち切られ、ガザの安ホテルでようやく見つけたのがウェイターの仕事だった。
私より3歳ほど年下の彼は、当時29歳。アラブ人にしては遅い結婚をしたばかりだった。
私がガザを出て帰ると言うと、「一度わたしの妻に会ってくれ」と、家に招かれた。

家を訪ねると、彼ら夫婦が使っている部屋に通された。ガザの人たちは土地がないため、一棟の家を上に建て増しして行って、兄弟などが一緒に暮らしている。
「今日は兄弟も父親もいないから」と、アベッドと妻のファティマの三人で話した。
ガザから一歩も出たことがないファティマは、ロシア語を勉強したアベッドが話す英語よりもずっと上手な英語を話した。
当時は20代前半か半ばぐらいだったか。とても知的で穏やかで、美人で好奇心にあふれていた。本当に広い視野を持つ女性だった。私に日本や他の国のことをたくさん質問し、冗談も言い、たくさん笑った。イスラエルのことも聞いた。「ねえ、イスラエルの女性ってどんな感じ?いろんなとこに行けるの?好きなこと話せるの?」

私が答えを返すと、「いいなあ、イスラエルの女の人たち」と言った。

次にファティマに会ったのは、2009年の1月だった。
年末から年初にかけてのイスラエル軍侵攻で、家の一部を破壊されたアベッドの家を見舞ったとき。
そのとき、アベッドの親兄弟が総出で迎えてくれた。アラブの習慣では、解放的な家でない限り、男性の席に大人の女性は同席しない。そこにはアベッドの母親以外、女性はいなかった。

途中、中座して「家の被害の写真を撮ってくるから」と言って裏庭に出た。そのとき、3階のベランダから英語で呼びかけられた。ファティマだった。
「ハーイ、何年ぶりかでやっと会えた。フジ、ガザに来てくれてありがとう」
「何回かガザに来てるんだけど、会えなくてごめん」
「知ってる、アベッドに聞いてたから。今日は男の人たちがいるから会えなくて」
「仕事はしてる?」(女性が仕事をしていることがそもそも稀有)
「侵攻前まで役所で働いてたのだけど、今は自宅待機という名目の失業」、と笑った。

それから、また質問をしてきた。
「今、日本って何か変わった?最近はどの国に行ってるの?そこってどんなとこだった?」
ベランダの3階と裏庭で、部屋の中には聞こえないように声をひそめて話す。
そのとき、アベッドの兄が「フジワラ、そろそろ部屋に戻ってチャイ飲まないか?」と誘いに来た。それに応えているとき、上のほうで「カチャリ」と扉が閉まる音が聞こえた。
私が裏庭を立ち去るとき、「カチャリ」とまた小さな音が聞こえ、振り返るとファティマが手を振っていた。

2014年、ガザから出るとき、アベッドに連絡して出境の前日に会う約束をした。
「ファティマも連れて行きたいから、家じゃなくていいか?」と言うので、「当たり前だ、ファティマと3人でカフェで会おう」と場所を指定した。しかし、前日の夜にアベッドから連絡があり、「ごめん、フジ。明日いけない」と。
「なんで?」と問うと、「ファティマがインフルエンザに罹った」と。
「じゃあ二人で会うか?」と言うと「高熱の妻をほっとけない」と。
「アベッド、お前ほんとにファティマのことが大好きだな」と、微笑んだ。

あんなに賢く、自由な考えを持つ聡明な人なら、そりゃ大切にしたい。あんな人物が、ガザに閉じ込められずに、あるいはガザの習慣にとらわれずに生きることができたら、どんなによかっただろう。

もう、アベッドの家も消滅し、連絡は取りようがない。

どこかで、無事を祈るしかない。

 

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