ガザのアベッドとファティマ夫妻 | ジャーナリスト藤原亮司のブログ

ガザのアベッドとファティマ夫妻

2002年のガザでは、もうひとりとても親しくなった人がいた。
泊まっていたアダムホテルのウェイター、アベッド・マンスールだ。
彼もサミールと同じように週に2日ぐらいしか働けないが、仕事に出てきた日には終わってからも私が取材から帰ってくるのを待っていてくれ、何かと話した。

彼はまだガザが封鎖されていなくて海外に出られたころ、ウクライナの医学校に留学した。医者になろうと思ったのだという。
しかし彼の実家は学費の援助を続けられず、2年ほどで彼の留学は打ち切られ、ガザの安ホテルでようやく見つけたのがウェイターの仕事だった。
私より3歳ほど年下の彼は、当時29歳。アラブ人にしては遅い結婚をしたばかりだった。
私がガザを出て帰ると言うと、「一度わたしの妻に会ってくれ」と、家に招かれた。

家を訪ねると、彼ら夫婦が使っている部屋に通された。ガザの人たちは土地がないため、一棟の家を上に建て増しして行って、兄弟などが一緒に暮らしている。
「今日は兄弟も父親もいないから」と、アベッドと妻のファティマの三人で話した。
ガザから一歩も出たことがないファティマは、ロシア語を勉強したアベッドが話す英語よりもずっと上手な英語を話した。
当時は20代前半か半ばぐらいだったか。とても知的で穏やかで、美人で好奇心にあふれていた。本当に広い視野を持つ女性だった。私に日本や他の国のことをたくさん質問し、冗談も言い、たくさん笑った。イスラエルのことも聞いた。「ねえ、イスラエルの女性ってどんな感じ?いろんなとこに行けるの?好きなこと話せるの?」

私が答えを返すと、「いいなあ、イスラエルの女の人たち」と言った。

次にファティマに会ったのは、2009年の1月だった。
年末から年初にかけてのイスラエル軍侵攻で、家の一部を破壊されたアベッドの家を見舞ったとき。
そのとき、アベッドの親兄弟が総出で迎えてくれた。アラブの習慣では、解放的な家でない限り、男性の席に大人の女性は同席しない。そこにはアベッドの母親以外、女性はいなかった。

途中、中座して「家の被害の写真を撮ってくるから」と言って裏庭に出た。そのとき、3階のベランダから英語で呼びかけられた。ファティマだった。
「ハーイ、何年ぶりかでやっと会えた。フジ、ガザに来てくれてありがとう」
「何回かガザに来てるんだけど、会えなくてごめん」
「知ってる、アベッドに聞いてたから。今日は男の人たちがいるから会えなくて」
「仕事はしてる?」(女性が仕事をしていることがそもそも稀有)
「侵攻前まで役所で働いてたのだけど、今は自宅待機という名目の失業」、と笑った。

それから、また質問をしてきた。
「今、日本って何か変わった?最近はどの国に行ってるの?そこってどんなとこだった?」
ベランダの3階と裏庭で、部屋の中には聞こえないように声をひそめて話す。
そのとき、アベッドの兄が「フジワラ、そろそろ部屋に戻ってチャイ飲まないか?」と誘いに来た。それに応えているとき、上のほうで「カチャリ」と扉が閉まる音が聞こえた。
私が裏庭を立ち去るとき、「カチャリ」とまた小さな音が聞こえ、振り返るとファティマが手を振っていた。

2014年、ガザから出るとき、アベッドに連絡して出境の前日に会う約束をした。
「ファティマも連れて行きたいから、家じゃなくていいか?」と言うので、「当たり前だ、ファティマと3人でカフェで会おう」と場所を指定した。しかし、前日の夜にアベッドから連絡があり、「ごめん、フジ。明日いけない」と。
「なんで?」と問うと、「ファティマがインフルエンザに罹った」と。
「じゃあ二人で会うか?」と言うと「高熱の妻をほっとけない」と。
「アベッド、お前ほんとに妻のことが大好きだな」と、微笑んだ。

あんな人物なら、そりゃ大切にしたい。あんな人物が、ガザに閉じ込められずに、あるいはガザの習慣にとらわれずに生きることができたら、どんなによかっただろう。

もう、アベッドの家も消滅し、連絡は取りようがない。

どこかで、無事を祈るしかない。