ジャーナリスト藤原亮司のブログ -5ページ目

友人の誕生日に

2016年3月16日、シリアで拘束されているジャーナリスト、安田純平の映像が流されてから1年が過ぎた。
彼がシリアのイドリブにおいて武装組織に拘束されてからもう1年9ヶ月になる。

 

昨年1月~2月にかけては私自身もトルコに行き、彼の情報を探り、彼を捕らえている「ヌスラ戦線」(現在はレバント征服戦線に改名)関係者に接触、解放要請の手紙を託した。
その後もヌスラ関係者やその他の反体制派組織を通じて、安田さんの安否確認を続けたが、ヌスラと他の反体制派組織との関係悪化や、アレッポ陥落などの状況の変化により、彼の情報は今はもう入ってこない。

 

しかし、彼ならきっと、拘束されている側であるとはいえ、コミュニケーションをはかり、元気にサバイバルを続けているはずだ。
シリアの反体制派支配地域にはもう、外国人ジャーナリストは入ることはできない。だが、そこにただ一人だけ安田純平という日本人ジャーナリストがいる。

限られた環境下とはいえ、彼はそこで何を見聞きしているのか。彼は今も長い「潜入取材」を続けている。


いつか、無事に生き延びて帰国した彼が書くであろうルポは、誰一人外国人が伝えたことのない貴重なルポになるはずだ。
今日は安田さんの43回目の誕生日だ。再会を楽しみに待ちつつ、彼の誕生日を祝う。

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以下、昨年「危険地報道を考えるジャーナリストの会」ウェブサイトに寄稿した原稿より。

 

http://www.kikenchisyuzai.org/2016/08/03/201608031904/

論じられる「格差」への違和感

>格差をうみだす「学歴」 18歳で引かれる分断線

https://www.buzzfeed.com/satoruishido/gakureki-bundan?utm_term=.odLYBNEVy#.xeE05GKd7

 

この記事を読んでからずっと、何とも言えない違和感を感じていた。問題提起をする意義のある記事だとは思うのだが、何か読後感のモヤモヤが残る。それは「腹立たしさ」よりも「やりきれなさ」に近い。

 

ずっと考えていたが、結論としてはきっと、この記事を書いた記者も、問題提起をしている大阪大の吉川徹教授も、彼らが言うところの「下層」にご自身が身を置いたことがないのだろう。

だからこそ、低学歴=下層、高学歴=上層、という「分かりやすい分断状態」を仮設としてまず置き、そこから物事を見るという「間違った論法」を始めておられるのだと思う。

分からないことへのアプローチを、自分自身にとって分かりやすく始めるために。

 

さて、低学歴=下層なのか?

低学歴=貧困なのか?

それは、この記者や教授の思い込みが過ぎやしないか?

確かに、低学歴(高卒・専門卒)と大卒(ただの学部卒で大学院卒でもないのに「高学歴」というのも、いまどきよく分からない定義付けだが)には、その生活圏において大きな違いがあるのは分かる。

しかし、低学歴でブルーカラーの仕事をする人間が不幸で、貧困で、世の中への相対的満足度、収入などが低いと言えるのか。

あるいは、地元の高校や専門学校を出て、地元で仕事に就いて、結婚をして家庭を持った人たちを、「下に押し下げられている階層」と、彼らは一体「低学歴層」の暮らしの何を見て感じたのだろうか。

 

確かに、彼らが言う「低学歴層」には、低学歴ゆえに貧困に苦しむ人達もいるだろう。しかし、それは「高学歴層」の社会においても、一定の落伍者が出るのとさほど変わらない程度の確率なのではないか。「高学歴層」の中に、どの程度の「落伍者」や「社会に絶望している人たち」がいるのかは、全く述べられていない。

 

一方で、地方で高校を出てローカルな会社に就職し、あるいは家業を継ぎ、長年安定した収入を得て子どもを育て、「マイルドヤンキー」たちが大好きな趣味の車、人口密度の高いバーベキュー、趣味の世界を夫婦・家族・ローカルな友人と楽しみ、実家の近所に一戸建てを建て、地域社会の中で楽しい暮らしを送る人たちの姿は、この記者や教授の眼には入っていないのだろうか。

 

階層は確かにあるだろう。しかし、その階層は下から上へと積み上げられた「低学歴」を下層とする積み木状態ではなく、単に横に広がる階層にすぎないはずだ。

彼らが言う「積み木型の階層」の上にいる人が社会に投げかける問題提起のその根本にこそ、ものすごく一部の社会しか見ていない人たちの現実離れした目線があり、その目線こそが社会の分断を助長しているといえるのではないか。

 

 

「破婚」(及川眠子氏・新潮社)読了

長時間病院で待っていたので一気に、Winkの名曲やエヴァンゲリオンの主題歌などを手掛けられた作詞家、及川眠子さんの著書「破婚」(新潮社)を読了。とても面白く読ませていただいた。
副題は「18歳年下のトルコ人亭主と過ごした13年間」。
本の帯には、「3億円を失い、離婚時には7000万円の借金を背負った破れかぶれな結婚生活を告白!」とある。

この本に書かれていることとは状況が違うので不謹慎ながら、読んでいて「こいつに追い込みをかけてやる」と思ったヤクザは相手を徹底的に叱責し、面罵し、そして「少しだけとても誉める」という話を思い出した。

ひとりの人間が、愛や情という解決しがたい思いゆえに、それにとらわれ、それを利用し、お互いが壊れていく。そこには日々、とんでもない苦痛と重圧が伴っていただろうと思うが、その情景を実にあっけらかんと綴られている。

トルコ人の友人・知人は多くないが、ムスリムのアラブ人のそれは少なからずいる。彼らとトラブるのはいつもカネの問題であり、この本を読ませていただきながら、そのことや、それらの人々のことを思い出した。

及川さんの壮絶人生を語る言葉を私は持たないが、本の終わりのほうに書かれた及川さんの言葉が染みる。

「人と関わることで、そこに生まれた感情が言葉を引き出すのだ。
今の痛みはいつか他のものに変わるだろう。時間に洗われていくうちに、かたちを変えてゆくだろう。そして、次にまたどんな思いに囚われるだろう。
私は私自身をわかりたくて、詩を書いてきたのかもしれない。」

考え、自分を分かろうとし、他者を分かろうとし、自分が大切だと思って関わった人間や仕事と心中するかのごとく生きて来られた及川さんの「覚悟」に頭が下がる。

防衛装備庁とイスラエルの共同研究

以前にも書いたが、防衛装備移転三原則により、日本はイスラエルと武器の共同研究・開発を進めることになった。
この「新三原則」は以下のとおり。

①国連安保理の決議などに違反する国や紛争当事国には輸出しない
②輸出を認める場合を限定し、厳格審査する
③輸出は目的外使用や第三国移転について適正管理が確保される場合に限る

イスラエルとの共同研究・開発は、イスラエルが国連安保理決議を1967年の第三次中東戦争以来ずっと無視し続けるゆえに①に抵触しているはずだか、それを野党も問題にはしない。ゆえに、イスラエルとの武器の共同研究・開発に異議を唱えようとはしない。

また、③については、イスラエルは世界有数の武器輸出国であり、数々の紛争当事国にも武器を送っている。そこで武器がどのように「適正な管理」がされているかなど、日本政府がコントロールできるわけもなく、ゆえにこれも「新三原則」にも反している。

②についても、一旦国外に出た武器や防衛装備品、または共同開発した武器を、日本が厳格審査など出来るわけがなく、いかような解釈・運用も可能であり、この条文は全く意味をなさない。

この「新三原則」は安倍政権下で閣議決定されたものだ。兵器ビジネスはこの「新三原則」で武器ではなく「防衛装備品」と言うように武器だけでなく、軍事転用可能なあらゆる民生用機器を含み、日本企業にとっては莫大なビジネスチャンスとなる。

また、これまでは海外との共同研究・開発ができず、輸出もできなかったために自衛隊の兵器は膨大な価格となり、自衛隊はそのコスト高に喘いでいた。
「国産兵器」が誰かを殺すことになりかねない「新三原則」は国家と企業双方にとって、いわばウィンウィンなのだ。

しかし、この「新三原則」を規定し、閣議決定したのは安倍政権ではあるが、この道筋を作ったのは2011年の民主党の野田内閣であることを忘れてはならない。
民主党(民進党)には安倍政権の積極的平和主義に異議を唱える資格は実はない。ゆえに、イスラエルとの武器の共同研究・開発に異議を唱えることをしない。

アスリートのドーピング問題

ロシア選手の組織的なドーピングによる、リオ五輪出場停止がいま話題にされている。
しかし、スポーツ選手にとって問題なのは、ドーピングという問題が、あたかも薬物摂取による反社会的行為や違法行為だという、誤った認識や報道がなされていることだ。
体力回復のため、健康維持のため、体力向上のため、風邪や頭痛の投薬やサプリやドリンク剤摂取、医学的施術…。

例えば、アスリートではない一般人であっても、日常的にそれらの「行為」をしない「健康な人」が世の中のどこにいるだろうか。ほとんどの現代人は「ドーピング」を行っているのだ。
ドーピング問題がおきるのは、「薬物摂取をしているからアウト」ということではなく、「ここまでは大丈夫だが、これ以上はアウト」という基準のグレイゾーンがあまりにも広く、それが頻繁に改定されるからに過ぎない。

つまり、許容範囲内の「ドーピング」はずっとスポーツ界では認められてきており、ドーピング行為自体が「悪」ではないのだ。
すべての投薬や医学的施術が「悪」だというなら、風邪をひいてもインフルエンザにかかっても、胃腸を壊しても、薬一粒も飲んではいけない状況でマラソンを走り、競泳を泳ぎ、格闘技を戦い抜かなければ全部アウト、ということだ。

かつて、日本のスキーのジャンプやノルディック複合が世界を席巻していたころ、ことごとく日本人選手に不利なルールに改定されたことがあった。ドーピング問題というのはそれと同じく、これまで認めてきたことが「今日ルールが変わった(明日変わる、ではない)」ということで勝者をおとしめる「政治的行為」である。

「ここまではOK」と言われていた範囲内で、純粋に肉体を鍛え抜いたアスリートへの裏切り行為が、「ドーピング違反」でしかない。
「ドーピングがダメだ」というのであれば、すべてのアスリートを中世の生活に戻して一切の人工的なものを口にせず、動物の一種としての人間の極限を競うアテネの奴隷競技時代、に戻すのならそれも成り立つ。

しかし、それはものすごく退屈で、「平凡」な記録しか生まれない、広告代理店やスポンサーがどこも見向きもしないごく基本的な肉体競技だけの戦いになるだろう。
それでも見るほうはエキサイトするし、興行的に主催者やスポンサーがそれでよければ、いくらでも先祖返りすればいいだけのことだ。よほどの天才でも出ない限り、記録は今の基準からみれば「平凡」であり続けるだろう。

だが私は、「許されたルール内」でもっと上の極限を極めようとするアスリートに敬意を感じるし、同時にそれを「政治」で貶めようとする「権威者」を醜いとしか思えない。
と、ドーピングの罠に堕とされて叩かれ「自殺」に追い込まれた、イタリア人の自転車界の英雄、マルコ・パンターニを思いながらいらんことを言う。