ジャーナリスト藤原亮司のブログ -2ページ目

ガザのサミール、そして息子のハムザ

ガザで暮らすハムザ一家のクラファン・寄付をしていただいた皆様、本当に感謝致します。大変厚かましいお願いであることを承知しております。

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“I hate to do this”

これはクラファンの告知にハムザ自身が書き込んだ冒頭の言葉です。誰かに寄付をお願いする自分自身への侮蔑です。


このクラファンを行なっているガザのハムザは、私の親しい友人であるサミールの息子で22歳の大学生だが、もう彼が通うべき大学はイスラエル軍に破壊されてない(全てのガザの大学は破壊された)。
サミールと出会ったのは2002年の始めのこと。彼はまだ26歳で、いつか自分の能力を試すために、海外に出て商売がしたいと言っていた。頭の回転のいい、それに自分の置かれた環境を自虐的、客観的に笑い飛ばせる、どこか達観したやつだった。私自身は、当時は32歳。

その頃、パレスチナとイスラエルは「第二次インティファーダ」の頃だった。ガザは封鎖されて、サミールはどこにも行けないし、仕事も週に2回か3回、ホテルのウェイターの仕事を数時間できるぐらいしかなかった。
それでも何とか才覚を生かして金を工面し、海外に出ることを夢見たけれど、許可は下りずに諦めた。そして、結婚してすぐに授かったのがハムザだった。私はハムザが母親のおなかの中にいるときに、サミールと知り合った。

それからガザに行くたびに、サミールと会い、話し、何度も取材を手伝ってもらった。家にも何度も行き、ハムザにも、そのあとにたくさん生まれたきょうだいたちにも会った。

ハムザは幼稚園児から小学生になり、高学年になると私とサミールの話の場にはいつもいた。こんなどうでもいい酒飲みな生活をしている私に彼は、「日本ってどんなとこ?」「アフガニスタン?」「ヨルダンは?」「エルサレムは?」「ヨーロッパは?」と聞く。ガザから一歩も出られない彼ら一家にとって、仕事で色々な外国に行く私を、恥ずかしいけれどハムザは憧れのように思ってくれた。
たまに、ガザに行っていないときにサミールに電話をすると、「子どもたちがフジは今どの国にいるんだ?と聞いてるぞ」と言った。「フジのことをしょっちゅう『どうしてるの』と聞いてくるぞ」と。

 

彼らガザの子どもたちにとって、私は彼らの生きている世界で唯一の部外者であり、異文化であり、外の世界とのつながりだった。サミールの子どもたちが、自分をそんな存在だと思ってくれることが、嬉しかった。

 

またいつでもガザに行ける、と思っていた。そこにはサミール一家がいるし、知っている町がある。いつでも、彼らと話すことができると。
しかし、2023年10月7日に、すべては変わった。もうどこにも、私が知っているガザの風景はない。

すぐにサミールに電話をかけた。そのときは繋がったが、サミールは言った。「これから、地獄が始まる」と。そしてその予言めいたことは、現実になった。いつもこいつは、当たってしまう予言めいたことを言う。

 

ずっと前から。ハムザもサミールも、他の子どもたちも、人の施しを受けずに、平和なときでも仕事がほとんどなく、生きることすら大変なガザで、自らの手で生活を維持してきた。しかし、この侵攻(「侵攻」などという生易しい言葉か!)家は破壊され、どこにも行くところがない。もはや他人からの寄付を貰うことを選択せざるを得ない。

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みなさまにいただいた寄付は、単にお金というだけではなく、世界に見捨てられたかのようなガザで、それでもどこかで自分たちを気にしてくれている誰かがいる、ということであり、それがこれからも彼らが生き延びようと思える力になると思います。

230万人近いガザの人たちが同様の苦難を科せられている中で、ひとつの家族だけを救おうとすることの欺瞞も承知しています。

重ねて、今回の不躾なお願いについて、お詫びとお礼を申し上げます。

ありがとうございます。引き続き、ご寄付を賜ることができれば幸甚です。https://twitter.com/Hamza_sameer1/status/1787548055396339833

 

 

大吉原展

かつてここで働いていたひとりの人、いまもここで働いている人、もうひとりはここで店長をしている人と、一時期親しく関わった。


島原など京都にルーツを持つ吉原・新吉原の歴史と、それが江戸文化のひとつのように華やいだ時期があった一方で、「豪華な女郎」に逆に貶められていった江戸期。

江戸文化の華やかさというのは、日本が独自性を発展させながらも、内に向かってのそれがやがて行き詰まるまでの花火みたいな華やか











さではないかと、思うことがある。


明治末の吉原炎上ぐらいまでの吉原には、その中で名を上げれば格を越えられるという、いびつではあるが、その中でしか生きざるを得なかった人たちの「文化」というものがあったのかもしれない。

しかし、大正から戦前戦後、昭和33年3月末の売春防止法の頃には、東向島をはじめとする三業地や色街にさえ、吉原の存在感は薄められた。


それでも、バブル期からバブル後のしばらくの間は、JR山手線の鶯谷駅には、ソープの客を待つ送迎のハイヤーや自社の高級車がたくさん並んでいた。

「吉原ブランド」が少しだけ、復活した時期でもある。しかし、それももはや古い話になって久しい。


いま吉原を歩くと、かつてソープだった建物の多くはマンションになり、今も営業をしている店舗も、昼間の明るいときは傷みが激しい。ここにかつての吉原の花柳をイメージするには、かなりの想像力がいる。


かつてここで働いていた友人は、「他に、どこで仕事ができる?できたとしても、結局しばらくしたらみんなにバカにされんのよ」と言った。「ここは、他に比べて『マシ』なのよ」と。

彼女はおしゃれで、他者にも気遣いする人で、話も楽しい。いろんな魅力がある。でも簡単な計算ができないのと、記憶をすることが極端に苦手だ。しかし、それ以外は「普通」に見えるので、彼女の抱えるしんどさは他者からは見えない。


だから、かつて働いていたアパレルでも、その後就いた製造業の仕事でも、「バカ」とか、「仕事なめてる」とか、「やる気ない」とか言われたそうだ。

そして、「吉原が楽」なんだと。

「だいたい普通」に暮らせている私には、彼女がその都度どんな思いで生きてきたのかは分からない。


最後に会った頃、彼女は40歳になった。「おばさんで吉原にいられなくなったら、川口とか錦糸町とか、それかどっかの地方行くよ」と話していたのは、もう10年近く前になる。

コロナ禍の頃、「こんな時期どうしてるんだろ」と思って覗いた彼女のSNSには、四国の劇場で踊っている姿があった。

そのSNSもいまは更新されていない。吉原に戻ったのか、それともどこかの地方にいるのか。別の暮らしを見つけたのか。


大吉原展はまだ始まっていない。「見てから言え」と自分に思うが、「あんなポップにしてくれるな」とも思う。ただ今もにそこで生きているかもしれない知り合いを思うと、少しモヤモヤするだけだ。


ガザのファウジー

2009年1月の朝、自宅に押し入ったイスラエル軍兵士に、目の前で父親と幼い弟を撃ち殺されたファウジーは当時15歳だった。

彼が暮らしていた家の屋根は半ば崩れ、案内されて奥へ進むと小さな台所の土間の木炭ストーブの上に、炭になったナスが4つ放置されており、床には干からびたアラブコーヒーが入ったコップが置かれていた。兵士がやってきたとき、家族はストーブを囲み朝食を食べようとしていたときだった。

 

ガザ市南部のザイトゥーンはそのとき、イスラエル軍部隊の侵攻ルート上にあった。部隊は進軍の安全確保のため、戦車と装甲車に守られた歩兵が、一軒ずつ家をまわって掃討戦を行なった。

ファウジーが言うには、外から激しくたたかれたドアを開けたとたん、兵士が父親を撃ったという。その流れで何発か撃ったうちの一発が、弟を殺した。母親とファウジーは連行され、別の町まで連れていかれた。「戦闘が終わるまで町に戻るな」と言われて。

 

2014年にガザに行ったとき、20歳になったファウジーと再会した。20歳のいいお兄ちゃんになっていた彼は、首からひもで小さなマグライトをぶら下げて出てきた。「これ、まだ大事に使ってるよ」と、はにかんで笑った。「Japan Press」のステッカーを貼ったマグライトは、2009年に彼にプレゼントしたものだ。

ファウジーは亡くなった父親の畑を受け継ぎ、トマトや葉物野菜を作って暮らしていた。

ファウジーはいま、29歳になっている。去年の始めごろ、彼を知るガザの友人から画像が送られてきた。2歳ぐらい?の女の子を抱いたファウジーがいた、家族を失った彼が父親になったのかと、胸が詰まった。

 

今回のガザ侵攻、ガザ市南部を進軍したイスラエル軍は、ファウジーの家と畑があるザイトゥーンに部隊を進めた。航空写真で見たザイトゥーンは畑は無くなり、土が掘り返され、新しい軍用道路が作られていた。

ファウジーの畑は踏みつぶされた。どうか、彼が手に入れた家族だけでも無事でいてほしい。

 

ちょうど一年前のこと

ちょうど一年前、広島で講演をさせてもらった。
終わったあと飲んで、時間はまだ20時半。もうちょっと飲みたいなと思った。
しかし、よく知らない広島市中心部の繁華街で飲むより、昨夜行ったJR横川駅周辺のほうがちょっとだけ勝手がわかって楽しそうなので、タクシーでそこに向かう。

昨夜行った店で飲んだあと、ホテルに帰ろうとバスか路面電車の時刻を調べて、バスが良さそうなのでバス停を探す。
ところが、横川駅周辺には系統ごとにバス停が少し離れたところにいっぱいあって、どのバス停に行けばいいのか分からない。
スマホを見つつバス停を探していたために前を見ていなくて、20代前半~半ばぐらいのひとりの女性とぶつかりそうになった。

その気まずさを打ち消すため、「あ、すいません。銀山町方面に行くバスに乗りたいと思って調べてたんですが…。そのバス停がどこか分かりますか?」と聞いた。
するとその女性は、「ああ、ここバス停がいっぱいあって分かりにくいですよね。ちょっと待ってください」といって、どのバス停がその路線なのか探してくれた。

でも、地元に住むその人にも分かりづらいらしく、迷っているうちにバスの時間が過ぎた。「ほんと、ごめんなさい、私が迷ってたから終バスが出ちゃったみたいで。でも、まだ終電はあるみたいなんで、それに乗って帰ってください」と、路面電車の電停まで連れて行こうとしてくれる。

「いやいやいや、一人で行けますよ。なんならタクシーでも帰れます。私と関わったせいで、きっと無駄に歩かせただろうし、すごく時間とらせてすいません」と言ったのだけど、「いえいえ、私のせいでバスに乗れなかったのでお付き合いしますよ。どうせ私は近所に住んでるんですぐ帰れますから」と。

そして、電停まで連れて行ってくれ、最終の路面電車が来たことを確認したあと、名前も知らない彼女は「よかった~」と言い、「タクシー乗らなかったぶん、まだ飲めますね」と言って笑った。
最後に「広島を楽しんで帰ってくださいね」と大きく手を振って見送ったあと、帰っていった。
何という町だ、広島は。

「実用洋食」三好弥の系譜をたどる(番外編)

※2019年11月の記事

文豪・永井荷風の人生は華やかでありながらも孤独だった。30歳前後で新進作家としての地位を築きながらも私生活は結婚と離婚を繰り返し、親族とも断絶状態になる。

若い頃から米仏で暮らし、広い世界を知る彼にとって日本は息苦しい社会だったのかもしれず、人間関係はことごとく上手くいかない。

 

中年期以降の荷風は旺盛な執筆活動を行なう一方で、人肌の温かみを求めるかのように、人々の生命がぶつかり合う街に通い始める。旧東京市向島区寺島町、現在の墨田区東向島にかつて存在した遊郭街、玉の井地区である。

1937年(昭和12年)、荷風はこの街を舞台に、自らを投影した小説家と私娼を主人公とする小説「濹東奇譚」を発表した。

玉の井は、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で町のほとんどが焼失したが、逞しくも経営者たちの一部は、空襲被害を逃れた1キロほど南西にある場所を間借りし、早々に営業を再開する。のちに「鳩の街」と呼ばれる旧寺島1丁目(現在の東向島1丁目)である。

 

鳩の街は終戦後、占領軍将兵向けのRAA(特殊慰安施設)を経て、昭和33年4月1日に売春防止法が施行されるまで赤線として営業を続けた。

空襲を逃れたこの地区は、今も自転車一台がようやくすり抜けられるほどの路地が入り組み、旧赤線と筋一本を隔てて残る「鳩の街商店街」はまるで昭和を描く映画のセットのような風情を残しつつ存続している。

かつて荷風が玉の井をラビラント(迷宮)と呼んだそのままの町割りが今も残る路地裏には、赤線を示すタイルで装飾されたカフェー建築の建物がごくわずかながらも建っている。そんな鄙びた商店街の入り口に、東向島・三好弥はある。

三好弥一門には珍しく茨城出身の店主さんが、御徒町・三好弥で修業を積んだ後にこの地でのれん分けを許されてから42年になる。

 

1977年(昭和52年)の開店当時、この街は商店や中小・零細企業、町工場などで活気にあふれていた。

赤線廃止から19年が過ぎていたとはいえ、最盛期には100軒を超えたという娼家の多くは飲食店や飲み屋、商店にその姿を変え、近隣の人たちにとっては浅草に出なくても済む歓楽街として栄えていた。

また、同じ墨田区内の東墨田地区で屠畜業や皮革業に従事する「不可触民」たちが、その身分を明かさずに遊べる街でもあった。

 

ご店主は現在68歳。現存する三好弥の店主の中では若いほうである。2年ほど前に閉店された四ツ木・三好弥と三河島・三好弥の店主とは御徒町で寝食を共に過ごされた。

「御徒町の店の2階が寮になってましてね。せまい部屋でみんな雑魚寝ですよ。仕事場でも寮でもずっと一緒で、先輩・後輩の規律も厳しくてねえ。何度辞めたいと思ったことか」と笑う。

それでも辞めなかったのは、どうしても自分の店を持ちたいと思っていたからだ。

 

「何人もの同僚が辞めていきました。御徒町の店は小さいのに繁盛店で、料理人が9人、ウエイトレスが3人もいました。先輩が独立してくれないとなかなか(独立する)順番が回ってこないんですよ。それを待ちきれずに辞めていく人もいました」

修業を始めてから11年、ご店主はのれん分けを許された。

「開店からすぐに、たくさんのお客さんが来てくれてねえ。下世話な話ですいませんが、たった4年で(購入した店の)元が取れました。それだけこの町がにぎわってたんですね。いい時代でした」と、おかみさんは当時を振り返る。

「あの頃はどこの会社も平日も週末もなく働いてましたでしょう。でも土日なんて社員食堂は休みだから、お昼には30人前の出前の注文が入ったりして。もう主人は殺気立って怒りっぱなしでしたよ」。大変だったはずの記憶も、今となっては懐かしげに笑う。

 

のれん分けが決まったあと、おかみさんも御徒町・三好弥の厨房で料理の修業をしたのだという。まさに、夫婦で苦楽を共にして生きた。

「今は常連さんもどんどん亡くなって、すっかり毎日ヒマですよ。来年あたりには辞めてるかもねえ」と冗談半分で話す。しかし、忙しくてピリピリしていた昔とは違い、ご夫婦は仲良さげだ。

「ねえねえ、この記事見て。おかしいでしょ~」と、おかみさんは新聞で見つけた話を厨房で話して聞かせ、ご主人はにこやかに相槌を打つ。

 

「三好弥に興味がある人がいるなんてねえ」と、私の無駄話につきあってくださり、まだ三好弥のれん会が存続していたころの名簿も見せてくださった。

私が葛飾区在住であることを告げると、「最近、立石ってよくテレビに出てるでしょう。私も一度、行ってみたいんですよ。でも主人がお酒飲まないし、モツが嫌いで。でも、立石ってここからバス一本で行けるんですよね?今度一人で行ってみようかしら」と、おかみさんはいたずらっぽくご主人の顔を覗き込み、そのしぐさにご夫婦はともに声をあげて笑った。
 

東向島・三好弥

墨田区向島5-43-14
閉店