大吉原展 | ジャーナリスト藤原亮司のブログ

大吉原展

かつてここで働いていたひとりの人、いまもここで働いている人、もうひとりはここで店長をしている人と、一時期親しく関わった。


島原など京都にルーツを持つ吉原・新吉原の歴史と、それが江戸文化のひとつのように華やいだ時期があった一方で、「豪華な女郎」に逆に貶められていった江戸期。

江戸文化の華やかさというのは、日本が独自性を発展させながらも、内に向かってのそれがやがて行き詰まるまでの花火みたいな華やか











さではないかと、思うことがある。


明治末の吉原炎上ぐらいまでの吉原には、その中で名を上げれば格を越えられるという、いびつではあるが、その中でしか生きざるを得なかった人たちの「文化」というものがあったのかもしれない。

しかし、大正から戦前戦後、昭和33年3月末の売春防止法の頃には、東向島をはじめとする三業地や色街にさえ、吉原の存在感は薄められた。


それでも、バブル期からバブル後のしばらくの間は、JR山手線の鶯谷駅には、ソープの客を待つ送迎のハイヤーや自社の高級車がたくさん並んでいた。

「吉原ブランド」が少しだけ、復活した時期でもある。しかし、それももはや古い話になって久しい。


いま吉原を歩くと、かつてソープだった建物の多くはマンションになり、今も営業をしている店舗も、昼間の明るいときは傷みが激しい。ここにかつての吉原の花柳をイメージするには、かなりの想像力がいる。


かつてここで働いていた友人は、「他に、どこで仕事ができる?できたとしても、結局しばらくしたらみんなにバカにされんのよ」と言った。「ここは、他に比べて『マシ』なのよ」と。

彼女はおしゃれで、他者にも気遣いする人で、話も楽しい。いろんな魅力がある。でも簡単な計算ができないのと、記憶をすることが極端に苦手だ。しかし、それ以外は「普通」に見えるので、彼女の抱えるしんどさは他者からは見えない。


だから、かつて働いていたアパレルでも、その後就いた製造業の仕事でも、「バカ」とか、「仕事なめてる」とか、「やる気ない」とか言われたそうだ。

そして、「吉原が楽」なんだと。

「だいたい普通」に暮らせている私には、彼女がその都度どんな思いで生きてきたのかは分からない。


最後に会った頃、彼女は40歳になった。「おばさんで吉原にいられなくなったら、川口とか錦糸町とか、それかどっかの地方行くよ」と話していたのは、もう10年近く前になる。

コロナ禍の頃、「こんな時期どうしてるんだろ」と思って覗いた彼女のSNSには、四国の劇場で踊っている姿があった。

そのSNSもいまは更新されていない。吉原に戻ったのか、それともどこかの地方にいるのか。別の暮らしを見つけたのか。


大吉原展はまだ始まっていない。「見てから言え」と自分に思うが、「あんなポップにしてくれるな」とも思う。ただ今もにそこで生きているかもしれない知り合いを思うと、少しモヤモヤするだけだ。