努力と証明はどちらも説教界における重要キーワードです。追いこまれる シリーズその他でも明らかになっているように、仕事を覚えられないのは100%その人の努力が足りないからであり、そうでないのなら努力していることもしくは努力してもできないことの証明を要求されます。
 前にも書きましたが、私は社会で努力していない人というのに会ったことがありません。というか見てもわかりません。1人の人を1日中見張っていたことはないし。
 仕事を進める上では、できるかできないかが重要で、努力しているかいないかなどどうでもいいと思うのですが、努力ではなく能力基準で見たらいけないのでしょうか。
 
【努力が足りない方式】
1 何かの分野で基準に達しない者は努力していないとみなされる。
2 みなされた者は、努力していることを自力で証明しない限り「努力が足りない努力が足りない努力が足りない」と責められ続ける。
3 仮にデータで努力したことを掲示できても、判断する側の努力指数は客観ではなく主観であるため、「もっと改善する余地はある」で終了、どこにどんな余地があるかは説明されず、無理に聞くと逆ギレされる。
4 努力してできないなら仕方ない、とジャッジする側も認めている。(仕方ないから解雇なのか仕方ないから協力するのかは不明)
5 正社員なら辞表を出すまで罵倒され続け、非正規雇用なら雇用契約解除。
 
【能力がない方式】
1 何かの分野で基準に達しない者は能力がないとみなされる。
2 その人のできそうな仕事に転換する。
3 全ての仕事において能力がない場合は雇用契約解除。(正社員でも)
4 本人が頑張りたいということなら、一定期間に所定の実績もしくは到達点に達しなければ辞めていただくことを前提に雇用を継続してもよい。
 
 別に問題なさそうな気がするんですが、私の視点が一方的なのかも知れません。怒られ続けた末解雇される方が、あまり怒られないまま解雇を告げられるよりもショックが少なくてよいと考える人もいるでしょう。一方、怒られ罵倒され続けたあげく解雇というのも悲惨です。新卒の頃
「怒られるのはそれだけ期待されているから、こいつは駄目だと思ったら怒ることもやめてしまう」
というのを真に受けて自分はすごく期待されているんだと勘違いしていましたが、私の経験では、怒る人は駄目だと思っても怒り続けます。
 
 努力している証明のためのエネルギーや、
「努力が足りない努力が足りない努力が足りない」
と責め続ける方と責められ続ける方、双方の消耗するエネルギーは凄まじいです。もっと別なことにこのエネルギーを使った方がよくないでしょうか。
 これでうつ病や神経症を発症し、引きこもり化してしまったら、家族にも社会にも大変な負担です。大体、
「努力が足りない」
だけでなく
「あなたはどこに行ったって駄目だと思うよ」
と呪いの予言もされるので
「自分はどこへ行ったって仕事なんかできないんだ、自分なんかが働こうとしたらかえって社会に迷惑をかける、自分のような人間はいない方がいい」
という気分になります。
 
 あえて努力が足りない方式を擁護すると。
1 もしかしたらそれで芽を出す人がいるかも知れない。(いるのか?)
2 指導者を変えることでうまくいった場合、努力量のせいにしておけば前の指導者に恥をかかせないで済む。
3 なぜあんなの採用した、と採用担当者が責められた時、本来の能力はあるはずと言い訳できる。
 
 偉い人の立場を守るためかい、というのは私の偏見ですが、努力なんてもんをありがたがるお陰で
 
努力するニート>>>越えられない壁>>>(ニートから見て)努力しない労働者
 
という誤った価値観が発生し、愚痴をこぼしながらも真面目に働く労働者を馬鹿にするニートが登場し始めて困ったものです。
 
 
 6月21日の記事。議論ルールでは言う資格論を放棄しないと議論が成立しない、というのは私も賛成ですが、ニートが労働者に
「怠け者」「努力が足りない」
と説教するのは、努力さえしていればどんなに怠けてもいいというくらい整合性がありません。自分が普段言われていることを人に言いたくて仕方ないんですね。一般論として自分のブログに書くなら一意見ですが。
 神々との戦い を書いた時はタイトルを先に思いついたので、無理やり
「とてもかなわないものの象徴」
と意味づけました。かなわないものとまず考えるところを見ると、私はやはり神を絶対的なものと認識しているようです。
 まだ「神々との戦い」続編を書けないため、そのプロローグとして、ちょっちぷんさんの記事神と鏡と私とあなた2 を参考に、思考を整理します。
 
A「自分がされて嫌なことは他の人にしないようにしましょう」(私=他)
B「自分がされて嫌でなければ他人にしてもいいとは限らない」(私≠他)
C「自分がされて嫌なことでも他人にしなければならない、またはしてもよいことがある」(私?他)
 
 ネット上の議論(特にはてな系)を眺めていますと、他者を批判する方法として上のABCのようなことがバランスよく登場します。
 
 無断リンク禁止をマイルールとしているサイトが他のサイトを無断リンクしていた場合、Aを適用すれば
「自分は無断リンク禁止をうたっておいて人様のサイトを無断リンクするとは何事か」
と怒られるところですが、リンクした先がリンクフリーのサイトであれば何の問題もないのです。
 
 Aは子供の道徳教育 には有用であろうと思われますが、これが
「自分が嫌でなければ他人にしてもよい」
につながると、異質の他者を攻撃する権利を与えることになります。
 知っていてやる人と知らずにやる人がいます。知らずにやる人(昔の私)の方が厄介です。Aをひたすら振りかざせば誰もAを否定できないからです。Bに成長するまでが大変です。
 
 Cを使いこなすには相当の人格的成熟を必要とします。何にも束縛されない、「正しいことを振りかざす邪悪」にも揺るがない、確固とした倫理の軸。難しいです。
 本当に自分は間違っていないのか、確認するために本を読んだり人に聞いたりします。しかし本に書いてあることや人の言ったことが正しいとは限りません。本によっても人によっても違います。
 確固たる真実は自分の中にしかない、けれど、私の中には見聞体験した以上のものがありません。こういう時、宗教のような、自分の絶対軸となる教えに頼りたくなる気持ちはわかります。気の弱い私はそれすら選べないのですが。
 
 都合のいい論理で正当化しているだけで、中身はアイツラと変わらないか、もっとひどいのではないか、を問う時
「神をも怖れぬ所業」
という言葉が浮かびます。
 怖れている神の正体とは何か、それは、自分が正しい側の人間でありたいという俗っぽい欲望だけかも知れません。しかしその欲望を手放せば、自分は本当に邪悪なものになってしまうのではないかと思うと、神への畏怖にしがみつきたくもなります。
 
 
 6月19日の記事。今日(7月13日)でアメブロ版2周年です。2年前の今日、Yahooブログの不具合が激しく、コメント欄までたどりつけない、やっと入力できても消える、という状態が続いて、突発的に作ったこのアメブロ版。
 昨年の今日は1周年おめでとうメールが届きましたが(先月も間違ってきたけど)、2周年メールは来ませんでした。
 昔、日○ウーマンを愛読していた頃、こんなエピソードを読みました。
 
 同じ部署にいる、共に26歳の契約社員の女性A子さんとB子さん。その年A子さんは契約更新がなく、B子さんは残った。同僚Cさんの証言。
「A子さんは仕事はできるんだけど若手には若手の役割がある。上司が慣れないソフトの使い方を質問すると、今忙しいので後にして下さい、とつっけんどん、仕事ができるのを過信していたね。B子さんは自分の手の空いている時には最新ソフトのマニュアルを読んでいた。今は使えなくても将来役立つよ」
 
※私の記憶による文なので正確な引用ではありません。
 
 当時の私でも突っこみたくなったのは
「マニュアルを読んでいた」
の部分でした。読んでいただけかい。何かそれがこう役に立ったというエピソードでもあればまだしも。
 さらに、社会経験を積んでうるさくなった今の私は、このストーリーの全貌を妄想によって補います。ある専門分野で社員より知識のある契約社員を採用し、ノウハウを吸収したあげくポイ捨ての図。
 
 入社したら誰も導入したパソコンが使えなくて呆然、パソコンがらみの仕事は全部自分にまわってくる上、合間を見て社員に使い方を教えないといけない、仕事に追われてあせっているのに、上司は
「ダブルクリックって何」
と寝ぼけたことを聞いてくる、
「後にして下さいっ」
とイライラ、一緒に入社した同僚は手伝おうともせずボケッとマニュアル読んでいる、ええ加減にせえーーーー
 
 これは現実でも聞くエピソードです。ちょうどパソコンが社内に1台しかない時代から1人1台になる過渡期を私も経験しましたが、パソコン導入したものの社員はほとんど使えない、という会社はザラでした。
 パソコン使えるのは一部の派遣や契約社員や新入社員だけ、使える人間に業務が集中し、その間にボケッとマニュアル読んでいる女は
「B子ちゃんはいつも勉強熱心だねえ」
とほめられている、ギスギスしない方がおかしいのに、ギスギスしているというその1点だけで
「若手には謙虚さと向上心がないとね」
とバッサリ。
 
 A子さんかわいそう。こういう人は昔から馬鹿にされていました。成果を上げても評価されることはない、なぜかコミュニケーション能力とやらが長けた何もできない人間においしいところはごっそり持って行かれる、それはすなわち会社で生き残っていく能力がないということです。
 しかしくじけることはありません。ちゅうねんになれば、向上心よりも知識や技能、責任感等の方が堅いです。若ければ、向上心あるけど何もできないというのもかわいいですが、ちゅうねんだと限りなくうざいです。勉強熱心なB子さんは結婚退職しているでしょう。そっちの方がいいか。
 
 
 6月18日の記事。技術を持っていると就職はしやすいんですが、それ自体が評価の対象にはなりにくいのです。それが常態ですから。便利屋化してしまうまでならまだしも、解雇となると
「評価なんて気にする必要ない」
などとのんびりしていられません。それかクビになったらなったでいいや、とあきらめる。(また怒られそうなことを)
2007/6/8 Home away Home #21   わたりとりさん(20は限定公開中)
    <memo> 正当な理由があれば差別してもよいという恐るべき道徳主義者の無意識
    <key word> 情報開示、排斥、道徳、倫理、秩序、共通認識、利益、無自覚、正当な理由
    <tag> 宗教

2007/6/10 ▼「ヘイトスピーチ」とは何か(1)~第三論考   ナイジェルさん
    <memo> キナ臭く、揺らぎのある定義
    <key word> 憎悪に基づく発言、差別を煽動する言動、特定の個人や集団への嫌悪感
    <tag> 差別

2007/6/11 Home away Home #22   わたりとりさん
    <memo> 善人であろうとする人の差別心
    <key word> 人を人とも思わない、攻撃迫害、自己保身だけは抜群に上手、規範の外、不自由
    <tag> 宗教

2007/6/15 鏡、神々、戦わぬ道 #1   わたりとりさん
    <memo> 「差別したい」シリーズわたりとりバージョン
    <key word> 神を必要としないこと、邪悪な人、善人の皮、該当者、劇場の光景、違い、痛み、直感
    <tag> 差別

2007/6/16 神と鏡と私とあなた   ちょっちぷんさん
    <memo> 神という言葉に持たせた意味
    <key word> 対等、優れた、相対的、畏敬、多神教、一神教、一元論的思考、神は自分自身
    <tag> 差別

        神と鏡と私とあなた2   ちょっちぷんさん
    <memo> 絶対的価値観が揺るがなければ、相対的価値観につぶされることはない
    <key word> 絶対的価値軸へのウェイト、属性への愛、他を排除していく形の成り立ち
    <tag> 差別

2007/6/18 鏡、神々、戦わぬ道 #2   わたりとりさん
    <memo> 弁明のしようのないロジックの凶悪
    <key word> 屈折した心象、ポジティブに反転する誘因子、邪悪、レトリック
    <tag> 差別

2007/6/19 鏡、神々、戦わぬ道 #3   わたりとりさん
    <memo> 神を最優先の他者と置く軸と、自分の内なる良心と置く軸
    <key word> 外の規範、内の規範、私の価値、神様に恥じない、諦観から発する平らかな共感
    <tag> 差別

       高度な大人の道徳   chargeup
    <memo> 神を畏怖すべき攻撃者と置き、攻撃を避けることが最優先の判断基準となる軸
    <key word> 異質の他者を攻撃する権利、邪悪、絶対軸となる教え、正しい側の人間でありたい
    <tag> 差別

2007/6/20 浮遊砦-00   わたりとりさん(byFC2)
    <memo> 異文化交流議論モデル妄想小説プロローグ兼注意書き
    <key word> むやみに個性的、固定キャラ、客演者、クチダケ鳥、智庵居士、海風
    <tag> キャラノベ

2007/6/22 鏡、神々、戦わぬ道 #4   わたりとりさん
    <memo> 憎とは、支配と破壊の欲求を再生し続ける執着「服従せよ、さもなくば消えよ」
    <key word> 憎む、嫌う、執着、愛憎、自己実現欲求、支配欲、破壊欲、無生の領域、憎を抱擁
    <tag> 差別

 
 
 6月14日の記事。アメーバのトップに公職選挙法についてという文字が出ていてぎょっとしました。ブログでも事前選挙運動とみなされる記事は削除される可能性があるとか何とか。どの程度ならいいんだ。選挙関係の記事書けないやん。
 Home away Home #21 のコメント欄が私のリハビリセンターと化している件ですが、ここ半年以上
「コメント削除してウダウダ」
が発生していなかったので、記事にしてしまうか、数日して何事もなかったかのように元に戻るか悩んでおりました。
 
 コメント欄が500字改行つきになったことは、やり取りが格段に面白くなったというプラス面と同じくらい危険度が増したということであり、これを機会により警戒を強化するのは十分理由あることです。
 関係者には申し訳ありませんが、同じパターンを繰り返さないためにもここで起こったことはしっかり反省し、次回に生かすことにします。前回も、コメント欄にダジャレを書いてはいけない という貴重な教訓を得たのです。
 
 初めてでない方のコメントを削除する時は、それまでの人間関係を考えてどうにか軋轢を最小限にとどめようとして余計失敗してしまう、というのは現実の人間関係でもありそうです。
 今回、私は1つシナリオにないことをしてしまいました。削除した後入れる定型文に個別の理由を書いたことです。とっさの判断の誤りを避けるために定型文を用意しているのに、余計なことをしました。あれは、初めての方へ書庫を見て下さい、で終わらせるべきでした。個別に書いたら釈明されます。
「それはあなたの勘違いだ、そういう意味ではない」
新たな混乱を招きます。1回で済んだことがずるずる長引いて、お互いに傷を大きくします。
 削除したコメントの主をびっくりさせたくないとか悲しませたくないとか、いい人でもないのに(私がですよ)いい人ぶろうとしてしまいました。これはいけません。
 
 前にもどこかで書いた気がしますが、何か相手の意志と異なることをする時、理由を説明してはいけないのです。
「今後の参考に」
と相手は言葉巧みに聞きだそうとしますが答えたら
「あなたの勘違いだ」
とその理由をつぶされ、逃げられなくなります。
「私のどこが悪いのか率直に言って欲しい」
という人に、間違っても率直に言ってはいけないのと同じです。
 
 もちろん全てがそうではなくて時と場合によるのですけど、言ってもいいケースといけないケースの見分けが大変難しく微妙です。
 1回言ったら取り返しがつかないから、その場ではどんなに聞かれてもしらばっくれる方が私のような人にはよさそうですが、かなりの精神力を必要としますし、あまり意固地だとやっぱり人間関係を悪くします。
 とにかく削除の理由は個別には書かない、どんなに相手に悪いと思っても定型文のコピペだけとする、よし、そうしましょう。今回を教訓として。
 
 
 6月13日の記事。「初めての方へ」の記事にコメントがあったのでてっきり読んでくれたと思っていましたが読んでなかったようです。それとも自分がカウンセリングの勉強中だから大丈夫だと思ったのでしょうか。そういう人でこのブログを読んでいるけどコメントはしないでくれている人もいるのでしょう。そう信じて、偏見を持たないようにしたいです。