神々との戦い を書いた時はタイトルを先に思いついたので、無理やり
「とてもかなわないものの象徴」
と意味づけました。かなわないものとまず考えるところを見ると、私はやはり神を絶対的なものと認識しているようです。
 まだ「神々との戦い」続編を書けないため、そのプロローグとして、ちょっちぷんさんの記事神と鏡と私とあなた2 を参考に、思考を整理します。
 
A「自分がされて嫌なことは他の人にしないようにしましょう」(私=他)
B「自分がされて嫌でなければ他人にしてもいいとは限らない」(私≠他)
C「自分がされて嫌なことでも他人にしなければならない、またはしてもよいことがある」(私?他)
 
 ネット上の議論(特にはてな系)を眺めていますと、他者を批判する方法として上のABCのようなことがバランスよく登場します。
 
 無断リンク禁止をマイルールとしているサイトが他のサイトを無断リンクしていた場合、Aを適用すれば
「自分は無断リンク禁止をうたっておいて人様のサイトを無断リンクするとは何事か」
と怒られるところですが、リンクした先がリンクフリーのサイトであれば何の問題もないのです。
 
 Aは子供の道徳教育 には有用であろうと思われますが、これが
「自分が嫌でなければ他人にしてもよい」
につながると、異質の他者を攻撃する権利を与えることになります。
 知っていてやる人と知らずにやる人がいます。知らずにやる人(昔の私)の方が厄介です。Aをひたすら振りかざせば誰もAを否定できないからです。Bに成長するまでが大変です。
 
 Cを使いこなすには相当の人格的成熟を必要とします。何にも束縛されない、「正しいことを振りかざす邪悪」にも揺るがない、確固とした倫理の軸。難しいです。
 本当に自分は間違っていないのか、確認するために本を読んだり人に聞いたりします。しかし本に書いてあることや人の言ったことが正しいとは限りません。本によっても人によっても違います。
 確固たる真実は自分の中にしかない、けれど、私の中には見聞体験した以上のものがありません。こういう時、宗教のような、自分の絶対軸となる教えに頼りたくなる気持ちはわかります。気の弱い私はそれすら選べないのですが。
 
 都合のいい論理で正当化しているだけで、中身はアイツラと変わらないか、もっとひどいのではないか、を問う時
「神をも怖れぬ所業」
という言葉が浮かびます。
 怖れている神の正体とは何か、それは、自分が正しい側の人間でありたいという俗っぽい欲望だけかも知れません。しかしその欲望を手放せば、自分は本当に邪悪なものになってしまうのではないかと思うと、神への畏怖にしがみつきたくもなります。
 
 
 6月19日の記事。今日(7月13日)でアメブロ版2周年です。2年前の今日、Yahooブログの不具合が激しく、コメント欄までたどりつけない、やっと入力できても消える、という状態が続いて、突発的に作ったこのアメブロ版。
 昨年の今日は1周年おめでとうメールが届きましたが(先月も間違ってきたけど)、2周年メールは来ませんでした。