昨日の記事 (の後半部分)がよかったのかどうかわかりませんが、お互いに読み逃げしている間柄(こういう人多いな)だったきむろみさんが、私のこと(だけではない)をちょっと記事に使って下さいました
 他の人の記事に自分が登場するのはうれしいです。そうそうたる転載議論戦士の中に、自分がちょろっと入っているのは照れくさいです。
 
 たとえが上手です。私はレンガ色? レンガはいいかも。四角四面でガチガチで。牛男さんの、
自分を何かにたとえてみると
を見て、私も何かにたとえてみようと考えたけど全然思いつきませんでした。自分のこととなると想像力が働きません。他の人の言葉ではっと気づかされます。
 
 きーさんの歯車占い では、自分はガラスだと思いました。鉄には砕かれるけど、豆腐は逆につぶしてしまいそうです。どうしよう、どうしよう、私は知らずに誰かをつぶしていないでしょうか。
 ドラマの主題歌だった鬼束ちひろの「infection」、その頃ちょうど
「爆破して飛び散った心の破片がそこら中できらきら光っている」
という歌詞通りの心境だったので、何度も聴きました。
 
 つぶしてしまう自分を受け入れられなければ砕け散るしかないのだ、と書くとまた怒られそうです。自分から人に近づくのは怖いです。つぶしてしまいそうで。でも他の誰かが私をそんな風に思いやってくれているかも知れません。
 私宛かどうかなどわからない言葉を勝手に自分のための言葉と安易に妄想し、勇気づけられていることは、私にもよくあります。逆にもし、私が書いたことがそんな風に受け止められていたら、そういう意図でなかったとしてもやっぱりうれしいのです。
 
 
 6月10日の記事。転載戦士たちと並べていただくのは照れくさくもうれしいのです。共通の巡回先にしていただくのも。私まで戦士になれたようで。いつか彼らのようになれるでしょうか。。
 コメント削除と並行しているのでいろいろ思うところありました。福祉系の人よりも議論系の人の方が私の性質の悪さをあっさり受け入れ、上手に対話もできるのは不思議なヒントです。
 またコメント削除が続いているので、そろそろ言い訳というか見解表明しておきます。マイルールを作りすぎると私自身がそれに縛られてさらに神経質になるので、これ以上縛りを増やしたくはありません。
 
 先日のYahooブログ仕様変更でコメント欄の文字数が増えたこと は不安材料ではありましたが、昨年「逆鱗フレーズ 」を書いてからはアメブロ版でもコメント削除がほぼなくなったので楽観視もしていました。
 500字のコメント欄は、常連様と突っこんだ対話をするにも、懐かし漫画やアニメ話を延々とするにも便利ですが、婉曲表現の多用により意図が読み取りづらくなる怖れもあります。私とのやり取りに慣れていない人だと、気を使うあまりかえってそうなってしまうかも知れません。
 
 そろそろスルーに転じるという選択肢もあり、ブログ界の常識からするとそういう方向に行くべきなんですが、削除したくなるコメントのつく記事というのは印象深い記事でもあります。コメントを削除できないというプレッシャーのために、
「どうしても当たり障りのない表現を選ぶようになった」
ということにはなりたくありません。そうするくらいならコメント欄を塞ぐ、と前に荒れた時決めたのです。
 
 今回に関して言えば、トラックバックやはてブコメントのように、自分のサイトの外側の世界で言及されたのであれば気にはなりませんでした。(でもごめんなさい)
 自分のサイト内は私自身にとって気持ちのいい場所でありたいですが、他のサイトで起こることには普通程度には寛容(当社比、特別頑丈ではないが特別ナーバスでもない)です。紹介して下さってありがとう、くらいです。罵詈雑言、誹謗中傷、名誉毀損、プライバシーや著作権の侵害等に該当すれば別ですが、今のところは嫌な思いをしたことはありません。(微妙な表現ですね)
 
 はてブコメントに書かれるよりは自分のブログに書きに来て欲しいという人もいるようですが、私には、はてブコメントの方が柔らかく感じます。自分のサイトでない場所ですし、相手も特定できます。
 私が自ブログ内コメントにうるさいため他の場所でも気を使われているような気もしないではありませんが、そんなに気にしないで下さい。(誰に言っている)
 
 
 6月8日の記事。この記事に内緒罵倒コメントがついたのですが、内緒で罵倒する人というのは私がその内容やその人のハンドル、ブログをさらさないと信じてそうする訳ですね。そういう人が発達障害福祉に携わっているというのは信じがたいのですが、削除しても削除してもコメントをやめてくれず、はっきりやめてくれと言うと逆ギレするという貴重なサンプルとなりました。こう書くと私が悪者くさいのですが、私はこの人に支援を受けている訳でも何でもありません
 Yahooは特定IPのコメント拒否機能がないから字数増えると厄介です。
 ブログとSNSの閲覧方法、「携帯電話からのみ」が3割以上
というニュースを見て、携帯で閲覧できないYahooブログユーザーとしては聞き捨てならない、と釣られたのですが、よく見ると
「iモードサイト上でiモードユーザー対象に行った調査」
だそうです。それでは携帯ヘビーユーザーが多いに決まっています。私はiモードに滅多にアクセスしないので調査対象にはならないでしょう。この手の
「○○は何割」
という衝撃情報はよく見ると調査対象に偏りがあり、いちいちブログで取り上げて突っこむのもどうかと思うことばかりですが、せっかくなのでもう少し釣られてみます。
 
 調査は性別年代別で、ブログ・SNSをPCと携帯どちらで閲覧するか、自身はブログを開設しているかなどがグラフで示されていますが、話題の中心は19歳以下女子の突出ぶりです。PCのみでブログを閲覧する割合はゼロ、ブログを開設している人の割合が54%、本当ですか。
 19歳女子というと中心は女子高生です。ネットを携帯で見る世代、というのはわかりますが、それだけにあまりブログイメージがありません。わざわざブログとSNSを分けて書いているので、SNSは含んでいないでしょう。
 
 プロフとか、Twitterとかではないんですか。関係ありませんが、Twitterが流行っているというので見に行ったら、英語のサイトだったのでびびって帰ってきてしまいました。日本語版はなくて、皆さんあの英語のサイトからアカウント取ってやっていらっしゃるのですか。私にはちょっと勇気が持てません。
 
 自分が見ないから
「携帯は文字が打ちづらい」「長い文章が読みづらい」「ブログはPCでやるもの、携帯はサブ」
という意識で凝り固まっています。ここは私の石頭な常識を更新するべきなのでしょう。アメブロだって、更新も閲覧もコメントも携帯だけで済まそうとすれば済ませられる訳で。
 19歳以下女子の見ている世界は私などとは全く別物で、長い文章何のその、という進化した世界が展開しているに違いありません。
 
 
 6月7日の記事。とても携帯で長文打つ気になれません。携帯慣れしている人は逆にキーボードがストレスだったりするのでしょうか。数年後、OLとなった彼女たちのために会社のキーボードが全て携帯型になるというギャグ漫画がありましたが。
 ちょっちぷんさんに紹介してもらったアドラー心理学入門 読んでいますが、私の頭脳が明晰でないのに加え、入門というだけあって本当に入門部分だけだからか、なかなか
「こういうものでしたよ」
と紹介するのが難しいです。特に用語が。こういう時は、書いているうちにわかることもあるので書いてみます。
 
 パーソナリティの類型方法として、
「共同体感覚の高低」「活動性の高低」
というのが出てきますが、
「共同体感覚が低く、活動性が高い人」
が支配的な人なんだそうです。まさか私ですか。説教族もですけど。またかい。一緒にされるのが嫌なので、ここは共同体感覚を高くしなければなりません。
 
 共同体感覚というのが、特に難解な用語でないにも関わらず、何だかよくわかりません。所属意識や社会性とも少し違うようです。共同体感覚でググって一番上にあったサイト にも
「はっきり言って分からないのです」
と書いてあるので、私だけがわからない訳ではなさそうです。
「頭で理解するようなたぐいのものではない」
えええ、まさか身体で理解しろと。体育界系っぽくて苦手です。
「みんなが幸福になるように、みんなと協力していきたいと思う感覚」
これはあるつもりなんですけど、何か実践できていることがある訳ではありません。
 
 共同体感覚と関係が深そうなのが「人生の3つの課題」です。

1 社会との関係   2 職業   3 愛と結婚

 このうち社会との関係。
 他者と生活していて、自分の自由時間を共同体のことに割いている人と、自分のためにだけ生活している人。
 ギク、私は後者です。最小の共同体は家族ですが、私は家族と一緒に暮らすことで、自分の自由時間が制約を受けるのに我慢ならなかったのです。
 だから、小さい頃から1人暮らしに憧れ、実現しました。自分の生活のために働き、家事をし、趣味を楽しむ、快適快適。

 がーん、やっぱり共同体感覚欠けていそうです。家に帰ったら1人でいたい、というのはライフスタイルとしてアリですよね。駄目ですか。ここで引っかかるのは
「自由時間」
という表現です。つまり何らかの義務とか仕事としてであればできるんですけど、自由時間は1人でいたいということです。
 そうだ、活動性が低ければいいのです。(いいのですというのは、説教族と同類にならないという意味で)そういうことにしておきましょう。活動性というのも、どの程度活動すれば高いのやら。
 
 
 6月6日の記事。はてブの方では家に帰ると奥さんがしゃべるのが嫌だというご主人のことが話題だそうですが、そういう諸々を聞くと、家庭を持っている人は大変そうに見えて、家にいる時くらい誰にも嫌がられることなくゆっくりしたいと思います。
 今日は6月4日月曜日ですが、小学生の頃、貸本屋で借りて読んだ里中満智子の漫画の単行本のタイトルも、
6月4日月曜日
でした。雑誌掲載時であれば長めの読み切りだったであろうくらいの長さで全1巻、タイトル通り、中学1年生の女の子のある1日の朝起きてから夜寝るまでのお話です。
 
 この紹介だけだとつまらないのですが、朝、主人公の少女が白血病(今は治癒する病気ですが当時は定番でした)で余命1年と知り、その日1日いろいろあって、最後には運命を受け入れ、充実した1年を送ろう、という気になって終了、となかなか起伏に富んでいます。
 12、3歳の子が1日でこんなに悟れるものかというのはありますが、タイトルが日付というのが最初平凡そうに見えるのに、一気に残酷なカウントダウンの始まりになる構成が秀逸です。まだ小学生だった私は、宣告されたのが自分だったらどんな気持ちだろうと一生懸命考えましたが想像つきませんでした。今もですけど。
 
 先日亡くなられたZARDの坂井泉水さんは事故の可能性が高いという方向で落ち着きそうですが、自分が思ってもみなかった日にパタリと命が終わるのと、余命を宣告された上で残された日を生きていくのとどちらが幸せなのでしょう。
 漫画を読んだ後何回か、6月4日が月曜日の年を迎えました。その度に思い出して考えます。今日、どこかで誰かが命の期限を宣告されているかも知れない、もし自分なら、今この時を、悔いなく生きることができているだろうか、と。
 
 (ここで終わっておけばいいのに)しかし今計算してみると、その年には特にろくなことが起こっていないので、やはり人は余命のことなど考えずに人生設計するのが一番だという神様のお導きでしょう。(何だこのオチは)
 
 
 6月4日の記事。今日は7月5日木曜日です。この日、このネタで書いた人たくさんいました。私は単行本で読んだので、この漫画の世代ではありません。(強調)