こんな私でも男性とおつきあいしたことがないわけではありません。しかし取り留めのない会話というのですか、あれが続きませんね。仕事の話とか、あれば共通の趣味とかいつもワンパターン。
 恋人同士はどんな会話をするのか、恋愛小説やドラマで研究するのですが、現実あの通り会話していないですよね。
「君を失いたくない」
「あなたが傍にいるだけで私は落ち着くの」
なんて本当に言ったらふいちゃいそうなんですが。
 友達同士なら、他の友達が会話しているのを聞いて取り入れることができますが、恋人同士の本物の会話って聞く機会ないですもの。うちの両親の会話では参考にならないし。で、「変わっているね」と逃げられる訳ですね。

 結婚せず1人で老後を迎えるのは漠然と寂しいものがあります。しかし、日常生活で演技しまくりなのに、家に帰ってまで演技を続けるのはしんどいです。「ありのままの自分を見せられる人と出会えれば」などというきれい事では済まされません。
 アスペルガー症候群は大半が独身だそうです。男性の場合は母性的な女性に恵まれることもあるようですが、その場合も配偶者は疲れ果てている、とどこかで読みました。女性は逆に母性的な男性に恵まれることはあるのでしょうか。
 愛情薄い人に思われそうですけれど、別居婚か週末婚でもない限り、日常的に他人のいる生活というのはしんどさが先に来てしまいます。これはごく普通の30代独身長期一人暮らしの女性も感じることのようですが、「すごく好きな人ならいいのよね」と彼女達は結論づけます。好きな人にこそ、キラリ様のような思いをさせたくないのです。

 

 

 3月4日の記事。10日も更新していないとどこまで写したか忘れてしまいます。

 この記事は、ご主人がASのキラリさんのブログ(キラグル)にトラックバックした記事です。最近の記事でも結婚問題取り上げていますが、この頃はもっと絶望的に考えているようです。

 日常的に他人のいる空間はしんどい、そして相手にも辛い思いをさせます。絶対話しかけて欲しくない時や、1人で声をあげて泣きたい時も暴れたい時もあります。その姿はお見せできるものではありません。理想は今も、別居婚。

 この記事は新作です。7月23日の記事「できませんと言われるとむかつきませんか」のコメント問題について。このままではご覧になる方も困ると思うので私から言い訳を。

 最近読み始めた方やアメブロ版しか読んでいない方(いる?)はよくわからないと思いますがお許し下さい。


 JJさんは初期から読んで下さっていた数少ない1人で、私が記憶力の不自由さを語った「パズルのピース」(Yahoo版2月11日、アメブロ版7月16日)にトラックバックして下さいました。その記事や、その前後のゲストブックのコメント、その後も紹介して下さった記事を見る限り、少なくとも記憶力については

「健常者側も理解しなければならない」「困っていることは伝えて欲しい」

と考えて下さっているように思いました。だから、一連のコメントは意外に感じました。


 私は

「こういう点を協力してもらえれば」

という記事を最近何度かあげました。現象面だけでなく、「こうして欲しい」と希望を述べることは一歩進んだ理解になると考えていました。それがJJさんのお考えに反するとは、助けを求めることが

「全く努力しようという気がない」「甘えている」

と受け取られるとは全く考えませんでした。

 コメントの応酬の間も、「パズルのピース」の時のようには伝わっていないことに気づかず、いわれのない攻撃を受けているようでした。


 どうも、言語体系が違うようです。みうさんのコメントに

>私の周囲の方々は「必要な時だけ」私に手を貸してくださいます。

とありますが、私の書いていることと意味が違うんでしょうか。

???私だって「必要な時だけ」手を貸して欲しいと思っているんですが、必要でない時も手を貸してくれなんてどこかに書いたでしょうか???

 書き方を変えます。

「必要な時は助けてもらう」

「必要な時しか助けてもらわない」

これ、私にはほぼ同じ意味に見えるのですが、人によっては正反対に見えるのでしょうか。


 もしかしたら「助けて欲しい」と書いたのがいけなかったでしょうか。それって、

「怠けたい」「甘やかされたい」「努力する気がない」

に見えるのでしょうか。

 自分の認知能力に自信がありません。人から見るとそう見えるんでしょうか。そんな風に伝わっているなんて、本当に怖いです。そんなこと、書いたように見えたのですか。
「伝えてくれないとわからない」

と言われたので伝えたら

「怠け者」

と言われた、現実でもありがちなすれ違いです。


 高機能自閉症のなにわのみっちゃんのブログ記事「nhkフォーラムのシンポジウム」より http://blog.livedoor.jp/naniwamichi/archives/27124643.html  

>してほしい内容をどんどん言ってほしい。

言いたいことをうまくいえない当事者(私のような)にとってはものすごく酷なことです。言ったとしてもはねつけられるのが落ちです。もちろん本人にとって理由の認知はされてないです。
 
 やっぱりそういうことですか。もちろん的外れな希望だからだとは思いますが、そんな風に受け取られるなら怖くて希望なんか言えません。希望を言うときっと
「努力する気がない」「もっと重い障碍の人に失礼」
とはねつけられます。

 今回のことは言語体系の違いを思い知らされた強烈な体験でした。もし、更新する意欲が出たら、もう少し研究して言語体系の違いについての記事を書きたいと思っています。しかし

「もっと障碍の重い人に失礼なんだ」

と思ったら怖くて何も書けません。最重度の障碍者でないとブログを書く資格はないのでしょうか。


 あの、大変失礼なんですが、私の書いたものが不快に感じられるなら、「見ない」という選択をしてくれ、とお願いするのはいけないことでしょうか。これも「怠けたい」に変換されて見えているのでしょうか。

 私は今まで通り、「自分のために」ブログを書きたいし、楽しく会話もしたいのです。この言葉が「怠けたい」に見えるなら(もう、本当に自分の認知に自信がありません)ご覧にならない方がお互いに心が平和だと思うのですが、これもいけないことですか。甘えた失礼な言葉に見えますか。

 この記事はどんな風に見えるのでしょうか。どう受け取られているかわかりません。

「もっと障碍の重い人に失礼」「努力する気がない」「甘えるな」

声が聞こえて来そうです。怖いです。とても怖いです。

 病院へ行ってきました。カウンセラーとドクターが話をして、私の今後はドクターの方で考えていくということになったそうです。押し付けられましたねドクター。
 成人アスペルガーのトレーニングは専門家がいるわけではなく、やろうと努力している人がいるだけなんだそうです。
「今度そういう人たちに会ったら聞いておくから」
なんか歩みがのろいですね。「今度会った時」でなく電話であたったりしてくれないのでしょうか。患者に電話代要求するシステムもないようですし、ドクターにそこまで求めるのは無理か。
 精神科の医者やカウンセラーは診療時間外の活動が多くて、内科医みたいに聴診器あてて薬出して終了、直らなかったらまた来てね、とならないところが大変です。私には二次障害がなく、病気ではありませんから薬も出ません。ちゃんともうかっているんでしょうか。

 今後のことについては、要約すると、トレーニングを引き受けてくれるカウンセラーが決まるまでは身体機能に関する検査をしたり、可能なら他の自閉症の人と交流を持てる場を紹介していくということでした。
 推測ですが、私に適当なカウンセラーを紹介できなくても、自閉症という自我を持てる場を与え、同じ障害の人やこの障害を理解している健常者と交流させることで、少しでも孤独感を和らげようという意図があるようでした。
 ドクターには、私が障害のことを親にも友達にも話すつもりはないこと、自活できる仕事をしたいことは伝えてあります。だから今後も、「今まで社会で何やってきたの」「できないと思っているからできないんだ」と言われ続けることになります。そうではない、本来の自分を取り戻せる場を何とかして確保しようとして下さっていることは本当にありがたいことです。そういう場は私には一生必要になります。このブログもその場のひとつです。

 どんな活動をするかは、関係者に迷惑をかける恐れがある時はこのブログで詳細に触れられないかも知れませんが、書ける範囲でご報告していきます。
 カウンセラーを目指している方いらっしゃいましたら、大人の発達障害の専門家を志すのはいかがでしょうか。今なら売り手市場です。

 

 

 3月3日の記事。発達障害者はいわゆるメンヘル患者よりは知的障害者に近いのです。知的障害者は子供のうちに発見され、それなりの教育を受けることになりますが、成人後診断の発達障害者の行く末は、医者としても困るけど、見放す訳にもいかないし、とジレンマあるのでしょう。

 この後の身体機能検査や他の発達障害者との交流では面白いエピソードが多いのですが、私が誰か特定される恐れがあるため、なかなか書けません。成人女子ASはとても少ないのです。小出しにはしていますが、考えさせられることが多いです。

 先日ハローワークで見つけて履歴書を送った会社から面接の連絡があり、喜び勇んで出かけて行ったら早くもトラブルです。指定された2時に行ったのですが、向こうは1時と言ったと言い張ります。確かに留守電に2時と入っており、折り返し連絡して2時と確認を取ったのです。
 ここで自信が持てなくなります。私の見ている世界、聞いている世界は普通とは違うのです。彼らの1時が私の2時かも知れません。こんなコミュニケーション能力だとしたら、社会復帰などおぼつきません。

 とりあえず待合室のようなところに案内されました。もう1人待たされている人がいて、「自分も時間を間違えられた」と言っていました。自分のせいではなさそう、と少しほっとしました。
 仕事を始めた時、何かあって自分のせいになった時、うまく反論できるでしょうか。ただでさえ私の言葉は相手を怒らせてしまいます。それにどんなに自分が正しいと自信があることでも、100%は言い切れません。違う音声、違う風景を感じているかも知れません。
 面接を担当する偉い人たちが私たちの遅刻に腹を立てていて、それをコーディネートした人が説得しているところだ、と私の前に来た人は教えてくれました。「自分が伝え間違えました」と言ってくれればいいのに、あくまで私たちが聞き間違えたことにしたいようです。
 急に気持ちが沈んでいきました。こういう会社では、万一入社できても、何かあった時責任を押し付けられそうで不安です。

 散々待たされた末、私たちは、面接を受けることはできましたが、2人同時に済まされ、雰囲気も当然よくありませんでした。
「無駄足だったみたいだけど、また明日から探そう」
その人と一緒に駅まで行って別れました。2度と会わないでしょうけれど、この人がいなかったら今日のことでどんなに落ち込んだかと思うと、少しだけ温かい気持ちになりました。見ていないと思いますけど(見ていたらちょいと困りますが)、ありがとうございました。

 

 

 3月2日の記事。まだ他人とのコミュニケーションはおっかなびっくりです。自分の判断に自信がありません。今もですが、自分の目には他の人の目とは違う風に映っているかも知れない、自分の耳には違う風に聞こえているかも知れない、チラッと考えます。この会社は入社しなくてよかったですけどね。

 エーカン、履歴書に続く下手字シリーズ。アスペルガー症候群の専門書はいろいろ立ち読みしましたが(買えよ)文字が上手に書けないメカニズムについての説明はあまり見たことがありません。
 偉そうなことを書いていますが、私がアスペルガー症候群という言葉を知ってまだ1ヶ月経っていないのです。学術的なことは、アスペルガー症候群のお子様のお母様や、興味を持って調べていらっしゃる人の方がずっと詳しいはずです。
 だから、コメントから初めて疑問を持って調べ直して、自分特有ではなくアスペルガーや自閉症の特色であることに気づくことがあります。文字に関してここでは、自分がこうだ、ということを書きますが、これが自分特有のものかどうかはわかりません。何気ないコメントで結構ですのでお待ちしています。

 履歴書の話で

「文字の大きさや字間がそろわない」

と書きましたが、小さい頃から文字の大きさの調整がものすごく難しいです。学生の頃はそろえることができましたが、ノートの罫線に合わせて練習しているので、その大きさでしか書けません。「もっと大きく書いて」と言われても少しだけ大きくするということができず、文字が崩れ、たちまち大きさはそろわなくなります。パソコンやメールのある時代ですから決定的に困ることはありませんが、日本人は文字から誠実さや忍耐力、真摯な心を感じ取ります。下手字は人格まで疑われて損です。
 頭で考えているように体が動かない感じです。水泳でクロールを泳ぐ時、私の脳内では華麗に動いているのに、他の人が見るともがいているだけに見えます。自分の耳には平坦な話し方が聞こえているのに、実際には妙なアクセントが入ります。それも、頭で考えている動きと実際の動きが違うことが原因のように思えます。これは不器用全般につながります。

 私が障害を知って最初にしたことは、健常者(自閉症でない、という意味で)の見ている世界が自分の見ている世界と似ているけれど違うのだと理解する、ということでした。文字を書くことひとつ取っても私はわずかな努力もしようとしない、人のいうことを聞かない人間と取られます。できないことそのものよりも周囲の目が私たち(ここはあえて私たちと言って差し支えないと思います)の障害です。
 だからここをたまたま読んだ人が、ふーん、そんな人もいるんだ、と心に引っかけていてくれることを期待します。
「できないんです」
「こうすればいいじゃない。何でやろうとしないの」
不毛な会話が少しでも減りますように。

 もちろん私も健常者を理解しなければなりません。お互いに同じだと思っていたから、30数年平行線だったのです。このブログを読んで私をある程度理解して下さっている方のコメントはちょっとしたものでもすごく参考になります。

 

 

 3月1日の記事。少々いらだちが感じられるのは、後々の展開を知っているからでしょうか。成人してからでも随分経つので、

「努力すればできること」「どんなに努力してもできないこと」

はだいたいわかります。自分が努力すれば100メートルを10秒で走れる人間なのかどうか、普通わかりますよね。

 できないとわかっていることに時間と精神を費やすのは大変に無駄なことで、どうカバーするかを考えた方が早いと思うのですが、こういうことを書く時、「超えられない壁」を感じます。

 できないと思いこんでいるからできないのだ。努力する気がない。甘えている。この考え方は、私が想像する以上に根強いものです。

 だからといって、定型発達者が際限なく努力することを奨励している訳でもありません。東大や司法試験を目指して十浪している人には

「いい加減あきらめたら」

という気持ちを持つようです。しかし

「自分には司法試験は無理だ」

という人間には

「やってみないとわからないよ」

と言う、ような気がします。

 言語体系の違いに起因するのだろうとは推測できますが、その思考のメカニズムはどこから来ているのでしょう。他人が死に物狂いで努力して、それでも失敗し、絶望するのを見るのが大好きなのでしょうか。

 早めにあきらめるのはだめなこと。できないことにただただ時間と精神力を費やすのがよいこと。そこには絶望しかなくても。二次障碍まっしぐらでも。

 多分私の考え方の方がおかしいのですが、そのメカニズムを解明しない限り、私は努力が足りないという言葉にずっと傷ついていくことになります。