この記事は新作です。7月23日の記事「できませんと言われるとむかつきませんか」のコメント問題について。このままではご覧になる方も困ると思うので私から言い訳を。

 最近読み始めた方やアメブロ版しか読んでいない方(いる?)はよくわからないと思いますがお許し下さい。


 JJさんは初期から読んで下さっていた数少ない1人で、私が記憶力の不自由さを語った「パズルのピース」(Yahoo版2月11日、アメブロ版7月16日)にトラックバックして下さいました。その記事や、その前後のゲストブックのコメント、その後も紹介して下さった記事を見る限り、少なくとも記憶力については

「健常者側も理解しなければならない」「困っていることは伝えて欲しい」

と考えて下さっているように思いました。だから、一連のコメントは意外に感じました。


 私は

「こういう点を協力してもらえれば」

という記事を最近何度かあげました。現象面だけでなく、「こうして欲しい」と希望を述べることは一歩進んだ理解になると考えていました。それがJJさんのお考えに反するとは、助けを求めることが

「全く努力しようという気がない」「甘えている」

と受け取られるとは全く考えませんでした。

 コメントの応酬の間も、「パズルのピース」の時のようには伝わっていないことに気づかず、いわれのない攻撃を受けているようでした。


 どうも、言語体系が違うようです。みうさんのコメントに

>私の周囲の方々は「必要な時だけ」私に手を貸してくださいます。

とありますが、私の書いていることと意味が違うんでしょうか。

???私だって「必要な時だけ」手を貸して欲しいと思っているんですが、必要でない時も手を貸してくれなんてどこかに書いたでしょうか???

 書き方を変えます。

「必要な時は助けてもらう」

「必要な時しか助けてもらわない」

これ、私にはほぼ同じ意味に見えるのですが、人によっては正反対に見えるのでしょうか。


 もしかしたら「助けて欲しい」と書いたのがいけなかったでしょうか。それって、

「怠けたい」「甘やかされたい」「努力する気がない」

に見えるのでしょうか。

 自分の認知能力に自信がありません。人から見るとそう見えるんでしょうか。そんな風に伝わっているなんて、本当に怖いです。そんなこと、書いたように見えたのですか。
「伝えてくれないとわからない」

と言われたので伝えたら

「怠け者」

と言われた、現実でもありがちなすれ違いです。


 高機能自閉症のなにわのみっちゃんのブログ記事「nhkフォーラムのシンポジウム」より http://blog.livedoor.jp/naniwamichi/archives/27124643.html  

>してほしい内容をどんどん言ってほしい。

言いたいことをうまくいえない当事者(私のような)にとってはものすごく酷なことです。言ったとしてもはねつけられるのが落ちです。もちろん本人にとって理由の認知はされてないです。
 
 やっぱりそういうことですか。もちろん的外れな希望だからだとは思いますが、そんな風に受け取られるなら怖くて希望なんか言えません。希望を言うときっと
「努力する気がない」「もっと重い障碍の人に失礼」
とはねつけられます。

 今回のことは言語体系の違いを思い知らされた強烈な体験でした。もし、更新する意欲が出たら、もう少し研究して言語体系の違いについての記事を書きたいと思っています。しかし

「もっと障碍の重い人に失礼なんだ」

と思ったら怖くて何も書けません。最重度の障碍者でないとブログを書く資格はないのでしょうか。


 あの、大変失礼なんですが、私の書いたものが不快に感じられるなら、「見ない」という選択をしてくれ、とお願いするのはいけないことでしょうか。これも「怠けたい」に変換されて見えているのでしょうか。

 私は今まで通り、「自分のために」ブログを書きたいし、楽しく会話もしたいのです。この言葉が「怠けたい」に見えるなら(もう、本当に自分の認知に自信がありません)ご覧にならない方がお互いに心が平和だと思うのですが、これもいけないことですか。甘えた失礼な言葉に見えますか。

 この記事はどんな風に見えるのでしょうか。どう受け取られているかわかりません。

「もっと障碍の重い人に失礼」「努力する気がない」「甘えるな」

声が聞こえて来そうです。怖いです。とても怖いです。