Yahooがまだ重いので今日もこちらで新作記事を更新。というかタイトルに「2」とついている時点で1のあるアメブロに置かないと不自然です。

 

 大雑把な解説にも関わらず、コメントを下さった方は「善語・悪語」という私の造語を理解して下さいました。ありがとうございます。

 「言語の脳科学」(中公新書)という本を今読んでいます。その中に「普遍文法」という概念が登場します。自然言語には日本語でも英語でも全てに共通する普遍の体系があり、それを理解する能力を人間は生まれながらに持っているのだそうです。(あくまで著者の考えです)

 

>これが日本語独自のものか、どの言語にもあるのかは、努力が足りないのでわかりません。

 昨日こう書いたのは、他の言語にもこういう概念があるなら、善語・悪語は普遍文法に含まれているのではないかと仮説を立てたからです。バイリンガルな方はいらっしゃいませんか。

 今のところは普遍文法には含まれないと考えています。外国人がとまどう「本音・建前」も都合の悪いことを善語に変換して伝えるということで説明がつきます。同じ言葉を正反対に受け取る外国人と日本人、これはまさに説教する人々と私のすれ違いな会話です。

 

 ひとつの疑問は、かなりの方が私の言語を100%ではないにせよ、説教族ほど正反対に受け取らず、ほぼ理解していた点です。それは皆さんが私の文章に慣れていらっしゃるからでしょうか。説教する人の言語は私よりは定型発達者にとってわかりやすいのでしょうか、それとも私よりもわかりにくいのでしょうか。

 この記事は新作です。Yahooを更新しようとしたらあまりにも重くて更新できないので、こちらで更新。(何やっているんだ?)

 こちらのブログが荒れた時、言語体系の違いを研究したいと書きましたが、あまりにも表現やらしいためこれまで記事にはできませんでした。昨日のYahooの記事の反響がよかったのに気をよくして、思い切って研究成果の一部を公開します。怒らないで下さい。

 

 前向きワード→善
 後ろ向きワード→悪

という基本体系があります。これが日本語独自のものか、どの言語にもあるのかは、努力が足りないのでわかりません。

 

 はい、動く、がんばる、挑戦する→善
 いいえ、止まる、休む、あきらめる→悪
  
悪語を否定形にして善語にすることもできます。止まらない、休まない、あきらめない→善

 

 状況によって意味は変わりますがそれはどうでもいいのです。説教する人々は善語が大好きです。昨日の記事のような自己啓発プログラムの勧誘は、善語を用いるため、反論が悪語にならざるを得ません。そのため、悪いのはこちらではないかという意識がチラチラと出てきます。
 止まることも休むことも悪いことではありませんが、説教したがる人のかっこうの餌食になります。どうしても悪語を表現の中に入れたい時は否定形に替えるか、善語を必ず入れてバランスを取ります。

 

「必要な時は助けを求める」
「必要な時しか助けを求めない」
私にはほとんど同じに見えますが、人によっては正反対に見えるらしいこの2文、「助けを求める」は悪語です。善語は自分が動くことが基本です。下の文は否定形を用いることによって善語化を図っています。

 

 下記の表現はいかがでしょう。
1 10回挑戦して、だめならあきらめる。(善語×悪語×悪語=悪文)
2 あきらめずに10回は挑戦する。(善語×善語=善文)
私は1の方の表現を好みます。見通しがはっきりしているからです。予定が立たないというのは恐怖と不安定をもたらします。しかし一般には2の方が好まれます。2のような表現に対して
「できなかったらどうするの」
と聞くと
「できなかった時のことを最初から考えるんじゃない」
ととても怒られます。悪語は口にするのもいけないことです。

 

 ただこれには大変個人差があり、正反対に受け取るというのも極端な見方ではあります。あまり気にしない人もいます。

 まさに宇宙人の文化人類学研究のようです。今回はかなりがんばりました。私にとっては実用的な内容です。

 派遣の顔合わせの成果は1敗2分け(こちらから断わった、うやむやになった)、他に正社員ひとつ落とされています。
 これくらいでへこみませんが、そろそろ失業保険の申請を考えた方がいいかも知れません。そのためには、派遣会社に離職票を請求しなければなりません。今まで申請せずにいたのは、はっきり確認したわけではありませんが、離職票を請求するともう紹介してもらえないのではと思ったからです。

 派遣会社の手帳には「退職したら」と書いてありますが、派遣では終了後1ヶ月以内に次の仕事につけば保険関係は継続します。
 私は前の派遣先をクビになったのですが、1ヶ月前の待機中にひとつでも紹介を断わったら失業保険は自己都合扱いになります。それでやたら紹介してきたのですね。いっぱい断わったし、もう1ヶ月過ぎたし。

 しかし捨てる神あれば拾う神ありというべきか、果報は寝て待て、というべきか、次の紹介が(実現すれば)すごいです。
 大手企業の会議室の受付、基本的に1人、会議室利用の予約表作成と会議の準備、資料のコピーやお茶だしが主な仕事で後は机ふきでもしていてくれれば、という自閉にうってつけの仕事ではありませんか。仕事は楽そうだし(失礼)1人、というのが何より魅力です。すぐリストラされそうですが、当面生活を安定させてくれれば十分です。

 いやー、カード会社や生保や通信にしなくてよかったよ。もちろん顔合わせで決まるかわからないし、やってみても続かない可能性はありますけどね。たとえだめでもまたこういう仕事にあたるかも、と期待がもてます。(長期失業の予感)この紹介電話のお陰で離職票請求し損なったではありませんか。どうしよう。

 

 

 3月16日の記事。

「失業保険のことはちゃんと派遣会社に聞けばいいじゃないか」

と普通思いますよね。聞くけど答えてくれないのです。

「引き続きお仕事紹介しますので、今辞めるのはもったいないですよ」

とごまかされます。私はこういう会話に鈍いので、要するに

「失業保険を申請すると紹介はなくなるのか、それとも失業保険を申請されると派遣会社は困ると言いたいのか」

がよくわからないのです。聞いたことと別なことを言われても、普通はわかるんでしょうか。

「私はこう質問しているのだからそのことにちゃんと答えて欲しい」

と食い下がるのは相手を非常にびっくりさせることである、というのは経験から知っています。一応紹介してもらおうという身では、質問の答がまっすぐ帰って来なかったからといってそうそう食い下がれません。この辺がコミュニケーション能力がないというか、白黒はっきりつけたがる、とか言われそうなところです。

 私の小学校の同級生に心臓の悪い子がいました。体育はいつも見学で、学校も半分以上休んでいました。
 わがままで、同級生に嫌われていました。私はその子と仲がよかったのですが、いつも荷物持ちとパシリをさせられ、私が机の横を通ると足を引っかけて転ばせ(アスペルガ-はこけやすいのです)、転んだ私を指さして笑い者にしました。
 体格はその子の方がよかったので、突き飛ばされると私は見事にすっ飛びました。そういう時の私の動作はどうもギャグマンガのように滑稽だったらしいです。

 他の同級生たちには
「あんた馬鹿じゃないの、仲間外れにしてやればいいのに」
と言われましたが、自分を頼ってくれているのがわかるので、無下にもできませんでした。
 それに、心臓病という、本人に責任のない業を背負いながら明るくせいいっぱい生きる彼女を私は尊敬していました。私だったらとても背負いきれないと思ったからです。
 一定の割合で先天性心臓疾患は誕生します。彼女でなかったら私だったかも知れません。命にかかわる障碍の場合、周りがつい甘やかしてしまうのは責められないことです。その結果、健常者に傲慢な障碍者が存在する可能性は否定できません。しかし世間は障碍者に性格のよさや健気さや、努力家であることを求めます。

 少し話はそれますが、やはり小学校の頃、私をいじめていた別な女の子が、特殊学級の男子に命じて私を放課後の教室でつるし上げたことがありました。知的障害があるとはいえ、自分よりも体の大きな男子に囲まれ、飛びかかられ、なぐられ、けられ、踏まれた時は大変な恐怖でした。でもその子たちに責任のないことは知っていました。
 私のような経験を持っていて、そのために知的障害者を怖いと思う人もいるかも知れません。それは自然なことです。

 この記事を書いたのは、
「障碍者の中には親切にされて当たり前と思っている傲慢な人間がいる。そういう人間に親切にする必要はない。しかし本当に困っている人と区別がつかない」
という意見をちらほら見るからです。
 私は博愛主義者ではありません。自分に意地悪をしたり暴力をふるった人には、できたら近づきたくありません。
 性格の悪い障碍者は差別されていいのか、傲慢であるかどうかは誰が決めるのか、私自身を含め
「より多くの人間がより幸せに生きるにはどうすればいいのか」
考えるだけです。支援や理解を求める私も、見る人から見れば傲慢なのかも知れません。自分も業を背負っていると知った今、社会で普通に生きていくことを、社会に許して欲しいのです。
 

 

 3月15日の記事。これも様々な反響を呼びました。やはり、私の現在につながっている話です。この記事の内容を考えた時、私は完全に「健常者」に属していました。

 あまり日頃障碍者に接しない健常者の中には、「五体不満足的なもの」を障碍者に投影し、そうでない障碍者は切り捨ててかまわないと思っている人もいます。それが正しいのか間違っているのか私にはわかりません。自分に暴力をふるう人間にも優しさを向けることができるのか、答が見えないまま書いています。

 小学校編より続く。月日は流れ、高校時代の体育の苦い思い出。私は背が低くやせています。アスペルガ-は外国人でもこの体型が多いらしいです。成長期の高校時代は意外とこの体型少ないんです。やせている人は背が高く、背が低いとぽっちゃり系。

 体育の時間、よくおんぶ競争をさせる先生がいました。二人一組になって、体育館の端から端まで往復、行きと帰りでおんぶする方とされる方が交代で走るというものでした。私の体格に合うクラスメートがいなかったので、体格のいい友達がこっそり行きも帰りも背負ってくれました。
 先生はそれに気づいたのか、ある日身長順に組ませました。私と組んだ人は、どう少なめに見積もっても、私と20kgは差がありそうです。帰りもその子が背負おうとしてくれたのですが、先生に見つかり、交代させられました。
 一歩も動けません。抱っこなら何とかできますが、背負って立ち上がれません。背骨が折れそうです。背負わずに歩くことを先生は許しません。とっくにみんなゴールし、私達を気の毒そうに見ています。背負われる人も恥ずかしそうです。転びながら、膝をつきながら、ごまかしながら進むしかありません。先生はゴールするまでとうとう止めさせませんでした。

 アスペルガ-とは関係ありませんが、背負えるわけないと、見てわからないのでしょうか。体育の先生というのは文字通り体育会系で、気合で何でもできると思っているようです。これに懲りたのか、その後おんぶ競争はなくなりました。めでたしめでたし。

 

 

 小学生編に続き3月14日の記事。体育の先生はまさに体育会系。全て気合でどうにかなるという体育会系は社会人になってからも私たちの敵です。悪いとは言いませんが、それがよかった人もいるのでしょうが、

「やろうと思えばできる、できないのはやる気がないからだ」

という言葉にはどんどんしぼみます。だったら

「できないならやらなくていいんだよ」

と言ってもらった方が

「がんばらないと」

という気になります。またこういうことを書くとそれを逆手にとって

「できないに決まっている。と言えばがんばるのね」

と言う人がいますが、要するに追いつめないで欲しいのです。だめですか。