私の小学校の同級生に心臓の悪い子がいました。体育はいつも見学で、学校も半分以上休んでいました。
 わがままで、同級生に嫌われていました。私はその子と仲がよかったのですが、いつも荷物持ちとパシリをさせられ、私が机の横を通ると足を引っかけて転ばせ(アスペルガ-はこけやすいのです)、転んだ私を指さして笑い者にしました。
 体格はその子の方がよかったので、突き飛ばされると私は見事にすっ飛びました。そういう時の私の動作はどうもギャグマンガのように滑稽だったらしいです。

 他の同級生たちには
「あんた馬鹿じゃないの、仲間外れにしてやればいいのに」
と言われましたが、自分を頼ってくれているのがわかるので、無下にもできませんでした。
 それに、心臓病という、本人に責任のない業を背負いながら明るくせいいっぱい生きる彼女を私は尊敬していました。私だったらとても背負いきれないと思ったからです。
 一定の割合で先天性心臓疾患は誕生します。彼女でなかったら私だったかも知れません。命にかかわる障碍の場合、周りがつい甘やかしてしまうのは責められないことです。その結果、健常者に傲慢な障碍者が存在する可能性は否定できません。しかし世間は障碍者に性格のよさや健気さや、努力家であることを求めます。

 少し話はそれますが、やはり小学校の頃、私をいじめていた別な女の子が、特殊学級の男子に命じて私を放課後の教室でつるし上げたことがありました。知的障害があるとはいえ、自分よりも体の大きな男子に囲まれ、飛びかかられ、なぐられ、けられ、踏まれた時は大変な恐怖でした。でもその子たちに責任のないことは知っていました。
 私のような経験を持っていて、そのために知的障害者を怖いと思う人もいるかも知れません。それは自然なことです。

 この記事を書いたのは、
「障碍者の中には親切にされて当たり前と思っている傲慢な人間がいる。そういう人間に親切にする必要はない。しかし本当に困っている人と区別がつかない」
という意見をちらほら見るからです。
 私は博愛主義者ではありません。自分に意地悪をしたり暴力をふるった人には、できたら近づきたくありません。
 性格の悪い障碍者は差別されていいのか、傲慢であるかどうかは誰が決めるのか、私自身を含め
「より多くの人間がより幸せに生きるにはどうすればいいのか」
考えるだけです。支援や理解を求める私も、見る人から見れば傲慢なのかも知れません。自分も業を背負っていると知った今、社会で普通に生きていくことを、社会に許して欲しいのです。
 

 

 3月15日の記事。これも様々な反響を呼びました。やはり、私の現在につながっている話です。この記事の内容を考えた時、私は完全に「健常者」に属していました。

 あまり日頃障碍者に接しない健常者の中には、「五体不満足的なもの」を障碍者に投影し、そうでない障碍者は切り捨ててかまわないと思っている人もいます。それが正しいのか間違っているのか私にはわかりません。自分に暴力をふるう人間にも優しさを向けることができるのか、答が見えないまま書いています。