保健がつくだけでエロくさく感じるのも、保健の時間はみんな違うページ見てたのも、私の気のせいではないと思いますが、もちろん嫌いなのは体育の方です。

 自閉症だからといって運動能力が低いとは限りません。パラリンピックに出る人もいるくらいです。ASだけは、運動能力の低さが診断基準に数えられることもあるほどです。ASの50~90%に運動機能の障碍があるともいいます。知能と引き換えということでしょうか。

 だから、学校生活で、人間関係的なものを除けば、体育ほどいやなものはありませんでした。あんな恐ろしい教科を小学校から大学まで必修にしているなど、文科省の偉い人は何を考えているのでしょう。体育で死んじゃう子供だっているんだから。(算数で死んじゃう子供はいない、と思う)せめて親には選ばせて欲しいものです。

 小学校の時、跳び箱をどうしても跳べず、
「跳べるようになるまで帰るな」
と叱られ、何時間も1人で体育館で練習させられました。クラス全員跳べるようになったのに、自分が情けなくなります。
 暗くなって、先生は仕方なく帰してくれましたが、
「できないと思いこんでいるんだよね」
とため息をつきました。なぜみんなあんなにきれいに跳べるのでしょう。どうしていいかわかりません。どんなに
「跳べる、跳べる」
と脳内イメージしても跳べないのですから。図画工作ならどんなにメチャメチャに下手くそなものでも完成形にもっていくことはできますが、体育は完成形(1段でもいいから跳び箱を跳ぶ)に全然到達できません。
 もうひとつエピソード思いついたんですが、長くなりそうなので後ほど別にアップします。

 

 

 3月14日の記事。「入浴中の行為」に続くエロタイトル路線をねらって失敗した1作です。体育は本当にいやでした。跳び箱はなぜあんなに重視されているのでしょう。

 これは新作記事です。sh-chiaさんより「いいことバトン」バトンまわってきたの初めてです。(誰も怖くてまわせなかったであろう)こんなんでよいのでしょうか。


1 今日あったいいこと

 

 ずっと探していた九州名産「あいすまんじゅう」が手に入りました。たっぷりのつぶあんに練乳風味のバニラアイス、おいしかったです。

 

2 ここ数ヶ月であったいいこと

 

 数ヶ月単位で考えれば、ASの診断を受けたことで、いろいろと身のまわりへの対処法を知り、仕事が決まって生活が安定し、ブログを始められてそこで知り合ったお友達もできたこと。

 

3 こんなことがあったらいいなと思うこと

 

 2時間ドラマばりの妄想ネタでよければいくらでもございますが、

(そんな都合のいい世界はありませんよ)

と幻聴様に叱られるのでパス。幻聴様については7月27日の記事「言語体系の違い」のコメント欄をどうぞ。


4 次にバトンをまわす人

 

 数少ないアメブロの知り合いの方はほとんどやっている模様です。トモニオ君のお兄さん、いかが?

 こういうタイトルにすると瞬間訪問者が3倍くらい違います、あ、帰らないで下さい、嘘ではありません。

 修学旅行で何が困るといえば、お風呂をどう入るか、ということにつきます。中学生からお風呂は1人で入っていますから入り方くらいはわかりますが、自分が自然にやっていることが人から見るとおかしいということはもう知っていましたから、他の人たちとお風呂に入る時どうふるまったらよいか、すごく悩みました。
「そんなこと人は気にしないよ。みんな堂々と入っているわよ」
母は笑うのですが、女子高生の私は綿密な計画を立て、母に確認、「ああそれでいいって」と投げやりなOKをもらいました。その計画の全貌は下記の通りです。

 髪をまとめる、かけ湯をする、顔を洗う、湯船につかってしばらく談笑。内容は
「疲れたね」「明日起きられるかな」「広いね」「これ温泉かな」など。
明らかに温泉とわかる場合は間抜けになるので事前に周辺調査、調査の結果「肌にいい」などの情報が得られたら

「肌にいいって入り口のところに書いてあったね」

と何気ない話題に使う。
 湯船から出て腰掛けを確保し、シャワーの前で腰掛けに座り、髪と身体を洗う、腰掛けと洗面器はシャワーでざっと流し、腰掛けの上に洗面器を伏せる。
 もう1度湯船に入り、再び談笑。

「私風呂長いんだよね(あるいは短いんだよね。状況による)」
湯船から出て脱衣所へ。
 尚、一緒に入った友達の手順が違う場合、例えば湯船に入る前に髪を洗うなどがあれば、臨機応変に順序を変える。洗面器がなければシャワーでかけ湯をする、両方ないということはないだろうが、その場合であれば

「かけ湯どうする」

と人に聞いても不自然ではないはず。腰掛けがない場合はどんな姿勢で身体を洗うのか他の人を見る。あまり見ていると変態だと思われるので、1人に絞って1秒で判断。洗面器と腰掛けの置き場所が決まっている場合はそこに戻す。

 完璧です。これで「風呂の入り方まで変」などと誰も思うはずはありません。そして問題の修学旅行、入浴プロジェクト決行の瞬間が参りました。
 湯船での談笑プランもできており、事前準備ばっちりながらも不安な面持ちで風呂場の扉を開けた私に友人達の驚がくの視線が一斉に集まりました。
 えええ、早くも失敗か、私の完璧なレシピのどこに不備が、そういえば扉を開けるところから考えていなかった、準備が足りなかったか。しかし母の「みんな堂々と入っているわよ」という言葉を思い出し、視線に気づかぬふりをして堂々と入りました。ここでパニクると後の計画が全てだめになります。
 誰も声をかけてくれません。どこがそんなに変だったのだろう、と悩んでいたら、後から入ってくる人たちを見てわかりました。
 みんなタオルで身体を隠して恥ずかしそうに入ってきます。隠さないといけなかったんだ、堂々とではない、恥ずかしそうに入らなければならなかったんだ、そんなの教えてくれなかったではないか。

 修学旅行から帰ると、私は母にこの失敗を語り、責めました。母は涙を流して笑いました。
「そんなの常識でしょ、普通隠すでしょ」
「みんな堂々と入るって言ってたじゃない、恥ずかしがることはないって」
私は人前で裸になることはすごく恐怖だったのです。その恐怖を乗り越えるための事前準備だったのに、まるで恥知らずみたいに思われるなんて。
「そんなこと、言わないとわからないなんて、思わないよ」
母は苦しそうに笑い続けます。

 大学の合宿や社員旅行でもお風呂は恐怖アイテムでしたが、この時の苦い経験から、「普通に見えるお風呂の入り方」のポイントはマスターすることができました。うっかりリラックスすると失敗するので常にイメージトレーニングは必要です。しかし年取るとみんな本当に堂々と入りますね。
 
 

 3月13日の記事。お気に入りの一品です。予想通り新着で30人くらい来てくれました。

 いつもやっていること以外は何でもシミュレーション、メモは欠かせません。年を取ると「面白い人」では済まされなくなってきます。この数年後、大学の友達にこの話をしたら

「恥を知らないのね」

と言われてしまいました。恥を知らない訳ではなーい、恥ずかしいから恥ずかしそうにするとか、身体を隠すという発想にならないだけです。

>理解してもらう努力はされたんですよね。そう言うからには。
 「健常者」は万能ではありません。言ってくれない事を理解しろなんて無理です。

 私が理解して欲しいとブログに書くのは、もしかしたら読んで下さる方がどこかで私のような人に会った時、救いの神になってくれるのではないかと思ったからです。
 最初にコメントして下さった時お返事したように、ぴい様(ASのお嬢様のお母様)もコメントしていらっしゃるように、私達はコミュニケーションスキルが不足していて、すぐ相手を怒らせてしまいます。だから私はコミュニケーションのトレーニングを受けることを切望しています。今のところ希望者全員が受けられる状態ではないようです。

 
 さらに、これまでは障害だと知らなかったので、あまり怒られると

「本当に自分の努力が足りないのかも」

という気持になりました。逆に私達は健常者には私達ほどの努力は必要ないと知らなかったのです。で、またがんばる、できない、怒られる、さらにがんばる、できない、でへとへとになるのです。どうか、一部の怠け者のために、私や私の兄弟たちまで疑わないで下さい。

 今は障碍が原因とわかりましたが、現実には障碍だなどと言おうものならどこも雇ってはくれません。障害者枠での就職はできず、障害者年金もありません。だから、私は今後もどんなに罵倒されようと、会社を転々としようと、他人には言わないという選択をしました。
 もし、これから出会う人に説明する気がないならブログで理解を求めるな、ということならもうそうしないようにします。そんな意味でおっしゃっているのではないと、今のところ勝手に思っています。

 今回私があのような記事(二つの質問)にトラックバックしたことで、同じ自閉圏の障害の方にフラッシュバックを起こさせてしまい、申し訳ないことをしました。フラッシュバックについては何かの機会に書ければと思っています。

 

 

 3月13日の記事。当時の臨場感をそのまま再現するのは難しいですね。前の記事にいろんなトラックバックやコメントが複雑にからみ合ってこの記事が生まれました。

 当時はわかりませんでしたが、今なら少し見抜ける定型発達者の複雑な言語体系。

「言ってくれないとわからない」

と言われても本当に言ってはいけません。

「だから言ってくれ」

という意味ではないのです。

「私は悪くない」

という意味、であったと思われます。

 言葉をそのまま受け取ってしまうと本当の意味とずれてしまうけれど、無意識の心のやり取りを本当に表現してしまうととんでもない言葉になります。だから心の中で翻訳、口に出してはいけません。

 いけないとわかっていながらも、本当に当たっているのか不安です。全員がそういう意味で使っているかわかりませんから。口に出すと怒られることは承知。これは1人1人の言葉の使い方を対話から経験していくしかなさそうです。時間かかりそう。怒らないで下さい。

 このトラックバック先の人(注:この記事にはトラックバックついていません)は診断基準をよくご存知ないようですので

「そんな人はたくさんいる」

と思われるのもやむを得ないのかなと思います。「誰にも言えない」というブログのタイトルからも、こんなことは言ってはいけないとこの人も考えてはいるようです。
 ここに書かれていることが一般的な、私達を見る目だと、この現実の中で生きていかなければならないと、強く認識します。
 
>ホントは努力しだいでどうにかなることを、『病気』のせいにしていると思う。
 50メートルを5秒台で走ることができる人も世の中にはいますが、そんなことはどんなに努力しても誰にもできることではないと、多くの人は考えると思います。
 不思議なことに、10秒で走れない人間、15秒で走れない人間は怠け者と言われます。努力で超えられない壁は人それぞれ違うのに、なぜか「これくらいなら誰にでもできる」というラインが存在します。
 「足に障害があるので」と言われれば「ああそうなの」と納得しても、アスペルガーが「障害が」などと言おうものなら「障害を言い訳にすれば何でも許されると思って」となります。
 誰でも東大に入れるわけではない、暗算ができるわけではない、パソコンの苦手な人、電話の苦手な人もいる、どうしても大勢の前で話したりできない人もいる、当然のことです。
 
 何度か書いてきましたが、私達を追いつめるのはできないことそのものではなく、それに対する世間の目です。
「なぜわからないの」
「どうしてできないの」
「あなたのご両親はどんな育て方をされたのかしら」
「今まで社会で何やってきたの」
「そのうち誰にも相手にされなくなるよ」
そう叫ぶ人々の形相は鬼のようです。年齢を重ねるにつれ社会の目は厳しくなります。社会性のなさが許されるのは20代が限界です。30歳を過ぎて、急速に生きにくくなってきたのを感じます。
 
 能力差が極端で、できることは人より早く上手にあっさりできるから始末が悪いです。アスペルガー程度は障碍ではない、と考える方がいるなら、出来の悪い健常者としてで結構です。人一倍努力してもどうしてもできないラインは人によって違うのだという、世間の理解が欲しいです。もちろん、ここに来て下さっている方は定型発達者でも全員理解者と信じています。

 

 

 3月11日の記事。私はYahooの全ての過去記事を写している訳ではありません。写す価値のないもの(訪問者が1000人に達した、など)は写していません。この記事も写すべきか迷いました。この記事で新たに傷つく人がいるかも知れません。

 アスペルガー症候群はただの怠け者だ、という論調は、ネット上でたまに見かけます。そう見られているということを自分に言い聞かせるためにトラックバックしたのですが、他の人を傷つける結果になりました。今も申し訳なく思っています。だからここにはリンクを貼りません。

 ただ、私はこの時、いつも読んでくれている方は理解者であると信じていました。信頼関係があったからこそ書くことができた記事でもありました。先日、このブログが荒れた時、そうとは限らないと知りました。

「ホントは努力しだいでどうにかなることを、『病気』のせいにしている」
「障害を言い訳にすれば何でも許されると思って」

というのは、読者の世界にすら根強く存在していたことに、私は今も愕然としているのです。