新作です。今週のトラックバックステーションのお題「常識って何でしょう 」 に参加。

【常識】健全な社会人なら持っているはずの(ことが要求される)ごく普通の知識・判断力

私は健全な社会人に入るんでしょうか。

 常識と言えばわが宿敵で、上司、同僚はもちろん親にまでずっと「常識がない」と言われましたが、数年前までは自分はとても常識的な人間であるという恐るべき勘違いをしていました。私は何でも本で学ぶんですが、社会常識に関する本は随分読みましたから、根拠のない自信ではありません。


 でも常識は知識ではないのです。私の柔軟性のないガチガチのマナー、作法はかえって周囲には奇妙に映ったのです。常識とはズバリ「空気を読む能力」です。

「そんなの常識でしょう」

は会社の先輩の定番セリフ(私だけか?)ですが、どう見てもその内容はその職場でしか通用しないルール。日付の書き方から出張申請書の書き方まで、会社独自のルールがあります。初めて見た人間には微妙なところがわからないから聞くのですが、なぜか怒られてびっくりします。私の世界から見るとどう見ても怒る人が悪いように映ったのですが、多分普通なら空気読むんだろうな。


 常識なんて場面場面で変わるもの、それを読み取れることが「常識がある」ということだと私は声高に主張します。

 相変わらず時期がずれまくっているのですが、4月1日より発達障害支援法が施行されました。めでたいことですが、主たる目的は早期発見、早期療育で、すすんでいる支援政策も子供中心、法律の条文に大人は対象外とは書いていませんが、具体的なことは白紙です。

 今の子供達を(この表現ばばくさいぞ)うらやましいとする成人発達障害者の意見もあります。ええうらやましいですとも。ここには発達障害児の親御さんも見に来て下さっているので申し訳ないのですが、大人になって診断名がついた発達障害者で、幼少時の親との関係が良好だった人はまれです。私達の親世代は、
「自閉症は親のしつけの問題」
というとんでもない解釈をしていた世代に近いのです。

 時々ブログでも
「公共の場で騒ぐ子供、注意しない親、今時の親はどうなっているんだ、日本の将来が嘆かわしい」
という論調の記事を見かけてギクリとさせられます。その記事にコメントすることはためらいます。その子が発達障害児か私にはわかりません。本当にしつけが悪いのかも知れません。
 私の親もその視線に苦しんだことでしょう。障害などと想像もできない時代、虐待寸前まで努力しても思い通りにならない子を
「かわいくない」
と思っても責められません。
 診断済でも私のように親には話していない人や、話してもよくわかってもらえない人が多いようです。

 発達障害児への対策が行われることで、周囲の健常児やその親にも発達障害についての理解が深まり、将来発達障害者にとって生きやすい世の中にだんだん変わっていくことを祈ります。私はその頃には老衰で死んでいるわけですが。
 「関係者」は大人の発達障害者の証言を子供の福祉に役立てようとしているようです。日本の将来を担うかわいい子供達のために協力を惜しむものではありませんが、少しは大人にも役立てて欲しいものです。

 

 

 5月5日の記事。いかにも批判受けそうでビクビクですが、ASのお子さんのお母様に貴重なコメントをいただきました。

「子どもと行った病院の医師は『大人に成長してしまった人には、私たちは何もしてあげられない』と言っていました。子どもであればできて、大人ではできないのでしょうか?」

これは私をすっきりと元気づけてくれました。(変ですか?)素晴らしい言葉だと思いませんか。

「できないと言っているからできないんだ」

よりもずっとずっと深い思いやり、生きる希望をくれます。こういう時、定型発達者とのリアル会話だと善語でごまかされがちです。

「そんなことないから、大丈夫、がんばって」

善語嫌い。

「事実を伝えるために言葉を用いていない」

から仕方ありません。そのことに気づいたのは大きな前進ですが、事実が知りたい時はどうしているんでしょう。

 こう書くと

「確認すればいい」

と言われそうですが、確認しすぎるとしつこいと怒られるし、確認が足りないとまた微妙なことになります。どちらかというとしつこくて怒られることが多いです。怒られないまでも怖がられます。

 すみません、またコメント拒否。

 5月晴れの休日、予定のない私は自慢の遮光レンズ眼鏡で外出しました。
 眼鏡をかけると上の方が見えるようになり、それまで横長だった視界が縦長になります。写真集みたいな色彩豊かな景色に見とれていると、音が聞こえていないことに気づきます。
(耳が聞こえなくなった)
ぎょっとすると、近くを通る電車がガーッと行き過ぎます。ああよかった。集中すると見ると聞くが1度にできないのでした。

 景色の色合いも違います。例えば同じ緑でも色彩の違いで何十種類もあります。今までは3種類くらいしか区別して見ていなかったのが、10種類くらいあるように見えます。
 メガネを外すと視界は横長になり、モノトーンに近くなるかわり(色弱ではありません、念のため)、音がやたらうるさく聞こえます。視覚認知が不自由な分を音に頼っていたのでしょうか。音に敏感なのもそのせいでしょうか。
 自分自身を実験材料にした奇妙な人体実験は続きます。こうしていつか、定型発達者の見ている世界、聞こえている世界に近づくことができるのでしょうか。

 

 

 5月3日の記事。本当は人の見ている世界はひとりひとり少しずつ違うんだろうなと想像します。画家とか色彩感覚の強い人はより多くの色を持っているのでしょう。

 視覚認知や光過敏に悩んでいる人は自分も作ってみたいと考えると思いますが、私もよかったとは思いますが、眼鏡をかけるまではそれほど不自由に感じていなかったのも確かです。上の方が見えないのもまぶしいのも、ずっとそうだったから私には普通のことでした。色つき遮光レンズの眼鏡を作ってしまったばかりに、裸眼や透明な眼鏡に不自由を感じるようになってしまいました。

 本人が困っていなければ障碍ではないという考え方もありますが、私は自分の、他の多くの人と違う部分をちゃんと知りたいし、それを人生に生かしていきたいと思っています。

 発達障害者用のサングラスがあると聞いた時、思い浮かんだのはもちろん、2時間サスペンスの謎の美女。ふふっ、目立ってしまうわね(妄想中)。
 そんなかっこいいものではありません。かけてみると視覚障害者のイメージ。視覚障害者みたいなものですか。遮光性で色つきのメガネです。
 作る時は、
1 違和感のない程度の色つきレンズにする
2 サングラスタイプと透明に近いものとふたつ作る
のどちらにするか迷って1にしました。特注だから高いのです。ふたつ作るには勇気がいります。

 自閉症はいろいろなものに過敏性を持っていますが、私も光に過敏で、外でも蛍光灯の部屋でも水平より上に顔を上げるとまぶしく、いつも下を向いています。

 世の中の人はたいてい私より背が高いので、目を合わせられないことにも影響しているかも知れません。人の顔は、光が乱反射して意外にまぶしいのです。思わず目をしばたたかせてしまいます。

 
 小さい頃よく注意された、暗い所で本を読んだら目が悪くなるという話はどこへ行ったのでしょう。聞いてみたらそんなことはないそうです。(程度にもよるのでしょうが、私の目には強い光はよくないらしいので)
(きっと世界が変わる)
すごい期待(妄想)を抱きながらメガネをかけたのですが、眼鏡屋の照明が明るすぎるせいか、思ったほどの効果を感じません。レンズ選びの時に使った見本と比べて実際のレンズが薄いせいですが、もう少し色が濃い方がよかったでしょうか。しかしそれでは職場ではとてもかけられません。
 ぎりぎりまで抑えたつもりの色も、堅い職場だと微妙。中途半端になってしまったでしょうか。

 それでも、新しい眼鏡をかけて真昼の町を歩くと心躍ります。背が10センチ高くなったみたいです。すごいすごい。いつも歩いている場所なのに、上の方はこんな風になっていたとは知りませんでした。私の視界の縦幅は半分しかなかったんですね。
 混みあう道を歩いても誰にもぶつからずスイスイ進めるのは、よく見えるようになったからでしょうか。それとも道行く人は視覚障害者と間違えてよけてくれているのでしょうか。

 

 

 5月2日の記事。夏に実家に帰省した時も、「視覚障害のある人みたい」と言われました。パソコン見る時なんかこういうのがいいんだと延々と言い訳しました。実家の者はまだ何も知りません。

 会社でも注意されたので、透明なタイプを作り直す羽目になりました。最初からふたつ作っておけばもっと濃い色にできたのに、けちな私は悔しいです。透明なタイプはやっぱり上の方が見えません。

 これから書くことはあくまで幼少期の私から見た一方的な世界ですので、他の人から見た世界とは違います。また、その「他の人から見た世界」を現在大人になった私は十分想像でき、申し訳なくも思っております。

 私達は
「他の人にも自分と同じように心があることがわからない」
とよく言われます。失礼な。わかりますよ。目も鼻も口もあるように、心もあるでしょう。私と同じように。
 私は人間関係が生じる年齢になると他の子供達にいじめられ始めました。なぜいじめられるのかわかりません。なぜぶたれるのか、なぜ私の発する言葉はおうむ返しのように真似され、笑われるのか、なぜ持ち物を隠されるのか。
 同じことを私がすると、なぜか私だけがひどく叱られます。
「他の人から同じことをされたらいやでしょう。同じことよ」
???
 他の人は私がいやがることをしてもいいのに私はしてはいけないのですか。それっておかしくないですか。私には心がないと、みんな思っているんですか。

 しかしどうもそれは通らないことをだんだん悟っていきます。
「他の人は私がいやがることをしてもいいけど私はしてはいけないのだ」
強い自己卑下の感情と共に私は生き方を学びます。
 それだけでは足りません。
「私はいやではないが、他の人はいやがること」
「私はいやだが他の人はいやではないこと」
が山のようにあります。私は自分だけが理不尽な思いをしているような気がして反発しますが、世の中の重圧に負けてひとつひとつ手に取ります。これはしてはいけないこと。これはした方がいいこと。
「そういう時はこうすればいいのよ」
とものすごく気楽に言う人がいますが、それはその人がその場面限定で感想を述べただけで、どの場面でも通用することではありません。複数の人の気楽なアドバイスに振り回され混乱した時期もありました。

 体系的にまとまっているのはやはり書籍です。私は大量の書籍を読み、パターンを習熟しました。しかし書籍でもたどりつかないことはあります。それは場の雰囲気です。そこにいる人の心はパターン化できません。
 努力をやめるつもりはありませんが、「今、ここにいる」人の心にたどりつくことは一生できない気がします。どうかそれを、私の努力が足りないとはおっしゃらないで下さい。
 ブログでのやり取りで気づいたことはいくつかあります。そのひとつ、感情移入はできても相手の立場に立つ(一歩下がって見る)ことができないこと。その部分が空洞のように抜け落ちています。
「他の人にも自分と同じように心があることがわからない」
のではなく、私に心(の一部)がないから、
「他の人には自分とは違う心があることがわからない」
のではないかと想像しています。

 

 

 5月1日の記事。やっと5月に入りました。Yahooブログの5ヵ月後にアメブロを始めたのだから、多くとも5ヶ月差をキープしておかないと追いつけなくなります。8月9月はヘロヘロでどうでもいい記事が多いから、そこまで行けば追いつきやすくなりそうです。

 この5月は「かんさつ日記」のR氏登場の月。またR氏について語るのが楽しみです。R氏の頃はいなかったちょっちぷんさんにも早く戻ってきて欲しいです。