これから書くことはあくまで幼少期の私から見た一方的な世界ですので、他の人から見た世界とは違います。また、その「他の人から見た世界」を現在大人になった私は十分想像でき、申し訳なくも思っております。
私達は
「他の人にも自分と同じように心があることがわからない」
とよく言われます。失礼な。わかりますよ。目も鼻も口もあるように、心もあるでしょう。私と同じように。
私は人間関係が生じる年齢になると他の子供達にいじめられ始めました。なぜいじめられるのかわかりません。なぜぶたれるのか、なぜ私の発する言葉はおうむ返しのように真似され、笑われるのか、なぜ持ち物を隠されるのか。
同じことを私がすると、なぜか私だけがひどく叱られます。
「他の人から同じことをされたらいやでしょう。同じことよ」
???
他の人は私がいやがることをしてもいいのに私はしてはいけないのですか。それっておかしくないですか。私には心がないと、みんな思っているんですか。
しかしどうもそれは通らないことをだんだん悟っていきます。
「他の人は私がいやがることをしてもいいけど私はしてはいけないのだ」
強い自己卑下の感情と共に私は生き方を学びます。
それだけでは足りません。
「私はいやではないが、他の人はいやがること」
「私はいやだが他の人はいやではないこと」
が山のようにあります。私は自分だけが理不尽な思いをしているような気がして反発しますが、世の中の重圧に負けてひとつひとつ手に取ります。これはしてはいけないこと。これはした方がいいこと。
「そういう時はこうすればいいのよ」
とものすごく気楽に言う人がいますが、それはその人がその場面限定で感想を述べただけで、どの場面でも通用することではありません。複数の人の気楽なアドバイスに振り回され混乱した時期もありました。
体系的にまとまっているのはやはり書籍です。私は大量の書籍を読み、パターンを習熟しました。しかし書籍でもたどりつかないことはあります。それは場の雰囲気です。そこにいる人の心はパターン化できません。
努力をやめるつもりはありませんが、「今、ここにいる」人の心にたどりつくことは一生できない気がします。どうかそれを、私の努力が足りないとはおっしゃらないで下さい。
ブログでのやり取りで気づいたことはいくつかあります。そのひとつ、感情移入はできても相手の立場に立つ(一歩下がって見る)ことができないこと。その部分が空洞のように抜け落ちています。
「他の人にも自分と同じように心があることがわからない」
のではなく、私に心(の一部)がないから、
「他の人には自分とは違う心があることがわからない」
のではないかと想像しています。
5月1日の記事。やっと5月に入りました。Yahooブログの5ヵ月後にアメブロを始めたのだから、多くとも5ヶ月差をキープしておかないと追いつけなくなります。8月9月はヘロヘロでどうでもいい記事が多いから、そこまで行けば追いつきやすくなりそうです。
この5月は「かんさつ日記」のR氏登場の月。またR氏について語るのが楽しみです。R氏の頃はいなかったちょっちぷんさんにも早く戻ってきて欲しいです。