昨日の日曜日ですが、1人で映画見に行ってきました。
「社会に受け入れられるには」
と悩んでばっかりいないで人生楽しまなくてはね。誰かと一緒でなくたって楽しく過ごすことはできます。最近、無理に友達と会うこともないな、と思っています。1人で楽しく過ごせる場所を、たくさん探しましょう。

 「世界の中心で愛を叫ぶ」「いま、会いにゆきます」も1人で見に行ってボロボロ泣いたのですが、「電車男」ではいくら何でもなかないだろう、という予想を裏切ってまた泣いてしまいました。
 演出なんでしょうけれど、電車男はやたらと何かにぶつかったりこけたり、積んである物を落っことしたりします。あの鈍さとバランスの悪さはASを連想します。おたくをオーバーに演出するとASっぽくなるのですね。
 デートでの会話はあらかじめメモを用意していたり、電話の前にセリフを復唱したり、緊張すると変な発音になったりどもったり、計画と違うことが起こるとパニック起こして頭が真っ白になったり、ああ何と切ないことでしょう。

 好きな女性を喜ばそうと一生懸命なんですが、やっていることはキモいのです。あれは普通引きます。でも私もきっと、似たようなことしてきたのです。落ちこむ電車男に感情移入して涙が止まりません。
 どうしてあの流れでヒロインが電車男を好きになるのかわかりませんが、人の好みは千差万別ですね。山田孝之と中谷美紀の年齢差がありすぎという指摘もありましたが、思ったほど気になりませんでした。年下の男をかわいがりたい年上の女、実際にもいそうです。

 おとぎ話の世界にどっぷり、もたまにはよいものです。ちゃんと休日した、という気分になれました。最近、半径500mくらいでしか休日過ごしていませんでしたから。

 

 

 7月4日の記事。11月の今、この記事タイトルは違和感です。この時、これからは休日は映画を見に行ったりして休日っぽく過ごそうと思ったのですが、これ以来行っていません。どうしても爆睡に時間を費やしてしまいます。

 かんさつ日記6 では私の定説を覆す衝撃的なコメントも多く、ためになりました。
「人間のクズって切った後の髪の毛とかかしら」
という自分の発言が、
「比ゆ表現を理解できない」
特徴を如実に表しているようで、引いてしまった人もいるかも知れません。

 私だって「人間のクズ」と言われたら嫌な気持ちにはなります。でもずーっと記憶に残って何かのはずみで思い出して暴れだしたくなる、フラッシュバックワードにはなりません。
 他の方のコメントを見ながら
「言葉そのものよりもその背後にある悪意に傷つくのではないか」
と考えたりしました。
 例えば「○ァックユー」だったらどうでしょうか。アメリカ人の怒る言葉のようですが、日本人でもその背後にある悪意を感じて腹を立てたり傷ついたりするのでしょうか。

 私は気持ちではなく言葉に反応するから、違う受け取り方になるのでしょうか。善意の言葉に傷ついたり、悪意の言葉に救われたり。自分が言われてうれしかったことを人に言って傷つけてしまったり。
 彼らの領域にいつか近づけるのでしょうか。3年後、5年後、10年後。旅はまだ始まったばかりです。



 7月3日の記事。順序を入れ替えたので離れてしまいましたが、「かんさつ日記6」の翌日の記事です。もっと時間がかかると思いましたが、自己PR語の発見で一気に近づいた気がします。まだまだでしょうか。ところで、どなたか「○ァックユー」と言われたらどんな感じか解説していただけませんか。

 ASのお嬢様を持つアキさんのブログ
「ASの親は子供に永遠の片思い、ママ大好きなんて言わない、親を便利な人みたいに思っている」
という記事がちょっと前にありました。トラックバックしようとしたのですが、記事がどこへ行ったかわからなくなったので、トップページへのリンクのみ。ごめんなさい、ずぼらで。

 いえね、そんな風に思っている訳ではないのですよ。女性雑誌の子供を産みましょう的記事に
「子供はいつも自分を好きでいてくれる世界一の味方」
とか書いてありましたが、親を好き嫌いの対象にするなんてやっぱり変な感じです。
 親は子供を好きで子供にした訳ではないし、子供だって好きでその親の子供になった訳ではない、全てこの世でのご縁ですよね。好きか嫌いかって選択の余地がありますよね。親子には選択の余地がないから、好き嫌いの概念の外にあるような気がします。あれ? 変?

 見方を変えてみます。親を好きか嫌いか、というのは、自分の顔を好きか嫌いか、と聞かれているようなものです。
 できればもっと美人に生まれたかったけれど、自分の顔だからそれなりに愛着もあって、みんなこの顔で私を認識しているから、整形する気もないし、でももっと美人ならよかったなとは思います。

 わかりにくいですか。さらに見方を変えます。親を好きか嫌いか、というのは、自分の歯を好きか嫌いかと聞かれているようなものです。
 自分の歯だから愛着もあるし、人のと取り替えたいとは思わない、大事にしようとしているし、抜けたら困る、でも好きかどうかと聞かれると、そんなの考えたこともありません。

 変かな。今まで全然変だと思いませんでしたが、そう言われると変な気がします。ブログは本当にためになりますね。私はブログ好きです。来て下さる方も好きです。

 

 

 6月30日の記事。6月最後の記事でもあります。あとは7月。アメブロを開設した月まで来てしまいました。もう少しで「あれ」とまた向き合うんだ、うがー。

 この記事は結構反響呼んだ気がします。お子さんのある人、ない人、それぞれの親子観がありそうです。この記事でちょっちぷんさんが初登場。

「なんか、親の一人としてめちゃくちゃ動揺しました。自分の常識がすべてとは思わないように気をつけていますが、考えたこともありませんでした。全文を読むと、大事であることに変わりはないけど、という感じでしょうか。」

意外に普通のコメントでした。ごめんなさい、今とイメージ違うんだもん。トラックバック もして下さいました。戦う主婦のイメージ(どんなイメージだ)と違い哲学的な文章が、いろいろ考えさせてくれます。あの事件が起こったのが、この日から1ヶ月も経っていなかったとは。

 同じ質問を何回もしてはいけない、というのはあちこちで聞きます。しかし仕事というのは、同じシチュエーションだからといって同じ処理をしていいとは限りません。
「勝手に判断するな」
と怒られます。いちいち聞くと、
「同じことを何回聞いたら覚えるんだ」
とやはり怒られます。新卒1年目の頃、それで朝から晩まで怒られる私に同僚が
「質問するから覚えていないように思われるのよ。確認すればいいのよ」
ととてもすごい情報のように教えてくれました。そんな微妙なこと言われても、同じにしか聞こえません。
「確認ですが、と必ず前につけるようにしたら」
それであれだけ怒っている人が怒らなくなるんですか。本当でしょうか。

 半信半疑で、緊張しながら上司に話しかけます。
「カ、カ、カ、カクニンですが」
自分でも意味わかっていない、使い慣れない言葉を使おうとして声がうわずり、発音は普段にも増して変です。親でもいやがるわざとらしい引きつった笑顔が張りつき、挙動不審全開、そのせいかやはり怒られてしまいました。

 何となく会社でのコミュニケーションがうまくいかない私に、
「質問でなく確認をする」
「命令でなくお願いしてみるといい」
「怒っているのではなく、叱っている」
などのアドバイスをしてくれる方がたくさんいたのですが、心地よい言葉に言い換えているだけで何の解決にもなりません。全然違わないではありませんか。
 セクハラおやじが
「セクハラではない、スキンシップだ」
と言っているみたいです。
 そういう微妙な違いが他の人には区別がついているのでしょう。私には同じに見えても。
「これは確認です、確認です、断じて質問ではありません」
という非言語のメッセージがどこかから発信されているのです。

 怒らない人はちょっとフレーズが違ったくらいで怒ったりしませんが、怒る人はどんなに表現や話し方を工夫しても怒ります。
 だからもう「ああしたら」「こうしたら」で解決することはできないのです。会社で不幸にして怒る人に当たってしまったら、近寄らないことや配置換えがかなわなければ辞めるしかないのでしょう。マニュアル化を試みましたがこればかりはどうしようもない気がします。

 なお、申し訳ございませんが、
「こういう風に区別すればいい」
というコメントは避けて下さい。
「両手を上げれば質問で右手を上げれば確認」
という全国的な統一ルールがあって私が知らないだけ、というなら別ですが、恐らく説明していただいても私には区別がつかないものです。過去散々言われ続け、工夫もしてきました。
 辞書的な意味ならわかりますが、その場の雰囲気や心はわからないのです。質問と確認、命令とお願いの違いは人によっても微妙でお手上げです。

 

 

 6月29日の記事。後々アメブロ版が荒れた時問題になった49コメントがついています。久しぶりに読み直して、とても生き生きした楽しいやり取りであったと思いました。しつこくはありましたが、私の言葉をわからない人のコメントは、

「ああ、こういう部分がわからないのだな」

と新たな記事のヒントになりました。アメブロ版を開設したことを後悔はしませんが、開設しなければあんなお別れにはならなかったでしょう。

 Yahooブログのコメント欄は制限字数250字なのですが、ブラウザがNetscape7.1だと無制限に書けると最近知りました。例の人はNetscapeを使っていらっしゃると以前おっしゃっていたので、1人コメントが長文。ただアメブロと違って改行、空白が使えないので見づらいです。

 質問と確認の違いは「ですか?」と「ですよね?」だと解説して下さっていましたが、そんな細かい語尾の違いで烈火のごとく怒り出す人ような人が、「ですよね?」では絶対怒らないと言い切れるでしょうか。

 地域にもよるでしょうが、「ですよね?」が目上の人に使う言葉とはとても思えません。かなり親しい先輩ならいいかも知れませんが、カジュアルで押しつけがましい印象です。(参考:新潮文庫「そんな言い方ないだろう」)

 私は敬語などの言葉づかいは、こう見えても(見えない)丁寧です。それが形式的な印象を与えるかも知れませんが、フレーズに気を配っても配らなくてもダメなら、どうしたらいいんだという感じです。何でもそこそこにできなくて、両極端に行きすぎなんですが。

 理科学少女だった私は本を読んで実験するのが大好きでした。小学生の頃、逆立ちして牛乳を飲んでも逆流せず食道から胃に流れる、という話を読んで早速実験。弟達に手伝わせ、逆立ちして牛乳を飲んだところ、ほとんど胃に行かず鼻から出て来ました。
 今思うと本に「牛乳」と書いてあるからと言って牛乳を使うことはなかったのですが、融通がききません。

 そんな間抜けをやりながらも自由研究で校外の大会に出たり、実験大好きだったのに、高1であっさり文転しました。
 大好きだった化学の高校最初の授業が元素記号の暗記だったからです。すいへーりーべぼくのふね、なまがりしっぷすくらーくか、でしたっけ。意味わからなすぎ。後で思えばあの並び、意味があったはずですが、それを全く教えないで丸暗記から入った化学に、私は教科書も開きたくない嫌悪感にとらわれました。化学ができないのは理系としては致命的です。
 高2で文系クラスに進んだのですが、数学は学年トップを取ったこともあり、物理や生物はできたので、周囲はもったいないと言いました。
 当時の私は、自分はそんなに得意なことはないけれど、何でもそこそこできる人だと勘違い(すごい勘違い)していました。判断力かなり鈍いです。というより全然自分をわかっていません。この頃受けた職業適性検査では、適職は薬剤師でした。

 キラグル のゲストブックで、
「科学の発達に貢献している人にはASが多いと思います」
というコメントを見て、そんなことを思い出しました。化学の元素記号表でつまずいているようではどっちにしろだめだったでしょうけれど。

 

 

 6月27日の記事。かなわなかったからこそ思い出は美しいのです。でももし、あの段階で診断名を知っていたら、もっと理系に固執したでしょう。