ブログ文化論争 が説教族問題に飛び火しそうで、とても楽しみです。関係諸氏へのプレッシャーを兼ねて自分の考えを書いてみます。
 関係ブログをまわると
「他者を未熟と批判することで自分の優位性を保とうとしている」
というコメントまであります。これはまさに説教族ではありませんか。比べるのは申し訳ないことですが、その文化から説教族が派生している可能性はあります。

 説教族は
「立派で正しくて成熟した私が未熟で間違っていて劣っているあなたを指導してあげる」
というスタンスで現われます。私はいろいろあって、彼らとは共存できないと考えています。
 私は自分の考えと違う異文化のブログを読むのはむしろ好きです。先方もそう思っていてくれる限りは異文化と共存するのは可能と考えます。説教族は説教以外の共通点を感じないので、あれは文化ではないのでしょう。

 ところで、今回の話で私としてはとても気になっているというか、また私が例によって言葉の意味を勘違いしていそうなことがあります。
「ルールを知らない人間は愚かだ」
「マニュアルに頼る人間は愚かだ」
これ矛盾していませんか。ルールとマニュアルは同じとは申しませんが、似たようなものではありませんか。すると
「マニュアルに頼らず、ルールを知っている人間が賢い」
ということでしょうか。それは、勉強しなくても100点を取れる子供が、100点を取ろうと一生懸命勉強している子供を笑っているようなものでしょうか。そのくせ努力が足りないとはどういうことでしょう。全部同じ人が言っている訳ではありませんが、同じ人が言いそうな言葉です。

 

 

 12月19日の記事。はてなダイアリーの「公開雑記」様からトラックバック がつきました。わたりとりさんの記事がはてなブックマークに登録されるなど、注目を浴びていたからその流れと思われます。Yahoo界きっての秀才として内外で知られるわたりとりさんのお陰です。約束通り記事でほめたよーん。

 ブログを始めて早10ヶ月、行きつけのブログもたくさんできると、なかなかYahooブログトップページから新着狩りにうかがえません。
 初期は、よく新着を見ていたのですが、ブログ自体の数が増えてくると、面白いブログに出会う確率がどんどん低くなります。1行記事とか、URLが貼ってあるだけだとがっくりです。
 ランダムは、画像がかかりやすいから文章で読ませるタイプのブログになかなか当たらないという先入観と、自分が1度もランダムに選んでもらったことがないという偏見があります。

 新しいブログを読みたい時は、カテゴリ別や検索、よく行くブログのお気に入りを利用するのが安心で外れが少ないです。
 それも楽しいのですが、それだと予測がつくというか、自分の知っている分野に限定されがちになります。新着には奇跡的な出会いがあります。思ってもみなかった、違う世界の人とめぐり会う感動がまだあるかも知れません。

 なぜこんなことを書くかというと、ただ今ブログ論で盛り上がっておりますわたりとりさんの
イヤな奴とはこんな奴
の大元になったYahooブログ(直接リンクはありません)にたどりついたら、
「ここ来たことある」
とデジャブを感じたからです。
 ブログを始めたばかりの2月に、新着で入った時自分が残したコメントを発見しました。その後全く交流はありませんが、コメントを残したということは、その記事を興味深く読んだ、面白かったということです。

 閉鎖する人、更新なく放置する人、新しく始める人、日々入れ替わっていくYahooブロガーの中で、その人もずっと続けていたんだなと思ったらうれしくなりました。
 Yahooブログはアクティブユーザーだけで10万を越えるのですから、そのほとんどを私は多分1回も訪れていません。その中での予期せぬ出会いと予期せぬ再会、世界は繋がっています。新着は奇跡の出会いの場です。

 

 

 12月18日の記事。もしこの記事に新着で入ってきた方がいたらごめんなさい、これはYahooブログに書いた記事です。アメブロにも新着あるんですが、

「新着から来ました」

というコメントをいただいたことがありません。新着あまり利用されていないのでしょうか。それともそういうコメントをする文化がないのでしょうか。

 Yahooのアクティブユーザー10万以上というのは1ヶ月に1度以上更新した人ということで、毎日のように更新する人は結構少ない気がします。

 時々カッコ付きで登場するツッコミキャラ、幻聴様。元ネタは、アメブロ版に入った荒らしコメント(あえてこう呼ぶ)で、私が一時記事を書けなくなった直接の原因です。これがなかったら、私は記事を書けなくなるには至りませんでした。
 この言葉は一生私の脳内に、フラッシュバックワードとして格納されるでしょうから、ギャグにでもしないとやっていられません。そういう訳で、しつこいとお思いの方もおいでかも知れませんが、今後も幻聴様をかわいがってあげて下さいませ。

 下記の4つが幻聴様の基本ツッコミワードです。

希望、願望に対して→そんな都合のいい世界はありませんよ。

理由に対して→都合のいい時だけ○○というのはひきょうですよ。

行動(悪語)に対して→○○という気概が欲しいということです。

行動(善語)に対して→○○な人に失礼ですよ。

 ○○の部分を適当に入れ替えればどんなブログを攻撃するのにも使え、非常に応用範囲の広いマジックワードであることがうかがえます。特に、
「都合のいい時だけ○○というのはひきょうですよ」
は○○の部分にランダムにどんな単語を入れても意味が通りそうです。
「都合のいい時だけ妄想というのはひきょうですよ」
「都合のいい時だけ電車に乗るというのはひきょうですよ」
「都合のいい時だけトイレというのはひきょうですよ」
トイレくらい都合のいい時に行きたいものです。

 これはもしや、説教界に伝わる荒らし用マジックワードなのでしょうか。ググってみました。
「そんな都合のいい世界はありませんよ」なし
「都合のいい時だけ ひきょうですよ」なし
「気概が欲しいということです」なし
さすがに「失礼ですよ」はかなりヒットしました。カジュアルな口語体であるせいか、掲示板やブログが多いです。この言葉の性質上、前後にトラブルが散見します。堂々と自分に対して
「失礼ですよ」
というのは、かなり偉そうに見えるせいか返信も過激です。多くの人は第3者を引き合いに出して
「誰々に対して失礼ですよ」
という使い方をします。本当は自分に対して失礼だと言いたいと考えられます。
 
 昨日の記事「文化に優劣はあるのか 」より。
「ヤマトでも、あの状況でデスラーと愛し合うのは無理だと思いますが、愛し合おうという気概が欲しいということです」
無理、できないという言葉をリアルでも見聞きすると必ずこの言葉が脳内格納庫から出撃しますが、気概が欲しいと書くだけで、まるでそれが実現したかのような雰囲気をかもし出すのにはびっくりです。
 実現するには様々な壁、検討課題、時間などが必要で、本当は実現するかどうかさえ未知数なのに、気概の一言で一発解決です。(文章上では、です)これが善語の正体でしょうか。とりあえず言葉の上ではめでたしめでたしとしてしまうことが。
 
 定型発達者の言語は事実を伝える目的で使われていないということは理屈ではわかっても(理屈でわかろうとするのがそもそも問題なのですが)、やっぱりとてもとても不思議ちゃんワールドです。いつか、全文善語の記事を書いてみたいです。(善語)

 

 

 12月17日の記事。説教族には当初穏便にお引取りいただこうと

「不快なら見ないという選択をしていただけないものでしょうか」

などとお願いしたのですが、下手に出るとつけ上がってますます攻撃してくるので、こちらも超攻撃的布陣で対抗します。

 ヤマトをリアルで見ていた時も

「われわれがすべきことは戦うことではなく愛し合うことだった」

はかなり不思議に感じました。全話隈なく見た訳ではありませんから、私の知らないところで愛し合うチャンスがあったのかも知れませんが、そんな雰囲気ではありませんでした。

 これはかなり難易度の高い言葉です。つまり、時間軸を前に戻して愛し合いたかったと言っているのではなく、

「戦いとはむなしいものだ」

みたいな、キャッチフレーズ的な意味で言っていたと思われます。

「戦いは避けられなかったもののやっぱり平和がいい」

とか。人気アニメでメッセージ性の高い作品だったので、PTA対策もあったのかも知れません。

 ブログ論を読むのは好きです。人によっていろいろな考えがありますが、どれを読んでもなるほどと思うし、自分の考えと違っていても面白いです。
「ネットに公開する以上、批判を受ける覚悟はするべきである」
というのは、私には
「外を歩く以上、通り魔に刺されることを覚悟するべきである」
に等しく見えるのですが、前者の主張が間違っているとは思わないし、参考になって、楽しいです。
 こういう記事を書くブロガーはとても頭のいい人たちで、だからこそ記事は面白いのですが、
「自分の考え方は立派で正しくて成熟しており、そうでない考え方は劣っていて無知で未熟である」
という意識がチラチラ出てくると、ひっかかります。

 批判受け入れ問題については、このブログは批判禁止です。理由は、怖くて記事が書けなくなるからです。批判OKのブロガーでも、批判の度合いが一定を超えると、閉鎖したりコメント拒否にしたりします。
 ということは、誰でも程度の差こそあれ批判はいやなのではないでしょうか。(例外的な趣味の人もいると思いますが)
「ここまでなら耐えられるライン」
は人によって違う(私はとっても低い)ので、批判OKブロガーでも身体が受けつけないレベルの批判になると、
「こういう批判はいいが、こういう批判はルール違反だ」
と新たなブログマナー(複雑怪奇、人によって違う)構築に走り、収拾がつかなくなりそうです。
 私にとっても有効な批判というか、異論はあり、それをシャットアウトするのは惜しかったのですが、ルールが複雑怪奇になると混乱するので、一律批判禁止です。自分の考えが必ず正しいと思っている訳ではありません。念のため。

 未熟とされる文化の方が、実は進化しているのかも知れません。ある仮説を検証するうちに、紆余曲折の結果、元の仮説に戻ることもあります。批判肯定派は批判嫌悪派を未熟と考えるようですが、もしかしたら、
「戦うことではない、愛し合うことだったんだ」(by宇宙戦艦ヤマト)
と先に気づいた人たちかも知れません。ヤマトも、あの状況でデスラーと愛し合うのは無理だったと思いますが、愛し合おうという気概が欲しいということです。(by幻聴様)

「刺されるのが嫌ならネットに参加するな」
から
「誰もが気軽にネットライフを楽しめる」
に進化するかも知れません。逆かも知れません。どう転んだとしても、文化の違いはただ違いであって、優劣はありません。

 

 

 12月16日の記事。わたりとりさんの「イヤな奴とはこんな奴 」にトラックバックしました。ブログ文化論大ブームのきっかけは、Yahooで起こったちょっとした事件でした。

 コメントマナー、トラックバックマナーなど、所属のブログサービス会社によっても個人の考え方によっても異なります。マナーを振りかざして異文化のブログに

「あなたの考えは間違っています。ネット上における○○は」

と乗りこむ人々。他社のブログに自社のローカル・ルールを持ちこみ、

「これが正しい。おまえは未熟だ」

と押しつけるブロガー。

 間違っている訳ではありません。間違っている訳ではないけど、自分が正しいからと言って意見の違う人は間違っているとは限りません。強要したら、それは「説教族」です。

 まだネット上のルールは確立されていません。ブログというツールを得て一気に大衆化したネット界はどこへ向かうのでしょう。

 なお、この記事の一番の売りは、気概が欲しいと書くだけで、古代進とデスラーに何かあったように見えることです。

 22歳女子大生そらさんに早くも見合い話 があるようですが、私も20代前半の頃はたまーにそんな話が実家に寄せられることもありました。
 田舎なので、見合い市場に出回る若い男性はだいたい長男です。田舎の長男の結婚難は大変なものです。長男となれば、例え別居でも姑の影がちらつきます。

 私の両親は見合いの話があっても
「お前の性格と家事能力ではどんなに相手の人とお姑さんに呆れられるかと思うと恥ずかしくて見合いなどさせられない」
とせき止めます。あらかじめ
「変わっている。家事はできない」
と紹介したところで謙譲の美徳化され
「今時のお嬢さん」
くらいの意味にしか受け取らないでしょう。だいたい
「家事ができない」
というのは
「パソコンは触ったことがあるくらい」
と同じくらい、人によって範囲が違います。
「卵もゆでられないと言っておけば」
卵くらいゆでられますが、それくらい家事ができないという謙譲の美徳語です。そう言っておいて、実はゆでられるとわかったら感心されるではありませんか。
「卵もゆでられないなんてみっともなくて言えない」
だめですか。
「お前は恋愛結婚にしなさい。恋愛だと相手の男がだまされたのが悪いけど、見合いだと親の責任になる」
そんな無茶な。結婚は見合いが一番とか言っていなかったっけ。家事も苦手だけど、男をだます方が難しそうです。(男のだまし方を言っているのではありませんよ。男をだまそうという気概が欲しいということです。by幻聴様)

 しかし見合い話で、すごく会ってみたいと思えた男はいませんでした。そう思えるだけでも希少価値があります。私は男をだますこともできずに今日に至りました。

 

 

 12月14日の記事。この記事と関係ありませんが、Yahooは昨夜またメンテして、今度こそ軽くなるかと期待しましたが、また「サーバーが見つかりません」を連発しております。Yahooの方は今日1周年記念日です。