郵便物を送るため、封筒に数種類の用紙を折って封入する時、あいさつ状、一番最初に見て欲しいものはどちら側に入れますか。
 私は封をしてある側(裏側、宛名が書いてある方の反対側)に入れていました。そうすれば封をはがして中身を出した時あいさつ状がすぐ見えるからです。長く勤めていた会社ではそうしていたし、他の人もそうしていた、ような気がしていました。

 前に派遣された会社で私がそのように封筒づめしようとしたら社員に
「ちょっとあなた、その入れ方変じゃない」
と言われました。
「すみません、逆にします」
「すみませんじゃなくて変だと思わないの」
思うと言ったらなぜ変だと思ってそんなことするんだということになるし、思わないと言ったら逆らっているみたいです。こういう時は質問に答えてはいけないのです。
「封筒の表側にあいさつ状がくるように入れるんですよね。そのようにします」
「そうじゃなくて、常識だと思わないのかってこと。そんな入れ方したらおかしいでしょ」
まあ私が日頃からあまりにも常識がないのでピリピリしていたのですが、ここまで食い下がられたらちゃんと答えた方がよさそうです。
「以前の勤務先ではそうしていたので変だと思いませんでした」
「それ、誰にも注意されなかったの」
「他の人もそうしていたみたいです」
「嘘でしょう」
私のあまりの常識のなさに呆れて物も言えない風情でした。

 そんなにおかしいことだったのでしょうか。今も会社や自宅にダイレクトメールが来ると気をつけて見ますが、両方のパターンがあります。「あいさつ状が表」の方が普通なのかも知れませんが、私の封入方法がべらぼうに非常識とも思えませんでした。何か流派でもあるのでしょうか。

 

 

 1月16日の記事。和書は表側、洋書(カード)は裏側というマナーがあるのだそうです。裏側の方が封入はしやすいです。自分だけ常識がないのかと思っていたら、皆さん迷うところのようです。

 かなり古い話なんですが、昨年、嫌いな給食を無理やり食べさせられてPTSDを発症した広汎性発達障碍の子の、損害賠償請求が認められました。
 昔、そばアレルギーのある子に無理やり給食のそばを食べさせて死なせてしまった事件があるのに、この類の話も全然廃れません。
 この話には説教族問題、言葉が通じない問題など興味深いテーマが含まれていますが、今回は偏食問題に絞って書いてみます。
 
 子供の頃は
「好き嫌いなく何でも食べる」
ことがしつけの最重要課題として重視されています。
 私には食べられないほどの偏食はありませんでしたが、それでも親戚のおばさんに出されたものに手をつけなくて
「食べなさい」
とどなられた時はものすごい恐怖でした。それ以来長く
「人に勧められたものは食べなければならない」
と思いこみ、
「ずうずうしい」「遠慮がない」「恥ずかしい」
と言われる羽目になりました。世間の、子供は何でも食べなければならないという観念には凄まじい執念を感じました。
 
 偏食を矯正する目的は主として
1 成長に必要な栄養素を万遍なく摂取すること
2 教養の一環として、様々な種類の食物が存在することとその味を知ること
の2つが考えられます。
 
 子供の頃読んだ本によると、例えば
「にんじんは嫌いだがほうれん草はOK」
「肉は食べられないが魚や乳製品は大丈夫」
のような好き嫌いであれば、栄養学的にはさほど問題がないそうです。
 野菜が全く食べられないというのは問題ありそうですが、イチローの野菜嫌いが広まってからは、それも緩和されたようです。私は背を伸ばしたくて中学時代牛乳を1日1リットル飲みましたが全く伸びませんでした。
 現代はサプリメントもありますし、重症の食物アレルギーを抱えるお子さん用の代替食品がありますから、偏食により成長が阻害される要因は少ない気がします。(代替方法があるかどうかを考えただけで、偏食を矯正すべきでないと言っている訳ではありません)
 
 大人になると他人と食事をする場で食べ物の名称を知らずに恥をかいたり、どんな料理かわからず注文できないということがありますので、教養としては大いに重要です。作る立場になれば、献立の範囲も広がります。
 これが決定的な要因かというと若干弱い気がします。子供の頃はおいしくなくても、大人になったら好きになった食べ物はたくさんあります。無理やり食べさせられて好きになったものなんてありません。先ほどの、おばさんにどなられた時の食べ物を見るとフラッシュバックして怖くなります。
 
 そう考えると、偏食矯正の最大の目的は
3 わがままを抑える能力、人生は思いとおりにならないという経験、忍耐力を身につけること
ではないかと推測します。(偏見です)
 それは悪いことではなく、必要なことだと思います。冒頭の子の場合、幼稚園の頃同じようなことがあって、教師も認識していたようです。しかし3の目的の方が勝ってしまったのでしょう。
「ここできちんとしつけないとこの子はだめになってしまう」
といういかにも説教族的正義感が充満しています。今日は説教族ネタのつもりではありませんでしたがどうしても説教族で終わります。

 

 

 1月15日の記事。1月15日というとまだ反射的に成人の日か、深いな、などと考えてしまいます。

 私は牛乳を1日1リットル飲んでも背が伸びなかったことを恨んでいるのですが、コメント欄によると、身長は食事より睡眠に関係があるのだそうです。私は寝ない子供だったから伸びなかったのです。がーん。

 それが正しいとすると、スポーツをすると背が伸びるという説は多少根拠がありそうです。スポーツをして疲れれば夜眠れる可能性が高いからです。

 初めて会う人との間に共通の知り合いがいる場合、
「変な人だって伝えておいて」
と頼んでいました。
 私と知り合ったばかりの人は、多少なりともびっくりするからです。すぐ慣れてくれますが、学校とか会社とか習い事とか共通のくくりがないと、慣れる前に逃げられてしまいます。だんだん新しい友達ができにくくなります。
 
 変な人だと伝え聞いたその人は、本物の私に会ってあいさつの後一言。
「全然変じゃないじゃない、普通よ」
いくら私でも一目見ていきなり変ではありません。私をよく知っている人は一目見ていきなり変だと言いますが、それは中身を知っているからで、容姿は普通です。多分。
 私にしてみればあいさつしただけでいきなり嘘つきと言われた気分でしたが、まだ
「相手の言葉を否定し合う会話ルール」
を知らないので
「この人の範ちゅうでは私は普通なのかな」
と思いこみます。
 
 2時間ほど話し、
「楽しかったわ。またお会いしましょう」
と別れたのに、後日共通の知り合いから
「本当に変わった人だとびっくりしていた」
と聞かされます。途中で最初と感想が変わったならそう言ってくれればいいのに。せめて最初だけでも嘘つき呼ばわりしないでくれれば。最初のあれは何だったんだ? よく考えたらろくに会話も交わしていないのに、反応早すぎです。
 
仮説1 私はおおらかで心の広い人である、という自己PR語だった。
仮説2 「変な人」を謙譲の美徳語と受け取り、否定しなければならないと考えた。
仮説3 「変な人」を自慢話と受け取り、あんたなんて大したことないとけなした。

 仮説3だと初対面でいきなりけなすなんてあんまりだと思うのですが、自称変人は多いので私もそうだと思われたかも知れません。確かに自称変人を本当に変わった人だなと思ったことはありません。
 中学生くらいの子の家庭教師をする時、生徒の心をつかむテクニックはその子の個性的な部分を見つけて
「変わっているね」
と驚いてあげることだそうです。普通にほめるより効くそうです。変人はほめ言葉か? 自己PR語だと思われたのでしょうか。自己PR語は否定していいんでしたっけ。露骨な自慢は自己PR語とは違いますから
「私って美人だから」
「ハア? 何いってんの」
な感じだったのでしょうか。言葉は複雑です。

 

 

 1月13日の金曜日の記事。

仮説4 変な人、と変わった人、の違いがある人だった。

というのもあるそうです。変な人は変質者っぽいというか悪語で、変わった人というのはほめ言葉になりうる善語。やっぱり善語と悪語で分けた方が私にはわかりやすいです。

 このブログを長く読んで下さっている忍耐強い方はタイトルでピンと来ると思いますが、私は
「やればできる」
という言葉が嫌いです。どんな場面でも嫌いです。
 
 こちらの記事 では、小学生対象の
「親に言われてうれしい言葉・いやな言葉」
のアンケートで、
「やればできる」
が両方に出てきたことを紹介しています。
 やり遂げた時の
「やればできる」
はうれしいけれど、できないことを責める時の
「やればできる」
は嫌なのだそうです。
 後者は文句なしに嫌ですが、私は前者も嫌です。何かやり遂げた時、
「やればできるじゃない」
と言われたらがっくりです。まるでその前はやっていなかったみたいではありませんか。
 
 説教族が説教した後、それとは無関係に私が自分のために努力したことでも、さも自分のお陰であるかのように
「やればできるじゃない」「言ってもらわないとわからなかったと思うよ」
と現われて自分の手柄にしようとする場面を妄想します。
 子供の頃だと説教族に手柄を横取りされるのが嫌で、言われたことは意地でもやるもんかと思ったものです。大人になるとそこまで意地になりませんが、説教族による手柄横取りには常に警戒、というか妄想を欠かしません。
 説教族はうまく行ったら自分のお陰、行かなかったら相手が怠け者だからという自分に都合のいい論理で動いています。
 
 あと、
「やればできる」
というのは怠け者の言い訳にも聞こえませんか。
「自分はやればできる、やらないだけ」
と言って、一生懸命やって結果を出した人間よりも優秀であるかのように自己PRする子を、先生や親も
「この子はやればできるのに」
と期待します。子供の頃はもちろん、大人になってからもそういう場面で何度も悔しい思いをしてきました。
 そういう訳で、仮定法過去としての
「やればできる」
はさらに嫌いです。
「気概が欲しい」
と同じく、何ひとつ実現していないのにさもメデタシメデタシで解決したかのような嘘臭さを感じます。善語なんでしょうけれど。

 

 

 1月10日の記事。「やればできる」が言われてうれしい言葉に入っていたことにびっくりです。

 大河ドラマの記事 の続きですが、その放送中、思わず声を出して
「気持ち悪ーい」
と叫んでしまったのが、子役が母親と別れる時
「母様と一緒でなければ行かない」
と泣き叫ぶシーンでした。おいおい、だから敵兵に見つかるんだよ。
 
 子供というのは実際こういう場面になると泣き叫ぶのかも知れませんが、私はいかにも
「母親と別れる時子供はいやがって泣かなければならない」
と押しつけられた気分になります。私の気分の問題なので、そういう演出をしてはいけないと言いたい訳ではありません。
 母親が娘を逃がすために死ぬシーンなんて、演出さえよければ感動的ないい場面のはずなので、個人的には泣き叫ばずに静かにやって欲しかったです。あの子役何歳の設定だったのでしょう。その後の行動を見る限り、そんなに幼少ではないようです。(史実では3歳くらい)
 
 ドラマや漫画で見る親子情愛シーンはある定型に基づいていて、背筋が寒くなるような気持ち悪さがあります。何なんでしょう。
 親子関係ひとつとっても、小説には様々な描き方が登場し、むしろ定型的な表現は駄作なのに、テレビだから制約があるんでしょうか。
 友人や夫婦や恋人は色々なあり方が許されるのに、親子はひとつのあり方しか許されないような「定型」を見る時、私はある種の気持ち悪さを感じます。
 
 例えば、臓器移植が必要な子供に自分の臓器を提供する親は絶賛されるけど、それができない親は極悪人と非難されそうです。特に母親は。
 昔読んだ小説に、子供に自分の臓器を移植できるか検査を受けてだめだったことを知って内心ほっとする父親が出て来ました。善語では決して表現できない心の闇、エゴ、罪の意識、抱えて行く重み、決して偽物ではない愛情、自分自身の闇に向き合いながら、様々なことを考えました。
 善語だけで書いた小説は表面的でつまらなそうです。説教族のクレームを防ぐにはよさそうですが。

 

 

 1月12日の記事。ドラマはちょっと型から外れた方がリアル。