このブログを長く読んで下さっている忍耐強い方はタイトルでピンと来ると思いますが、私は
「やればできる」
という言葉が嫌いです。どんな場面でも嫌いです。
こちらの記事
では、小学生対象の
「親に言われてうれしい言葉・いやな言葉」
のアンケートで、
「やればできる」
が両方に出てきたことを紹介しています。
やり遂げた時の
「やればできる」
はうれしいけれど、できないことを責める時の
「やればできる」
は嫌なのだそうです。
後者は文句なしに嫌ですが、私は前者も嫌です。何かやり遂げた時、
「やればできるじゃない」
と言われたらがっくりです。まるでその前はやっていなかったみたいではありませんか。
説教族が説教した後、それとは無関係に私が自分のために努力したことでも、さも自分のお陰であるかのように
「やればできるじゃない」「言ってもらわないとわからなかったと思うよ」
と現われて自分の手柄にしようとする場面を妄想します。
子供の頃だと説教族に手柄を横取りされるのが嫌で、言われたことは意地でもやるもんかと思ったものです。大人になるとそこまで意地になりませんが、説教族による手柄横取りには常に警戒、というか妄想を欠かしません。
説教族はうまく行ったら自分のお陰、行かなかったら相手が怠け者だからという自分に都合のいい論理で動いています。
あと、
「やればできる」
というのは怠け者の言い訳にも聞こえませんか。
「自分はやればできる、やらないだけ」
と言って、一生懸命やって結果を出した人間よりも優秀であるかのように自己PRする子を、先生や親も
「この子はやればできるのに」
と期待します。子供の頃はもちろん、大人になってからもそういう場面で何度も悔しい思いをしてきました。
そういう訳で、仮定法過去としての
「やればできる」
はさらに嫌いです。
「気概が欲しい」
と同じく、何ひとつ実現していないのにさもメデタシメデタシで解決したかのような嘘臭さを感じます。善語なんでしょうけれど。
1月10日の記事。「やればできる」が言われてうれしい言葉に入っていたことにびっくりです。