血液型は人間関係を促進するか阻害するか という話題がわたりとりさん宅で盛り上がっていますが、おおむね阻害方向のようです。
 このブログで、血液型占いが好きだ という話を前に書きましたが、人間には様々な側面があり、誰にでもA型っぽいところ、B型っぽいところ、O型っぽいところなどがあります。血液型占いは浸透しているため、A型の人はA型っぽく、B型の人はB型らしく振舞う傾向もあり、一種の共通言語となっています。
 
 私はコミュニケーション能力に障害があり、場面によって微妙に異なる空気や方向性を加味した対処法を瞬時に選択することができず、困ることがあります。そして、相手が自分の予想と違う反応をするとパニクります。(説教族が襲撃した時もパニクりました)パニクった時は何でそうなったのかの理由を無理にでもつけて脳内を治めます。
 血液型は有効な理由付けの手段です。
 
A型が怒った時→A型だから細かいところが気になるのね。
B型が怒った時→B型だから怒りっぽいのね。
O型が怒った時→O型だから感情の裏表なく出してしまうのね。
 
 AB型はサンプル少なくてわかりづらいのですが、A型の面が出たとかB型の面が出たという考え方で処理できます。
 
 怒られた時くらいならいいのですが、もし説教族が全員B型だったとしたら、B型の人を見る度に説教される、と怯えることでしょう。これを偏見といいます。海風さんの記事 にもありましたが、
「○○だから△△」
と名付けをして決めつけるのは、第1段階破壊による混乱、不安を治める有効な手段です。同時に、そのカテゴリーに含まれる他の人々まで踏みつけにしてしまう差別です。
 
 いまだに説教族の影に怯える私は
「あいつらは◇◇ だから」
と名付けをして葬ってしまいたい願望にもかられるのです。
 
 
 12月23日の記事。異文化交流議論の参加者はそれぞれのテーマを持っていますが、「名付け」は私の大きなテーマです。何でも分類し、名前をつけることでどうにか保ってきたその整理箱を取り上げられ、散らかされた感じです。血液型は人間関係を促進するかの論では、促進派は私だけでした。名付けはやはり阻害の材料か。うーん。
 わたりとりさんのコメントを引用。
名付けの怖さ、は私も感じます。悪とまでは言わないが。名付けてもいいのだけれど、どこかで検証しなければならないのだろうな、と。焦らなくてもいいけれど・・・しかし、ひとりでやるには苦しい作業だと思います。できることなら気心知れた友人と「そんな時期もあったね~はっはっは」と笑いながらやりたいものです。・・・私でよければ、いつでも参加します。
 またどこかで話題になったら、検証しましょう。名付けが、私の魚のアタマかも知れません。
 ようやく最終回でしたが、やはり詰めこみ過ぎな印象でした。最終回はグループホームへ行く、と決まっているならもっと伏線あってもよかったし、せめて主人公がグループホームを見学するシーンくらいないと唐突過ぎます。
 といっても、グループホームシーンの撮影が難しそうな気はします。他にも自閉症を演じる俳優を複数そろえないといけないし、ちょっとした暮らしぶりでそれを視聴者にわからせるというのはなかなか大変です。
 
 トビが自分で羽ばたかずに上昇気流に乗って飛び立つのを、自立の難しい主人公が周囲の支えを受けながら自立していく姿の例えに使ったのはいいのですが、これも伏線がないと上手に感動できないではありませんか。最終回だから感動しようとハンカチ用意して待っていましたのに。それとも私が伏線に気づいていないだけとか。
 
 連続ドラマを1日も欠かさず見るのはエネルギーが要りましたが、見てよかったです。主人公が短期間に成長しすぎという話もありますが、あれだけ恵まれた環境ならそれなりに成長するでしょう。自閉症は分野による知能の格差が大きいので、知的障害を伴っていても分野によっては健常者並もしくはそれ以上の能力を発揮することがあります。説教族が
「厳しくするのが本当の優しさだ」
と訳わかんないこと言いながら登場してメチャメチャにしないところが幸いしました。
 
 さすがに、自転車レース中の主要メンバーの回想シーンは泣かせる演出でした。
「知的障害者は周りの人に優しさを与えるために生まれてくる」
という話のようです。同じ時期のドラマ「14才の母」のサブタイトルか何かに
「愛するために生まれてきた」
というのがあったような記憶があります。
「~のために生まれてきた」
という言葉は好きです。私の一番好きなラストシーンはめぞん一刻という漫画のラスト近くの結婚式で、ヒロインが前のご主人のお父さんに
「あんたはこの日のために生まれてきたんだよ」
と言われるシーンです。
 
 僕の歩く道というドラマに私がサブタイトルをつけるとしたら、
「人は人に優しくするために生まれてきた」
というところでしょうか。「厳しくするのが本当の優しさだ」という話は除きます。
 
 
 12月21日の記事。説教するために生まれてきたとしたら人生は空しいです。異文化交流議論でも、優しさは大テーマです。
 異文化理解というと、寛容、平和、受容、思いやり、みんな違ってみんないい、みたいな穏やかな言葉が浮かびますが、異文化コミュニケーション論の記事群 に登場するキーワードの激しいこと。
 破壊、脅威、恐怖、戦い・・・穏やかなワードなど見当たりません。そこが、異質のものとの出会いにおける本質であると突きつけられます。
 
 私が自分の経験を書いているだけなのに、否定したり改めさせようとする人が次々現れるのは奇妙でしたが、先方にしてみれば私が記事を書くだけでも十分破壊的行為だったのでしょう。
 異質のものと出会う時、人は本能的に恐怖を感じるけれど、そこには震えるような感動もあります。破壊の向こうにある広い世界を1度経験すると、恐怖に立ち向かう勇気が生まれます。
 一連の記事の中にもありましたが、経験、知識を身につけていくことで、異質に対する柔軟性も生まれます。(柔軟性と上手に対応できるかどうかとはまた違います)
 
 同化するにしても異質を維持するにしても、交流を望むなら基本的には肯定的に接する、それがどうしてもできないなら近寄らないのがよいようです。
 何でも肯定していては成長がないという意見は依然あると思いますが、それは相手の人格形成や人生設計にどれだけ関わることになるかにかかっています。親子兄弟や配偶者、10年来の大親友ならいざ知らず、これから交流を始めようというレベルでそこまで踏みこむのはただの同化圧力だと私は考えます。(上下関係がある場合は別)
 否定し合わなくても、私は友人たちから多くのことを学びました。
 
 肯定的に接する、あるいは近寄らない、というのは対立を避けようとする場合であってあえて対立の道を選ぶという選択肢を否定はしません。
 ひとつの基準は法律になります。誰もが最低基準としては納得すると思います。ただ、法律を破っている人に、警察や弁護士でもない素人が1人で立ち向かうのは、ショッカーと1人で戦おうとした本郷猛のように無茶なので、私の能力ではちょっと手に負えませんが。
 
 もうひとつは、先方から執拗な攻撃を繰り返し受けた時、自分は法律違反もしていないし非はないとしたら、正当防衛として戦わなければなりません。こちらが戦いたくないと一方的に思っていても、攻撃する人はするのだということを、私は説教族襲撃事件で学びました。
 これはネット上のことを念頭において考えましたが、現実でもあります。そして、現実にこういうことがあると、私などは戦う手段もなく逃げ出すか服従するしかありませんでした。私なんかでも応援してくれる人がいて、戦う勇気をくれたこの世界は、現実の私にも力を与えてくれるのです。
 
 
 12月18日の記事。敵にも同等の権利を与えなければ、と考えるとグルグルモードです。フラットでありたいと願っても、ギリギリのところで、自己を破壊するか他者を破壊するかの選択を迫られます。
 海風さんの図A を眺めて自分と他の人の関係を考えてみます。感情軸で共感であれ、反感であれ、理論軸で相手を尊重するかせめてニュートラルであることが、争いを避けたり人間関係におけるストレスを軽減させるのだということがわかります。
 感情軸が軽蔑(この言葉私が出したのですが、もっと適当な言葉はあればなおよし)に向かうと、こう、駄目ですね。
 
 さらに、この図を引用したわたりとりさんの記事 を見ます。交流のスタート地点は交流者の個性で決まるとのこと。
 このブログで私と交流している人たち(ROM専や1、2回コメントしたというのでなく)の多くは図Aでいうと「親交」から入ってくれたのではないかと記憶します。
 しかしいきなり同化圧力から入る人もいます。同化圧力といえば説教族です。同化圧力が共感と軽蔑の交わる領域にあるのは意外な感じがしますが、いろいろ考えると自分の嫌な部分に向き合います。
 
 私は今も説教族を恐れていますが、いわゆる襲撃事件の時のような、わかりやすい悪意をむき出しにした人ならこちらも応戦できます(嫌だけど)。もっと対応に困るのは、今もたまに現れる、悪気のないアドバイスをする人です。その人たちに説教族に対する時のような対応をするのはためらいます。
 
 同化圧力と呼ぶにはあまりにも優しい人たち。もし、図Aにおける時計回り説が正しければ、彼らは親交、共感に回ってはくれません。攻撃、対立に向かわざるを得なくなります。あるいは、師弟関係の形を取り、きーさんの図 における第2段階同化肯定に自分を位置づけてしまうかです。そうなったとしても、その人との間に信頼関係が築けなければ同じことです。
 思い返すと、アドバイスする人というのは何度やめて欲しいとお願いしても、その時はわかったと言ってくれても、またやってしまうのです。それで私の方から交流をお断りした人が実は何人かいます。たまたま攻撃に進んだ人もいた、というだけで。
 
 よく知らない人にアドバイスしたがる人というのは他の人にとっても多少うっとうしい気がするのですが、多くの人は適度にお礼を言いながら脳内では「無視」に位置づけて振り払っているのでしょう。私のように言葉がずっとずっと残ってしまわずに。
 同化圧力は、丁寧にお引取りいただき儀礼的無関心に進むか、無視に位置づけ、軽蔑に降りてしまわないことだ、と図Aは教えてくれます。結構実用的ですね、この議論。これまでの経過はこちら
 
 
 12月17日の記事。可視化されるとわかりやすいです。わかりやすいけど、最近会社以外で新しく知り合いができる機会がないので、どうしてもネット上に投影します。
 来週最終回だそうです。予告編ではいきなり自転車レースに出場していましたが、展開が急です。連続ドラマというのは全話分書いてから撮影に入る訳ではないでしょうから、最後駆け足になってしまったのでしょう。
 優勝して感動の嵐。まさかね。タッチの最終回じゃあるまいし簡単すぎ。最下位だが完走して感動の嵐、がせいぜいでしょう。
 あれだけ引っ張った、謎めいた妹の伏線がお母さんを心配させたかっただけ、というのも(もうどんでん返しがなければ)簡単すぎです。てっきり○○とか△△△と◇◇◇◇だと妄想しておりましたのに。構想あったものの使えなかったのかも知れません。
 
 自転車レースに出る出ないのくだりで、
「競争の意味がわかっていない」
という言葉が出てきた時、小学校低学年の自分を思い出しました。運動会では1位になるつもりでがんばれと言われましたが、
「お友達と仲良くしましょう」
「自分がして欲しいことをしてあげましょう」
「して欲しくないことはしないようにしましょう」
と矛盾します。小学校の勉強では順位がつくのは体育くらいでした。運動会はいいんだという説明で一応は納得しました。ビリには違いありませんが。
 
 小学生くらいだと人に親切にするというのがどういうことかわからなくて、私は学校でぶたれたり物を隠されたりするのが嫌だから人にはしないようにしようと思いました。しかし私がぶたなくても友達にはぶたれるし
「殴られたら殴り返せ」
と怒られたりして訳わかりません。親切にするというのは嫌なことをしないという意味ではなく、相手が喜びそうなことを先回りして推測してやってあげることだと知ったのはかなり先のことです。だから、いじめるけど親切な人というのもいます。
 
 ドラマの主人公は寝ている幼馴染に上着をかけてあげるという自閉症らしからぬ行動をとっていましたが、伏線として自分が寝ている時に上着をかけてもらったシーンがあります。それでうれしかったという感情がわかなかったとしても、誰かが寝ている時には上着をかけてあげるのだなと知覚することはできます。
「自分がしてもらったらうれしいと思うことを人にもしてあげましょう」
だと、上着をかけてもらった時にうれしいと感じなければ他人にそれをするということができません。
 
 小学生の頃、こうされて嫌だったということはたくさんありましたが、こうされてうれしかったという記憶がほとんどありません。他の人が自分を思ってくれる気持ちに鈍感なせいか、うれしいという感情がまだ育っていなかったかせいか、まあ両方でしょう。テストで100点取ったりおいしいお菓子が食べられればうれしかったけど、
「人にしてあげましょう」
というのとは違う気がしました。
 
 自閉症は他人を思いやれない障害と言われますが、ドラマのように優しい人だけに囲まれて、その人たちのやるようにやっていればちゃんと優しくできるのだなと思わせてくれます。そんな環境は現実ではあり得ないことも。説教族が1人でもいて、
「先に優しくしてもらわないと優しくできないなんて甘えだ、優しくして欲しいなら自分から優しくしないと駄目、周りが甘やかしすぎ、厳しいことも言わないと本当のことはわからないんだ」
とわめき散らすと終了です。(本当にこいつら滅びてくれんか)
 
 
 12月16日の記事。このドラマ見ていたの随分前みたいです。自分がされてうれしいこととか嫌なこととか、判断求めるのやめて欲しいです。こういう時はこうしろでいいのに。そういうサンプルをたくさん積み重ねれば判断も利くようになります。私がこうして欲しいというとわがままとかゴチャゴチャ言われますが。