異文化理解というと、寛容、平和、受容、思いやり、みんな違ってみんないい、みたいな穏やかな言葉が浮かびますが、異文化コミュニケーション論の記事群
に登場するキーワードの激しいこと。
破壊、脅威、恐怖、戦い・・・穏やかなワードなど見当たりません。そこが、異質のものとの出会いにおける本質であると突きつけられます。
破壊、脅威、恐怖、戦い・・・穏やかなワードなど見当たりません。そこが、異質のものとの出会いにおける本質であると突きつけられます。
私が自分の経験を書いているだけなのに、否定したり改めさせようとする人が次々現れるのは奇妙でしたが、先方にしてみれば私が記事を書くだけでも十分破壊的行為だったのでしょう。
異質のものと出会う時、人は本能的に恐怖を感じるけれど、そこには震えるような感動もあります。破壊の向こうにある広い世界を1度経験すると、恐怖に立ち向かう勇気が生まれます。
一連の記事の中にもありましたが、経験、知識を身につけていくことで、異質に対する柔軟性も生まれます。(柔軟性と上手に対応できるかどうかとはまた違います)
異質のものと出会う時、人は本能的に恐怖を感じるけれど、そこには震えるような感動もあります。破壊の向こうにある広い世界を1度経験すると、恐怖に立ち向かう勇気が生まれます。
一連の記事の中にもありましたが、経験、知識を身につけていくことで、異質に対する柔軟性も生まれます。(柔軟性と上手に対応できるかどうかとはまた違います)
同化するにしても異質を維持するにしても、交流を望むなら基本的には肯定的に接する、それがどうしてもできないなら近寄らないのがよいようです。
何でも肯定していては成長がないという意見は依然あると思いますが、それは相手の人格形成や人生設計にどれだけ関わることになるかにかかっています。親子兄弟や配偶者、10年来の大親友ならいざ知らず、これから交流を始めようというレベルでそこまで踏みこむのはただの同化圧力だと私は考えます。(上下関係がある場合は別)
否定し合わなくても、私は友人たちから多くのことを学びました。
何でも肯定していては成長がないという意見は依然あると思いますが、それは相手の人格形成や人生設計にどれだけ関わることになるかにかかっています。親子兄弟や配偶者、10年来の大親友ならいざ知らず、これから交流を始めようというレベルでそこまで踏みこむのはただの同化圧力だと私は考えます。(上下関係がある場合は別)
否定し合わなくても、私は友人たちから多くのことを学びました。
肯定的に接する、あるいは近寄らない、というのは対立を避けようとする場合であってあえて対立の道を選ぶという選択肢を否定はしません。
ひとつの基準は法律になります。誰もが最低基準としては納得すると思います。ただ、法律を破っている人に、警察や弁護士でもない素人が1人で立ち向かうのは、ショッカーと1人で戦おうとした本郷猛のように無茶なので、私の能力ではちょっと手に負えませんが。
ひとつの基準は法律になります。誰もが最低基準としては納得すると思います。ただ、法律を破っている人に、警察や弁護士でもない素人が1人で立ち向かうのは、ショッカーと1人で戦おうとした本郷猛のように無茶なので、私の能力ではちょっと手に負えませんが。
もうひとつは、先方から執拗な攻撃を繰り返し受けた時、自分は法律違反もしていないし非はないとしたら、正当防衛として戦わなければなりません。こちらが戦いたくないと一方的に思っていても、攻撃する人はするのだということを、私は説教族襲撃事件で学びました。
これはネット上のことを念頭において考えましたが、現実でもあります。そして、現実にこういうことがあると、私などは戦う手段もなく逃げ出すか服従するしかありませんでした。私なんかでも応援してくれる人がいて、戦う勇気をくれたこの世界は、現実の私にも力を与えてくれるのです。
これはネット上のことを念頭において考えましたが、現実でもあります。そして、現実にこういうことがあると、私などは戦う手段もなく逃げ出すか服従するしかありませんでした。私なんかでも応援してくれる人がいて、戦う勇気をくれたこの世界は、現実の私にも力を与えてくれるのです。
12月18日の記事。敵にも同等の権利を与えなければ、と考えるとグルグルモードです。フラットでありたいと願っても、ギリギリのところで、自己を破壊するか他者を破壊するかの選択を迫られます。