2006/12/1 セカンドインパクト   chargeup 
     <memo> 異文化との3つの関わり方、異文化接触の3段階
     <key word> 無視、交流、敵対、無関心、調和、戦い
 
2006/12/2 異文化接触のn段階   海風さん
     <memo> 異文化接触の第4段階を想定した考察、コミュニケーションモデル作成へ
     <key word> 知識、経験、不安、原因、名付け、予想
 
2006/12/5 5つのアクションを、50%メソッドで書いてみた。   わたりとりさん
     <memo> 相互理解を助けるであろうアクション(第2段階)
     <key word> 共感、魅惑、再構築、理由付け、相対化
 
        メモ。   海風さん
     <memo> 自己を破壊するか、他者を破壊するか(第1段階)、コメントなどのメモ
     <key word> 脅威、ループ、複素関数
 
2006/12/7 メモ2   海風さん
     <memo> 原子核を文化、電子を人としたモデルの仮説
     <key word> 原子核、電子、時間軸
 
2006/12/8 他者とのコミュニティ(自己視点による他者の位置付け)   きーさん
     <memo> 自己から見た他者を、6つの側面からポイント制で評価する
     <key word> 外見、言葉、外交、内政、治安、絶対原点(自己の潜在意識)
 
        ゼロ地点   chargeup
     <memo> 異文化接触の3段階修正、第2~3段階は往復する
     <key word> 破壊、無知、静寂
 
        関係   みつくるさん
     <memo> 異文化接触の4段階補足
     <key word> 感情、理性、忘却
 
2006/12/9 言う資格論、共通目標、チーム   海風さん
     <memo> ブレインストーミングのルール
     <key word> アイデア、整理、抽出
 
2006/12/10 他者との4つの位置関係   chargeup
     <memo> 他者の位置付けによる各段階への作用
     <key word> 上上、中中、上下、下下
 
2006/12/11 メモ・・・メモ・・・まだまだ考察が必要   きーさん
     <memo> 異文化接触4段階における自己概念モデルから、心の変遷をつづる
     <key word> 知性、肯定、否定、相違、近似、存在価値
 
2006/12/12 異文化コミュニケーション論 -コミュニケーションの駆動力-   海風さん
     <memo> 理論軸と感情軸による心理状態から行動を予見
     <key word> 共存、同化圧力、対立、儀礼的無関心、時計回り
 
2006/12/14 異文化まとめ図入り   みつくるさん
     <memo> 感情軸と理性軸による意思疎通の予見、理解度と関係性による揺れ動き
     <key word> 相性、知りすぎ線、sin関数
 
 
  これまでの議論の経過を、フィードバックレポート 風に整理しました。パート2 、及びパート3 に続きます。
 
 
 12月12日の記事。便宜上、私の記事のリンクもYahoo版のままにしてあります。私としては、ここで当初の目的(コミュニケーションの流れ図を作る)は終わったのですが、多くの内省を引き起こし、テーマはコミュニケーションの核心へと広がっていきます。広がるほど書くのは難しくなっていきます。

 異文化接触の3段階をさらに修正。


  第1段階 : 驚き、感動、恐怖、怒り・・・ (感情、生理的作用)
          ↓    ↓    ↓
  第2段階 : 無視 ⇔ 交流 ⇔ 敵対 ⇔ 無視 (理性が感情に作用)
          ↓↑   ↓↑    ↓↑
  第3段階 : 無関心、調和、戦い      (融合、共存、排除、変化なしへ向かう)


※↓↑=知識・経験の量  ⇔不安  ( )内はみつくるさんの記事 による。

 
 

 3段階の動きとは別に、自己から見た他者の位置づけを、きーさんの記事 からキーワードを拝借して作成。

 

自己から見た他者の位置づけ
 1 尊敬関係(上上) → 交流へ
 2 対等関係(中中) → 交流へ
 3 師弟関係(上下) → 交流、敵対へ
 4 軽蔑関係(下下) → 無視、敵対へ

 

 軽蔑関係という言葉がきつすぎますが、他と重ならない適当なワードが思いつかないので取り合えずこれで。師弟関係は上司と部下、教師と生徒のように立場がはっきりした位置づけなら問題ない(お互いに齟齬がないという意味で)ですが、説教族の時のように一方が師弟関係を持ちこもうとしてももう一方がそうでない場合は敵対につながります。

 

 好悪の感情と置き換えてもいいのですが、私の趣味で「尊敬」を使います。尊敬は、異文化理解のキーワードと考えるからです。
 第1段階で驚き、感動、恐怖、怒り・・・を覚えた時、感情的に
「おー、すげー」
と尊敬(好意)の方向に向かうか、
「何だこいつ、わかってないんじゃないの」
と軽蔑(嫌悪)の方向に向かうか、
「自分にもそういうところある」
と共通点を見つける(対等)の方向に向かうかで、最初の立ち位置が決まるでしょう。第2段階で、理性の助力を得ながら変化していきます。

 

 コミュニケーションの王道は
「似たところを見つける」「似た人と近づくようにする」
なんですが、尊敬するのは自分とは違う部分になります。
 健常者と障害者が接する時、健常者側が多少上から目線になるのは仕方ないのですが、ドラマ「僕の歩く道」では、主人公の異質に対して周囲が尊敬の念も寄せていて、それがよい関係につながっていく様子が描かれています。
 尊敬する人との交流は、自分を成長させてくれる刺激的な間柄でもあります。今、この議論に参加している4人の友人たちのように。そして他の多くの、個性的な友人たちも。
 
 
 12月10日の記事。よく見たら更新5日ぶりでした。特別忙しかった訳ではありませんが、この系統の記事を書くのは時間かかります。他の参加者も更新ゆっくりめになってしまいました。その間に他の企画も始めてしまったのでネット界的には多忙。
 異文化コミュニケーション論が盛り上がっておりますが、このシリーズもここまで来たのでできれば最終回までやりたいものです。
 主人公が動物園に就職して1年経ちました。私は今の職場で1年9ヶ月になります。1年経つとその職場で起こりうるたいていのことを経験して、言われる前にちゃんと気も回るようになり、先々の予想も経つようになります。ドラマでもそういう演出が見られました。
 ちなみに私は新卒で就職して以来、ひとつの部署に1年4ヶ月以上とどまったのは2度目です。気が回るようになる前に
「こりゃ駄目だ」
と見切りをつけられるパターン? 1度目は長かったんですけど。
 
 今回の見所は、同僚の自閉症の息子の登場でした。このシーンはいろいろな解釈ができて面白かったです。ああいう映像に撮ろうとしたのかたまたまかわかりませんが、息子の方が主人公よりも重篤に見えました。年齢や社会経験による差という解釈もできたし、周りの接し方によって(この表現怒られそう)成長もするということかも知れません。
 お父さんは、同僚である主人公のように、息子とおしゃべりができると期待していたのではないかとか、見捨てたことへのじんわりとした後悔とか、会えた喜びなんかもにじみ出てよいシーンでした。
 
 本当にあと2回で終われるのでしょうか。伏線や予告の雰囲気だと
「人に助けてもらわないと生きられない人間に、人生を楽しむ権利があるのか」
という重いテーマでしょうか。これにノーという人はまずいないでしょうが、実際には説教族がうるさそう(この人たちは自分はいいけど人は駄目と言う)だし、助ける側にも人生を楽しむ権利があります。それを犠牲にしてまで、とは誰にも言えないことです。
 私はフルタイムで働き自分の収入で1人暮らしの生計を立てているにも関わらず、説教族に怠け者だの努力が足りないとののしられました。まして1人で生きられない人間の楽しみなど、彼らは認めないに違いありません。
 
 ドラマだからあらゆる意味でユートピアなんですが、実はユートピアはすぐそこにあるのではないか、とも思わせてくれます。異なる存在を知覚して、受容して、共存していくことができるなら、多くの人は分かり合えて生きていける、その可能性は十分あるのだ、と。(説教族がいなければ)
 
 
 12月9日の記事。今思うと、説教族の方は私が働いていることも、自分の収入で1人暮らしの生計を立てていることも知らなかったか、その瞬間は忘れていたに違いありません。
「私は障害を盾に取ったりしない」
と書いていましたが、人に助けてもらっている時点で盾にとっているのでは。私は現実世界では障害を明かしていないし、そのために人に助けてもらったこともないのですが、説教する前にそういうことを確認するべきでないのでしょうか。と書くとまた
「言ってくれないとわからない」
と逆ギレされると思われますが、何で説教される側がする側のために、説教に必要な材料を揃えてあげないといけないのでしょう。それ以前の記事に何度も書いたことです。全部回りがお膳立てするのが当然で自分は口開けて待っているだけなのに、よく人に甘えているとか言えますね。責めているのではなく、どうしたらそんな思考回路ができるのかすごく不思議なのです。(説教するなと言いたいのであって、人に助けてもらうのがいけないと言っているのではありません)
 海風さんがこの前トラックバックしてくれた記事「異文化接触のn段階 」からヒントを得て、「セカンドインパクト 」の表を修正。
 
異文化接触の3段階
 
  第1段階 : 驚き、感動、恐怖、怒り・・・
          ↓    ↓    ↓
  第2段階 : 無視 ⇔ 交流 ⇔ 敵対 ⇔ 無視
          ↓↑   ↓↑    ↓↑
  第3段階 : 無関心、調和、戦い

※↓↑=知識・経験の量  ⇔不安
※第0段階、第4段階の存在も仮定されているが今回は省略。
 
 こんなイメージでしょうか。うう、私が書くと貧相。そのうち海風さんが見かねてきれいな立体図にしてくれることでしょう。(勝手に宣言)
 
 さらに、わたりとりさんの「5つのアクションを、50%メソッドで書いてみた。 」から思いついた、自分用メモ(修正の可能性大いにあり)。
 
 ・第1段階は「破壊」
 ・第2段階は「再構築」
 ・異文化の受容は自文化の再構築。
 ・破壊を最小限に抑えるため、共通点を見つけようとする。
 ・異文化と知覚しないと攻撃につながる恐れがある。
 
 破壊、再構築というと大げさですが、すべるのを覚悟で身近な例で例えてみます。
「会社員は勤務時間が9時から5時まで(多少は前後するが)で土日が休み」
という概念で捕らえているAさんと、休日も勤務時間も交替制のBさんがいるとします。
 Aさんが休日や夜、早朝の時間帯に働く人がいると知らない訳ではなくても、概念として形成されていないと、何度説明しても、午後5時以降の勤務を「残業」、土日の労働を「休日出勤」、平日の休暇を「有給」と呼びます。
 交替制勤務の人はほとんど有給なんて取れないのに、
「有給取りやすくていいね」
なんて言われたらカチンときそうです。
「会社員は勤務時間が9時から5時まで(多少は前後するが)で土日が休み」
という概念を1度破壊して再構築しないと、用語の使い方が直りません。あるいはあきらめて、Bさんが相手の用語の使い方に合わせてしまうかです。
 
 上のケースは実際にあった出来事をモデルにしていますが、なぜいくら説明しても理解させられないかというと、説明する側も相手の文化を理解していないから、どこがどうわからないのかを想像できないのです。これで
「言ってくれないとわからない」
と逆ギレした人が前にいましたが、案外、破壊すらされずにどちらかがどちらかをねじ伏せて過ごしていることは多くあるのかも知れません。
「これが当たり前」
と。なぜなら私が「破壊」に出会ったのは、AS診断の日だったからです。そこから私の「再構築」の旅が始まりました。それ以前は「異文化」にすら気づいていませんでした。
 
 もしかしてこれが0段階? いや、違うか。海風さんのコメント(「異文化接触のn段階 」コメント欄)通り、第1段階をすっ飛ばして第2段階の無視に行っているだけかも知れません。私はずっと、無視と無関心の間を言ったりきたりしていた、変だと思うことはあっても。ねじ伏せてきたのは私の方です。
 ゼロ、何もない状態、仮に「静寂」と名づけておきましょう。第4段階(ゴール?)を「静寂」と名づけてもよさそうな気がするからです。ループ説を採用するなら、さざ波もたたぬ静寂にたどりついた後、また静寂は波立ち始めるのです。
 
 
 12月7日の記事。異文化交流議論がいつの間にか進んでいます。初Yahoo外からの参加で、みつくるさんの「関係 」がトラックバックされました。 他の記事読まないとさっぱりわからないのではないかと心配です。こちらは携帯で見て下さっている方や、Yahooが見づらい環境の方も多いようなので。この前初めて携帯でこのブログ見たのですが、文字だけ出るのですね。(知らなかった)
 かなり昔、中学生くらいの女の子がやせ薬と称して変なもの(劇薬?)を同級生たちに送った事件がありました。実際に飲んだ子がいて、補導されることになったのですが、その時
「本当に飲む人がいるとは思わなかった」
と答え、そのことを報道が疑いもなく信用していることに驚きました。加害者は軽い気持ちのいたずらで、飲んだ方に非があるみたいな言い方をしているところもありました。
「本当に飲む人がいるとは思わなかった」
は私は嘘だと思っています。大人に怖い顔で詰め寄られれば、自分を少しでも守るためにそれくらいのことは言うでしょう。
 
 私がいじめられていた頃、いじめた子は悪事がばれると必ずこう言いました。
「ふざけていただけ」「冗談なのに本気にするとは思わなかった」
そんなはずないだろう。
「ふざけてなぐった」
ではなく
「なぐろうとしてなぐった」
に決まっているじゃん。それって
「電車に乗ろうとしてバスに乗った。バスに乗るつもりではなかった。それを、バスに乗っていると思ったバスが悪い」
くらいおかしいでしょうが。
 
 何で大人はこんな見え透いた嘘を信用するのでしょう。私は今大人ですがやっぱり信じられません。そのうち
「ふざけていたら死んじゃいました。わざとじゃありません」
とか言い出すぞこいつら。
 ただ、これも異文化的に見ると
「結果より過程重視」「喧嘩両成敗」
ということかも知れません。大人が何もわかっていないのではなくて。
 このブログのレギュラーキーワード
「気概が欲しいということです」
も結果より過程重視の傾向を思わせます。
 
 最初の中学生の事件も、
「ちょっとしたいたずらが大騒ぎになってしまった」
ことにしておいた方が親や教師の管理責任が軽減し、加害者の将来にも傷をつけないという判断がなされたのでしょう。いたずらで送った方も飲んだ方も少しずつ悪かったんだよね、お互い気をつけようね、さあこれで仲直り、めでたしめでたし。
 大人になるとそういうところの調整能力は結構大事なことで、問題視する方が大人げないのです。できるだけ相手に恥をかかせないよう、穏便に、穏便に。コミュニケーションが足りなかった(常套句)、これからは何でも話し合えるようにしよう、めでたしめでたし。
 これが悪いとまでは申しませんが、いじめる側がいじめられる側より相対的に保護されてしまうのです。
 
 
 12月4日の記事。いじめは被害者側がいじめであることを証明しなければならないのが大変です。集団暴行受けていても、一発でも殴り返せば対等のケンカと見なされます。そしていじめている側は
「いじめだということを証明しろ」
と涼しい顔をするのです。いじめっ子と説教族は
「証明しろ」
というのが大好きです。明確な証拠がなければ何をやっても(自分だけは)許されると思っているのでしょう。違うんだったら違うことを証明して下さい。自分で証明せずに他人に証明を求めるのは甘えではないのでしょうか。(説教族用語によると、他人が何かしてもらおうとするのは甘えだが、自分が何かしてもらうのは正当)
 私は数学の証明問題割と得意だったのですが、こいつらの求める証明は何だかよくわかりません。ブログの初期にも
「できないことを証明しろ」
とかすごかったですね。匿名のブログだってのに。