異文化コミュニケーション論が盛り上がっておりますが、このシリーズもここまで来たのでできれば最終回までやりたいものです。
 主人公が動物園に就職して1年経ちました。私は今の職場で1年9ヶ月になります。1年経つとその職場で起こりうるたいていのことを経験して、言われる前にちゃんと気も回るようになり、先々の予想も経つようになります。ドラマでもそういう演出が見られました。
 ちなみに私は新卒で就職して以来、ひとつの部署に1年4ヶ月以上とどまったのは2度目です。気が回るようになる前に
「こりゃ駄目だ」
と見切りをつけられるパターン? 1度目は長かったんですけど。
 
 今回の見所は、同僚の自閉症の息子の登場でした。このシーンはいろいろな解釈ができて面白かったです。ああいう映像に撮ろうとしたのかたまたまかわかりませんが、息子の方が主人公よりも重篤に見えました。年齢や社会経験による差という解釈もできたし、周りの接し方によって(この表現怒られそう)成長もするということかも知れません。
 お父さんは、同僚である主人公のように、息子とおしゃべりができると期待していたのではないかとか、見捨てたことへのじんわりとした後悔とか、会えた喜びなんかもにじみ出てよいシーンでした。
 
 本当にあと2回で終われるのでしょうか。伏線や予告の雰囲気だと
「人に助けてもらわないと生きられない人間に、人生を楽しむ権利があるのか」
という重いテーマでしょうか。これにノーという人はまずいないでしょうが、実際には説教族がうるさそう(この人たちは自分はいいけど人は駄目と言う)だし、助ける側にも人生を楽しむ権利があります。それを犠牲にしてまで、とは誰にも言えないことです。
 私はフルタイムで働き自分の収入で1人暮らしの生計を立てているにも関わらず、説教族に怠け者だの努力が足りないとののしられました。まして1人で生きられない人間の楽しみなど、彼らは認めないに違いありません。
 
 ドラマだからあらゆる意味でユートピアなんですが、実はユートピアはすぐそこにあるのではないか、とも思わせてくれます。異なる存在を知覚して、受容して、共存していくことができるなら、多くの人は分かり合えて生きていける、その可能性は十分あるのだ、と。(説教族がいなければ)
 
 
 12月9日の記事。今思うと、説教族の方は私が働いていることも、自分の収入で1人暮らしの生計を立てていることも知らなかったか、その瞬間は忘れていたに違いありません。
「私は障害を盾に取ったりしない」
と書いていましたが、人に助けてもらっている時点で盾にとっているのでは。私は現実世界では障害を明かしていないし、そのために人に助けてもらったこともないのですが、説教する前にそういうことを確認するべきでないのでしょうか。と書くとまた
「言ってくれないとわからない」
と逆ギレされると思われますが、何で説教される側がする側のために、説教に必要な材料を揃えてあげないといけないのでしょう。それ以前の記事に何度も書いたことです。全部回りがお膳立てするのが当然で自分は口開けて待っているだけなのに、よく人に甘えているとか言えますね。責めているのではなく、どうしたらそんな思考回路ができるのかすごく不思議なのです。(説教するなと言いたいのであって、人に助けてもらうのがいけないと言っているのではありません)