先日書いた「強く生きるのです 」の中で、強いとはどういう状態を指すのかを考えました。そしてどうも
「弱い人は強くならないといけない」
というのは、敵を叩きのめせとかそういうことではなく
「我慢しろ」
の意味らしいとわかりました。
 
 強い、という言葉には支配的、自分勝手、意地悪、声がでかい、といった説教族的イメージがつきまといます。そうでなければ我慢強いということです。「本当に強い」というのも我慢強い方ですね。その割に、「強い」はいい意味で使われているようです。
 まとめ。
 
強い      → 支配的
強くて優しい → 忍耐強い
弱い      → 優しい
弱くて支配的 → 「強い人には弱い人間の気持ちはわからない」
 
 最後がセリフになってしまいましたが、弱い人間が自分より強い人間を、弱さを武器に攻撃することです。弱い人間がより弱い人間を攻撃することではありません。ただ、最初は強者として弱者を攻撃していたのが、思わぬ反撃にあって一転支配的な弱者を装うことはあります。
 あと、支配者というのは立場上強弁にならざるを得ないことはあるので、上の分類だとカリスマリーダーと説教族がごっちゃになっていますが、それはやむを得ずとします。どの立場にも善と悪はいるものです。
 
 まとめからわかること。腕力や体力でなく、精神的な意味で強くなる方法は2つしかありません。我慢するか、我慢しないか、どちらかです。
 我慢するなら、する、ひたすらする、なじられてもこき使われても耐える、我慢しないなら自分が説教族になる、もしくは経営者になる、いびろうとする人には暴言を吐く、他の人が残業していてもさっさと帰る、ということです。
「強くならないと」
と説教されたら
「何様だよてめーそんなに自分が偉いと思ってんのかよ、思い上がるのもたいがいにしろ、その性格直さないと今に誰にも相手にされなくなるぞ」
と怒鳴り散らせば、先方のアドバイスを受け入れたことになり、完璧です。
 我慢しないで生きるというのも楽なことではありません。どこで陰口叩かれるかわからないし、友達は減るし、不当に低い評価を受けることもあるでしょう。嫌なら我慢する方を選べばよいのです。もしくは強くなることを放棄するのもよいと思います。
 説教族は、厳しいことが本当の優しさだとして、自分を強くて優しいと思っているらしいですが(ただし自分限定、他人が自分に厳しいのは禁止)厳しいなら厳しいでいいのに
「本当は優しいんだぞ」
とすり替えようとするところが器が小さいです。
 
 このブログを開設した当初、自分は今まで周りに迷惑をかけていたんだなと知ったばかりで異常に謙虚(自分基準)でした。上の分類でいう弱者でした。そうすると弱い者いじめをしたくて仕方ない人々にねらわれるとわかったので、我慢しないことにしました。
「嫌われるかな」「誰もコメントしてくれなくなるかも」
という不安はありましたが、口うるさい私を大らかに包みこんで下さる、強くて優しい皆様に支えられてサイト運営を続けてこれました。
 状況が許せば優しい(弱い)人でいたいのです。他のたいていの人もそうだと思います。強くて優しい(=忍耐強い)のが最上であるという価値観は、支配者層の都合で発明されたんではないかと思えます。
 
 
 3月21日の記事。セルフエスティーム完結編。私は説教族襲撃事件以前の謙虚(当社比)な自分の方が好きです。しかし、もうあの頃の私じゃない~♪ 1日も早く説教族が滅びますように。私が優しくいられるように。

 前の記事にノルウェイの森ネタを出しましたが、それを書くにあたってこの小説をパラッと再読しました。何年も手に取っていませんでしたが、当時も話題になった赤と緑の鮮やかな表紙と金色の帯のツヤは昔のままでした。20年近く前のベストセラーです。私もベストセラーだから読んでみましたのクチです。
 

 物語の舞台のひとつとして、心を病んだ人の療養所が登場します。患者も医師もスタッフも見舞い客も共通の決まり事として
 
第一に相手を助けたいと思うこと。そして自分も誰かに助けてもらわなくてはならないのだと思うこと。第二に正直になること。嘘をついたり物事をとり繕ったり、都合の悪いことを誤魔化したりしないこと。
 
があります。読んだ当時は全く響かなかったけど、人と人が互いに差別なく生きていくために大変大事な、そして難しい決まり事です。
「誰かに助けてもらわなくてはならない」
などと頭の片隅をよぎっただけで
「甘えだ」
と説教が飛んできそうです。そんなことが許されるのでしょうか。誰も怒らないでしょうか。
 
 この決まりは、1人でも破る人間がいたら崩壊します。この秩序が守られて形成される社会に、アスピー・エデン を連想しました。
 その世界の中であれば、普通に人生が送れる、労働もできるし他人の役にも立つ、自分ができないことは助けてもらうこともできる、しかし、秩序の外にいる人間から攻撃されたら崩れてしまう、幻のような世界です。
 その中にいればうまくやっていけるけど、外に出てうまくやる自信はない、と住人が語るのも無理はありません。外に出ればどんな怪物がかっ歩しているかわかりません。
「人に助けてもらおうなど甘えだ、ひきょうだ」
光線を爆撃する怪物に囲まれたらと想像するだけで身の毛もよだちます。
 
 楽園の外に出るということは、他人を攻撃しないと生きていけない、あのかわいそう でお下品な人たちを受け入れてあげることでもあります。秩序に反する人を追放することで成立する楽園が住みよいのか、誰もが共存できる世界などあり得ないのか、共通の秩序の人々同士で住み分けてお互いに干渉しないということはできないのか、現代日本においても、選択の余地がない訳ではありません。
 異文化交流最大の難関、説教族との対峙、それはまとめに向かっております。(本当か?)私は寛容ではないし優しくもないし、彼らと共存できるなどとは全く思っておりません。自分の中の恐怖に、対峙するのみです。
 
 
 3月20日の記事。人に甘えだと説教する人に限って自分の時には平気で人に助けてもらうという話は本当ですね。自分が助けてもらっているという認識がないんだな。説教族を説教する人っていないのでしょうか。私も怖くて説教できないのですが。
 昨日楽器のことを書いたのは、自分としては大英断でした。また怒られたらどうしようとビクビクだったので、ひとつ山を越えたという自信がつきました。そこでさらに突っこんで参ります。
 楽器をいくら練習してもできるようにならないという話は、音楽をやっていらっしゃる方にはカチンとくるのでしょうか。私は文章を書くのは好きですが、
「自分は文章をいくら書いてもうまくならない」
と書いたものを見たとしてもカチンとは来ないと思うのです。仮にその理由が発達障害でも。
「そーなのかー、じゃあアタシすごいのね、へへっ」
なら思うかも知れませんが。謙虚さゼロです。
「私も下手でしたが努力して書けるようになりました。努力すればうまくなります」
なんて、恥ずかしくて言えません。そこまでうまくないし。あれ、「他者に仮託して自己主張 」につなげようとしたものの、またわからなくなってきました。まあいいや。
 
 楽器はできるに越したことはありません。いつ「ノルウェイの森」のレイコさんに
「あなた何か楽器はできるの」
と聞かれないとは限りません。その時
「小学校で習ったリコーダーなら」
と答えていてはとても恋愛小説になりません。
 
 愛が芽生えそうな楽器・・・ピアノ、ギター、バイオリン、フルート
 愛が芽生えそうにない楽器・・・ハーモニカ、リコーダー、太鼓、シンバル
 微妙な楽器・・・ハープ、ラッパ、木琴、尺八
 
 少子化対策にはピアノかギターを義務教育で、と言いたいところですが、義務教育の音楽でハーモニカやリコーダーが使われるのは単価が安いからに違いありません。ピアノやギターを全員に買わせるにも、学校にそれなりの人数分置くのも予算が大変です。
 
 ところで、ノルウェイの森の主人公は、大学1年生の段階で
「何年も楽器に触っていないし、特に楽器はやっていない」
そうですから、おそらくリコーダーどまりではなかったかと思われます。(時代の関係で違うかも知れませんが)しかし小説の終わり辺ではギターを弾いています。これは、全員ギターが必修というナウ(死語)な中学だったという設定でなければ、驚くべきことです。
 
 さらに、イカ天ブームの頃、その辺の素人が集まってバンド組んでしまう様子がテレビや雑誌、映画で虚実ない交ぜに描かれました。私にとっては楽器をひとつマスターするというのは、その楽器に全人生をかけるくらいの入れこみを必要とするもので、
「バンドかー、いーなー、オレもやってみようかな」
くらいでギター弾けてしまうというのは信じられませんでした。
 
 昨日書いていて思ったのですが、多くの人は、その楽器におけるドレミの出し方を覚えて、曲のメロディが分かれば、もう演奏できてしまうのでしょうか。ちょうど、平仮名を全部書けるようになればとにかく文章らしきものが綴れるように。
 あるいは、私がパソコン買ってきて、説明書読み読み四苦八苦しながらもどうにかネットに接続するように、ギターを買ってきて説明書を読みながらドレミの出し方を覚えれば、どうにか弾いてしまえるものなんでしょうか。
 2年前ならどっと説教が押し寄せたであろうこのネタ、面白いヒントが得られれば続く、かも知れません。なお、タイトルの美妙は微妙の間違いではありません。
 
 
 3月19日の記事。アメーバニュースで「ブログにルールは必要か? 」というのをやっていますが、ルールは必要に決まっているとして、このニュースで言いたいのはマイルールのことと思われます。少なくとも私のブログはマイルールを必要とします。
 人生で最初に出会った、「自分で演奏するための楽器」はハーモニカでした。幼稚園の時です。ということは、ハーモニカは簡単な楽器と認識されているのでしょうか。
 ドを鳴らす、レを鳴らす、まではいいのですが、ドラレファソ(適当なメロディ)のようにフレーズになりません。口をつけたまま、ドの位置からラの位置に動かすということがなぜみんなできるんでしょう。見ないとラの位置がわからんではありませんか。いったん口を離し、ラの位置を見つけてそこにまた口をつける、というならできますが、それでは音楽になりません。
 
 ハーモニカのドとレの位置のズレは数ミリにもなりません。ちょっと位置がずれると違う音になってしまいます。さらに、「吹く」と「吸う」の2つの動作を使い分けなければなりません。「吹く」「吸う」と認識しているうちにすぐ時間が経って、フレーズを構成できずただのバラバラの音になってしまいます。楽器を演奏するという行為には、考える間もなく身体が動くという脊髄反射的なスピードが要求されます。(参考:「なぜ書けるのか 」コメント欄)
 両親は家で随分練習させてくれましたが、とうとう1フレーズたりとも吹けるようになりませんでした。幼稚園の他の子は普通に吹いていましたのに。
 
 小学校の途中で縦笛が登場しました。ハーモニカと違って吹くだけですし、指で穴を塞いだり開けたりすることで音をコントロールする様子を見ることはできましたが、指使いを見ていると楽譜を見ることができません。カタカナでドレミを振ってある楽譜ですが。
 ドは全部の指、レは1個開ける、上のドは上から2番目を開ける(間違っているかも知れませんが、例えなので指摘しないで下さい)という風に覚えているため
「ミは・・・」「ファは・・・」
と考えている間に時間がどんどん経って、やっぱりフレーズになりません。
 
 1フレーズも吹けないのがクラスで私だけになった時、先生は私の近所に住むクラスメートに命じて、夕方私の家に行かせて縦笛特訓、となりました。1週間後の音楽の時間にみんなの前で発表させるという刑つきです。
 楽譜を見ながら吹くということはできないので、ドレミのメロディを暗記、指を動かす順番も覚えていきます。「ドラ」を覚え、「ドラファ」を覚えという風に。
 大人になった今だと、メロディの下に指使いを表す言葉か図を入れるなどの工夫も思いつくのですが、まだそこまで頭が回らず、他の子と同じようにやるしかありませんでした。
 
 1週間後、いよいよみんなの前で発表です。何とかひとつの曲の一部を吹いてみせた私を先生は不自然なくらい大げさにほめました。
「やればできるじゃない、一生懸命やったよ、自信持てたでしょ」
自信ですか。あれだけ練習してこれでは、もう絶望しかありません。
「○○さんにお礼を言いなさい」
クラスのみんなの前で、1週間練習につき合ってくれた子に
「ありがとうございます」
と頭を下げました。つき合ってくれた子には迷惑かけたとは思いましたが私は達成感も何もありませんでした。
 この調子で他の子と同じように吹けることを要求されたら、他のことが何もできません。この1週間限定の瞬間最大風速だったから、他のことは全部投げ出して縦笛だけを練習し続けることができたのです。
 
 将来縦笛専門の音楽家を目指そうというなら別ですが、どう考えても楽器演奏を職業または趣味にできるとは思えませんでした。それなのに自分の全精力を費やしたくありません。この辺のことは一部の人の癇に障るらしく、
「やればできるのにやろうとしないだけ」
という説教を招きます。縦笛以外の全ての生活も勉強も趣味も犠牲にして、縦笛だけは何とか人並みになれたとしても、そのせいで力を注げない他のことを持ち出され、またそのことについて
「やればできるのにやろうとしないだけ」
と説教されることでしょう。全てのことに全精力を注ぐことはできません。ひとつひとつ取り出せば、
「本当に一生懸命やればできる」
としても。
 
 幸い先生も多少懲りたのか、私に人並みの演奏能力を求めなくなり、クラスメートもそれを認めてもくれました。そう考えると、あの儀式も無駄ではありませんでした。
 
 
 3月18日の記事。縦笛と書いたのが恥ずかしいです。リコーダーと書かないと。先生としては、とにかく1回でも成功体験を積ませて自信を持たせようという教育的措置だったのでしょう。人の何倍も時間をかけてやっとできた時、普通人は感動するものなんでしょうか。私はこれをこれから先ずーっと要求されたらたまらないという恐怖があったばかりでした。
 楽器演奏が楽しめる人ならできてうれしい、という気持ちもあるかも知れませんが、私には苦行でした。こうして楽器の話を書いても説教されなくなったことには、達成感があります。
 楽器ができるよりも大事なことは、楽器ができないと書ける自由があること。
 自尊感情について考えようとしたら説教妄想におそわれ、それと戦うだけになっているシリーズがまだ続いています。
 コップの水が半分入っている状態で、
「まだ半分もある」「もう半分しかない」
のどちらの捉え方をするかで何かが違う、みたいな話を時々見ます。
「まだ半分もある」→楽観的→○ 「もう半分しかない」→悲観的→×
だと思っていましたが、
「まだ半分もある」→だから怠けてもいい→× 「もう半分しかない」→だからがんばろう→○
かも知れません。ポジネガ逆ですね。
 
 日本語には足るを知る、という言葉があります。これは自尊概念を含む言葉かと考えたのですが、探してみると強者(経営者、政治家、金持ち)が弱者(労働者、国民、貧困層)に向けて使うような使われ方でがっかりです。金持ちが貧乏人に
「足るを知れ」
と言ったらいかんです。お前が知れよ、と言いたくなりますが、こういう言葉は自分ではなく他人に使う言葉なのかも知れません。努力は強要されるが見返りは求めてはいけない、というのが根底にあって、これも「強くなれ 」同様、支配者層がうまく作り出した概念なんではないかと疑います。
 
 へとへとになるまで働いて愚痴をこぼすサラリーマンよりも、来年こそ就職して親に恩返ししたいと語るニートの方がエラいのが、ネット上の世界です。エラくないからと怠け者と非難される筋合いはありません。
 こうしたい、こうなりたいという計画なんか実行されないうちは妄想でしかない、実際にやったことの方がエラいのだ、間違っていないぞ、私は絶対正しいぞ。
 
 いや、違う、どっちでもいいのです。
「こんなにできた」
でも
「まだまだがんばらないと」
でも。私だって後者を考えることはよくあります。
 他人に強要するからいけないのです。「自分に」対してなら尊重するもよし、叱咤激励もよし、ポジティブでもネガティブでも何でも自由です。他人に勧めるから(また勧められたかのように受け取るから)話がおかしくなるのです。
 
 
 3月16日の記事。「ポジティブになれ」というのはよくある説教ですが、ポジネガは簡単に逆になるのでどっちでもいいのです。押しつけられるのは嫌ですが。その前に、ポジティブというのはいかにも悪徳商法が怪しい点を追求された時に誤魔化す言葉っぽくて嫌いです。個人的に。(例:「この商品は高すぎませんか」「高いからこそ性能がいいとポジティブに考えて下さい」)
 相手の大事な部分を否定せず、また相手も自分を否定しないでいてくれるなら、一部の考えは違っても交流は可能だと思いたいです。