マネージャとは何か | ドラッカーを学ぶ/埼玉のドラッカリアン和光良一

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ドラッカリアンとは、ドラッカーを理解、実践する事が大好きな人たちの総称です。チェンジリーダとは、ドラッカーによればイノベーションを行う者です。

「マネジャーを見分ける基準は命令する権限ではない。貢献する責任である」(ES版『マネジメント』p125)


マネージャとは何か、と言ったとき、私たちはどうしてもマネージャの定義を知りたくなる。


しかし、さらっと読むとさほど気にならないのだが、実はドラッカーはあまり言葉を定義してくれていない。


ドラッカーを読みにくい、訳が分からんと言って読み進めることが出来なくなる人の中には、あるいは、そこに違和感を感じて耐えられなくなる人もいるのではないかと、想像する。


「論理そのもの」である数学などでは、言葉を「定義」することなしには、何も始まらない。

論理的ではないものには意味がない、という価値観の人には、言葉の定義をしないで話を進めていく、などと言う方法は到底受け入れ難いものだろう。


しかし、ドラッカーは、「論理はもともと愚かである」(『経営者の条件』7章)と断じている。


論理的だから価値があるとか、ないとか、そういう次元には居ないのだ。

では、ドラッカーが非論理的かと言えば、全くそんなことはなくて、これでもかと言うくらい論理的なのである。


要するに論理という道具は、道具に過ぎないから、道具に使われちゃダメだよ、と言う話。


確かに、言葉の定義なしには論理は構築できないのだけれど、しかし、よく分かっていないものを定義してしまう、というのは、実は仮説を立てることに過ぎない。


そして、場合によっては、その仮説が結論そのものになってしまう。

仮説=結論、だとすれば、論理の出る幕はない。


例えば、生命とは何か?という人類不朽のテーマがある。

このテーマは、「生命の定義」ができたとしたら、それが結論である。


「生命とは何か?」という議論が、生命の定義から入っていたとしたら、その定義は仮説に過ぎないし、議論の中身は、仮説の検証になるであろう。


さて、ドラッカーは、『マネジメント』において、マネージャの定義について、「世間一般で、昔はこう言われてきたよ。最近は、それがこう変わって来たね」というスタンスで、一般的な定義の変遷を紹介することにとどめている。


マネージャの定義は何か?

 昔:人の仕事に責任を持つ者

 今:組織の成果に責任を持つ者


今、と言っても、これは1974年の頃。

しかも、これが正しい定義だ、という言い方はされていない(間違いだとも言っていないが)。


ドラッカーは、マネージャを定義することについては、ここで一度、脇に置いてしまう。


そして、それに続く『マネジメント』における記述は、マネージャの貢献する責任、言い換えれば、役割とか仕事の内容について明らかにすることに遷っていく。


そうすることで、マネージャの定義も自ずから明らかになるでしょう、という考え方なのである。


こう見ていくと、ドラッカーがマネージャ(:マネジメントの人)を定義することに、極めて慎重になっている様子がうかがえる。


先ほど、何の気なしに「生命の定義」とのアナロジー(類似性)を指摘したが、あながち見当外れではないかも知れない。

生命と同じとまでは言わないにしても、マネージャとは、軽々しく定義して良いものではない、と理解すべきなのかもしれない。


とは言え、ドラッカーは1993年の著作『ポスト資本主義社会』において、マネージャの定義は、正しくはこうである、という答えを提示している。

『マネジメント』では書き渋った、マネージャの定義を、随分とアッサリと記述している。それは、あるいは、この本が社会生態学系の本だからなのかも知れない。

このマネージャの定義は、『プロフェッショナルの条件』PartⅠの1章にも収録されている。今日は、そちらの方の訳文をご紹介して、本稿を締めたいと思う。


マネージャの定義とは、

「正しくは、『知識の適用と、知識の働きに責任を持つ者』である」(『プロフェッショナルの条件』p27)


うん。まあ、確かに、この定義が、『マネジメント』に書かれていても、読者は戸惑ってしまうだけかも知れませんな。