ASDの中年男性の人生の生き方。ときどき投資。 -4ページ目

ASDの中年男性の人生の生き方。ときどき投資。

シェアハウスで社会不適合者たちと暮らしています。発達障害(ASD)だから社会に適応できません。どうやら唯一トレードが好きだから、ひたすらトレードしてるかなぁ。

最近は大自然の中で農作業が主です。生きることは難しい。

わけあって山を下りることにした。

 

理由は生活に不便だからである。

 

寒い季節は布団に潜るだけの生活になるし、なによりもともと寒いのは超苦手だ。

 

それ以外の季節は、たしかに過ごしやすいが生活に不便すぎる。

 

ある程度の文明が入ってきたところに住むのが自分には合っているらしい。

 

というわけで、次の住居は40分ほどバイクで走らせたところにある。

 

ここもまたシェアハウスである。

 

徒歩圏内にコンビニやドラッグストアがある。

 

バイクを5分くらい走らせれば、デニーズとかガストとかすき家もある。

 

店も23時まで営業しているのは何とも感慨深い。

 

便利すぎる。

 

引っ越して間もなくは、毎日毎日ドラッグストアで酒を買い、

 

なくなってはまた酒を買いに求めた。

 

快適な山奥の暮らしの不便な環境(?)で、今まで無意識に抑圧していたストレスが爆発した感覚もある。

 

もともと酒が弱いが毎日飲んだ結果、やっと飽きてくれた。

 

山でのお手伝いには今後も度々通うことになるため縁は切れないが、

 

週2くらいのペースで山に入るのはいいかもしれないな・・・

コロナ禍での自粛要請があった頃を思い出す。


あの頃は人々が自宅から出ないようになり、普段の町中には誰も歩いていない。閑散としてしまい「みんなどこへ行ったんだろうか?」というくらいだった。


これが自分にはたまらなく心地良かった。


誰もいない。


世界はこんなに静謐に満ちていたんだ。


ひきこもり気質の自分が社会的に認められた気分になった。


ただ小さい町の自営業者たちが次々に潰れていく姿には心を痛めたことを除いては。


あの頃は外出しちゃいけない空気があり、人との繋がりに飢えて孤独感に陥った人たちが次々に自◯した報道まであったが、自分には信じられないことだった。


「自◯してしまった人たちはこの世界が辛かったんだなぁ。自分はこんな世界がデフォルトになればいいと思っているのに。」


人は人それぞれだから仕方ない。


確かにコロナは終わりが見えなかったし、こんな世界がいつまで続くのか分からないと辛いかもしれない。


医療従事者に対しての差別だとか、小さいお子さんを抱えている親御さんへの差別もあったしな。


あぁ、そういえばリモートワークも上手くいきだして「実はそんなに出社しなくて良くね?」が正当化されたなぁ。オンライン飲み会も流行ったよな。あんまり上手くいかなかったところもあったみたいだけど、そこそこオンラインでやれちゃいますってところも分かったみたいだし良かったのかもしれない。


あれから数年が経ち、人類はコロナ前のライフスタイルに戻っているけど、一部はコロナ禍の名残もある。


医療機関では患者さんたちがマスクをつける姿が目につきがちだし、飲食店の入口には消毒用アルコールが慎ましく設置してある。


完全にコロナ前の世界に戻ると、ひきこもり気質の自分には生きづらい。コロナ禍の世界をもう一度欲しがっているが、戻れない。


なんとなく、マクドナルドに設置してある消毒用アルコールを眺めては過去の世界観に思いを馳せる。


また生きづらい世界に身を置くのは気持ちが悪い気もするが、大多数の選択した世界には逆らえないものだ。

トレードをしていて、スケベ心を出してエントリーをしたら

 

しっぺ返しを喰らい含み損を抱え、そのままレートが戻らずに膨らんでいき

 

結局そのまま不本意な損切りをしてしまい

 

「あぁ…あんなところでナゼ俺はエントリーをしてしまったのだろう」

 

と思ったことは何度もある。

 

しかも自分で確立している手法があるのも関わらず、

 

そんなスケベ心が勝りエントリーして損切りしたときには後悔する。

 

そして利食いできたとしても、

 

そのやり方が正当化されて「トレードって簡単だな」と錯覚してしまい、次回以降もやらかしてしまい、

 

いつかは不本意ながらも大損失を被る経験も何度もした。


しかも揉み合い相場で手を出して、レートの動意が曖昧のままで続いていき、ポジション持っている間ほどチャートにかじりついて含み損益の経過を見てしまうのは本当に疲弊してしまう。


やっと利確できたとしても、その労力には見合わないほどの対価だ。

 

結局はスケベ心でやったトレードは、結果がどうであれ『悪いトレード』であると評価できる。


こういうときのトレードこそ過大なロット数でポジションを持ちがちでまったく良いことはない。

 

二度と同じ過ちを繰り返さないよう工夫が必要だ。

 

 

 

そんなときは、俺はいつもシモ・ヘイヘを思うようにしている。

 

狙撃兵(スナイパー)で著名なシモ・ヘイヘという人物は、

 

狙撃するそのときまでは、いつまでもじ~っと待っていたという。

 

(詳しい説明は省略します。詳しく知りたい方は↓をどうぞ)

 

 

 

 

 

「俺はシモ・ヘイヘだ。ただそのときがくるまで待つ。」と言い聞かせる。

 

過去には頻繁なトレードした結果はいまいちだったが、

 

シモ・ヘイヘの如く局面を絞ったトレードを心掛けたらアッという間に収益が右肩上がりになったこともある。

 

つまりはスケベ心は俗にいうポジポジ病のことでもあるが、これは経験して痛い目を見ないとわからない。

 

 

 

ひとつの同じような経験としては、

 

昔、東京の池袋の風俗街を歩いたときにキャッチに引っ掛かり、

 

写真の女の子を指名したのに、全然違う女の子がホテルにきて全然タイプじゃなかったため

 

キャンセルしたときがある。もちろん俺はキャッチにすでに現金を渡してしまった。

 

だから一人ホテルで虚しい時間を過ごした。

 

こういう風にスケベ心を出したら、たいていは搾取されるのがオチだ。


まさにスケベ心である。


 

 

 

そもそも負け組のトレーダーは欲に任せて市場に参加しているが、

 

勝ち組のトレーダーは市場参加者の欲を利用したトレードをしているため、

 

そりゃゲームをやる前から欲に走るトレーダーは結局は搾取されるよね、と

 

気付くのはまた時間が経ってからの話である。




相場は聖域だ。


一回一回のトレードは謙虚に丁寧にやらなくてはならない。

先日、相模湖を訪れてから自分の心境が違う。

 

 

 

 

未来への警戒心が落ちた感じだ。

 

いつもと同じような具合で布団に入り、DB芸人(R藤本、アイデンティティやらの芸人がドラゴンボールのキャラに扮する)の動画を観て、

 

いつもと同じ回転寿司に行き、納豆巻き、玉子、そして大量のガリを食らう。

 

そんな感じで同じような生活を営み、

 

客観的にはそのルーティンからは建設的な評価をできる材料は何もない。

 

「これでいいんだ。

 

誰が何と言おうと、こんな生活は今後も営まれ、これが俺だ。」

 

という感覚だ。

 

 

 

人生の選択肢なんて一つに収束されていき、

 

結局はその一つの人生を生きるしかない。

 

その一つの人生は納得できるものでありたいし、

 

しかも自分の力が最大限に活かせるものであってほしい。

 

 

あれもこれも選ぶ人生は無理だ。

 

もともと他人より劣っている能力が多すぎるのだし、

 

一点突破でも自分の強みが活かされる人生を。

 

 

 

ASDという脳みそは決して自分が望んで手にしたわけではないが、

 

それを活かしてみるとどんな世界で生きることになるのかを確認しにいく人生を経験するも良かろう。

 

おそらくは大多数の人は経験できない人生だし、ある意味で特権な気もする。

 

それは『幸せ』というよりは『納得できる』人生である。

 

実はそれは奥深い魂レベルでは幸せといえる気がする。

 

 

 

他人との関わりは、狭く浅く、そして必要に応じて深いものでありたい。

 

基本的には、他人との距離感は遠い方が自分が脅かされなくて安心できる。

 

それでいいのだ。

 

他人という存在と近しい関係を構築したくてもできない人生だったが、

 

それはそれでよかったと割り切れた。

 

他人との関わりは遠い距離感から、自分の人生を納得できるような日々を過ごすのみ。

 

近しくなると、自分の方向性がブレるのでそこは肝に銘じておくこと。

先日、神奈川県の相模湖周辺をブラリ旅で散歩したときに、ふと思ったことがあった。

 

今後自分の気持ちを見直すときがあると思うので綴っておく。

 

自分の記録用に・・・

 

 

 

相模湖でBBQのイベントがあった。

 

こういうのは参加したことがなかったが、ワケあってか参加することにした。

 

想像していたよりも狭い会場では人がごった返す。

 

人口密度が高いところは苦手で、できれば他人と接触をしたくない。

 

しかしこのイベントの趣旨としては、(私の解釈ではあるが)シェアリングである。

 

その様子を傍から見ていて、「たぶんこのコミュニティは平和なんだ…」という印象を受ける。

 

お互いの参加者が初顔合わせでも話も弾み、とても”良い”感じである。

 

この”良い”とは、おそらく大多数の人からはそういう風に表現すればの話で、

 

私個人的には”ツラい”。


人ゴミが苦手だ。

 

いや正確には、人ゴミに居てもいいんだけど、人と何かを共有しなきゃ的な状態になるのが辛い。

 

だからと言って独占的にしたいとかいう気持ちはまったくなく、他人と接触することを極度に嫌う。

 

これはASD特有のコミュニケーションを苦手とすることや、

 

APD(聴覚情報処理障害)もあるので雑音が多い場面で、

 

相手が何を言っているのか分からずに聞き取りにくく、会話に非常にエネルギーを要することが原因にあると思う。

 

そのため擬態する心を発奮させて人と合わせるのだが、これが非常に疲れる。

 

ほんとヘトヘトになって疲弊してしまうのだ。昔からこれは変わらない。

 

(世の中のASDのみなさま、社会に這いつくばって生きていてエラい。)

 

 

 

案の定、私は傍から離れて会場の脇にあるイスで一人佇んでいた。

 

この誰にも話しかけられない状況は、すごく安心する。

 

そこから人々が会話する姿や、幼い子供がハシャぐ姿を見るのが好きだ。

 

自分はその最中にいるのは好きではなく、傍から眺めるのが適度な距離感なんだと思う。

 

そういえば20年くらい前にも、参加した飲み会で同じようなことあったな・・・と回顧。

 

会場で焼かれた肉を少し食って、あとは会場周辺の町を散歩することにした。

 

場所は神奈川県のJR藤野駅付近である。

 

そこで小さい町ながらも、暮らしを大切にしている地域の姿に感動した。

 

小さいスーパーなんだけど品数がしっかり充実していたり、調理場で魚介類を捌く従業員がいる。

 

ローソンがあり、店内で作りたてのコロッケや唐揚げが陳列されている。

 

地域の掲示板には

 

「映画出演者募集!自主制作映画のエキストラとして参加してくれませんか?自主製作だから報酬は出ませんが笑 出演希望者は〇月×日に△△に集合です!」

 

「バレーボールしませんか?やりたい人はこちらまで」

 

「私はこの藤野出身のシンガーソングライターです。ライブやるので来てください!」

 

みたいなのが並ぶ。

 

住宅街を歩くと、小綺麗に手入れされている畑が目に付き、人が農作業をしている。

 

 丁寧に生活している空気が漂う地域だ。



 

それを見た自分は

 

「あぁ・・・俺はこういう人たちを応援したいんだな。

 

自分が主体になってこれをやりたいとかってない人生だけど、やりたいことをやっている人を支えたいんだな」

 

と痛切に感じた。っていうか、それしかないんだと思う。

 

もともとASD脳で、一般的な人より興味の対象範囲も狭い。みんなが食いつくものにも、食いつく感覚もない。

 

なんにも共有できるものがないのに興味持っているフリして社会に合わせて生きて、

 

幾度も心を殺されては劣等感を抱え過ぎた。

 

ASDと名付けられた脳みそは自分が望んで有したわけではないが、どうせならそれを活かして死にゆきたい。

 

残りの人生も半分はきているし、時間は限られている。

 

自分が既に持っているスキルというのは、、、、もうトレードしかないのだ。

 

そこでバンバン利益を出して、とにかく金を自他のために使っていきたい。

 

そこで死ぬときには無一文で死んでいきたい。

 

と強く思った。

 

金を与える相手はもちろん自分が決める。

 

嫌な奴には与えたくないし、自分が気に入った相手にだけ与える。

 

これは、ホントに観念したという気持ちだ。

 

それが分かった。

 

結局BBQ会場にはわずかしかいなかったが、

 

でもそれが分かっただけで充分過ぎるほどの収穫だったのだ。