残りの人生で「これがやりたいことなんだ」と観念したこと | ASDの中年男性の人生の生き方。ときどき投資。

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シェアハウスで社会不適合者たちと暮らしています。発達障害(ASD)だから社会に適応できません。どうやら唯一トレードが好きだから、ひたすらトレードしてるかなぁ。

最近は大自然の中で農作業が主です。生きることは難しい。

先日、神奈川県の相模湖周辺をブラリ旅で散歩したときに、ふと思ったことがあった。

 

今後自分の気持ちを見直すときがあると思うので綴っておく。

 

自分の記録用に・・・

 

 

 

相模湖でBBQのイベントがあった。

 

こういうのは参加したことがなかったが、ワケあってか参加することにした。

 

想像していたよりも狭い会場では人がごった返す。

 

人口密度が高いところは苦手で、できれば他人と接触をしたくない。

 

しかしこのイベントの趣旨としては、(私の解釈ではあるが)シェアリングである。

 

その様子を傍から見ていて、「たぶんこのコミュニティは平和なんだ…」という印象を受ける。

 

お互いの参加者が初顔合わせでも話も弾み、とても”良い”感じである。

 

この”良い”とは、おそらく大多数の人からはそういう風に表現すればの話で、

 

私個人的には”ツラい”。


人ゴミが苦手だ。

 

いや正確には、人ゴミに居てもいいんだけど、人と何かを共有しなきゃ的な状態になるのが辛い。

 

だからと言って独占的にしたいとかいう気持ちはまったくなく、他人と接触することを極度に嫌う。

 

これはASD特有のコミュニケーションを苦手とすることや、

 

APD(聴覚情報処理障害)もあるので雑音が多い場面で、

 

相手が何を言っているのか分からずに聞き取りにくく、会話に非常にエネルギーを要することが原因にあると思う。

 

そのため擬態する心を発奮させて人と合わせるのだが、これが非常に疲れる。

 

ほんとヘトヘトになって疲弊してしまうのだ。昔からこれは変わらない。

 

(世の中のASDのみなさま、社会に這いつくばって生きていてエラい。)

 

 

 

案の定、私は傍から離れて会場の脇にあるイスで一人佇んでいた。

 

この誰にも話しかけられない状況は、すごく安心する。

 

そこから人々が会話する姿や、幼い子供がハシャぐ姿を見るのが好きだ。

 

自分はその最中にいるのは好きではなく、傍から眺めるのが適度な距離感なんだと思う。

 

そういえば20年くらい前にも、参加した飲み会で同じようなことあったな・・・と回顧。

 

会場で焼かれた肉を少し食って、あとは会場周辺の町を散歩することにした。

 

場所は神奈川県のJR藤野駅付近である。

 

そこで小さい町ながらも、暮らしを大切にしている地域の姿に感動した。

 

小さいスーパーなんだけど品数がしっかり充実していたり、調理場で魚介類を捌く従業員がいる。

 

ローソンがあり、店内で作りたてのコロッケや唐揚げが陳列されている。

 

地域の掲示板には

 

「映画出演者募集!自主制作映画のエキストラとして参加してくれませんか?自主製作だから報酬は出ませんが笑 出演希望者は〇月×日に△△に集合です!」

 

「バレーボールしませんか?やりたい人はこちらまで」

 

「私はこの藤野出身のシンガーソングライターです。ライブやるので来てください!」

 

みたいなのが並ぶ。

 

住宅街を歩くと、小綺麗に手入れされている畑が目に付き、人が農作業をしている。

 

 丁寧に生活している空気が漂う地域だ。



 

それを見た自分は

 

「あぁ・・・俺はこういう人たちを応援したいんだな。

 

自分が主体になってこれをやりたいとかってない人生だけど、やりたいことをやっている人を支えたいんだな」

 

と痛切に感じた。っていうか、それしかないんだと思う。

 

もともとASD脳で、一般的な人より興味の対象範囲も狭い。みんなが食いつくものにも、食いつく感覚もない。

 

なんにも共有できるものがないのに興味持っているフリして社会に合わせて生きて、

 

幾度も心を殺されては劣等感を抱え過ぎた。

 

ASDと名付けられた脳みそは自分が望んで有したわけではないが、どうせならそれを活かして死にゆきたい。

 

残りの人生も半分はきているし、時間は限られている。

 

自分が既に持っているスキルというのは、、、、もうトレードしかないのだ。

 

そこでバンバン利益を出して、とにかく金を自他のために使っていきたい。

 

そこで死ぬときには無一文で死んでいきたい。

 

と強く思った。

 

金を与える相手はもちろん自分が決める。

 

嫌な奴には与えたくないし、自分が気に入った相手にだけ与える。

 

これは、ホントに観念したという気持ちだ。

 

それが分かった。

 

結局BBQ会場にはわずかしかいなかったが、

 

でもそれが分かっただけで充分過ぎるほどの収穫だったのだ。