久しぶりに日記を書こうと思う。
どうにも行き詰まった感覚である。
年齢を重ねていけば、自分の心が炙り出しになるし
周りの状況も変わる中で、自分の嫌な面も直視せざるをえない。
ハッキリ言えばキツい。
『未来は変えられない、過去は変えられる』という人がいるが、
本当にその通りだと思う。
生きている時間が長いと、結局は自分の課題に直面するし、
時間が経過して、自分が変容した視点で過去を眺めたときには、過去は変わっている。
しかしながら、生まれた時点で人生は決まっている。
なぜあの親の元で生まれてきたのか。
俺の親は異常だった。
子どもが喜ぶ出来事が起こっても、喜びを表現するようなものなら、父親からは「調子に乗ってんじゃねぇっ!!!」と怒鳴られて育った。
そんな環境に暮らしていけば、『喜ぶこと=悪いこと』という刺激反応回路が構築されて当たり前である。
自分が本来感じている感情を表すことを禁じられてしまうと、感情を抑圧する習慣が身に付いてしまい、一体何が本当の自分の感情か分からなくなってくる。
そんな状態で成長していけば「一体自分は人生で何をしたいのか?」という状態に陥り、感情という名の“羅針盤”が働かないので、永遠に自分探しを始めてしまう。自分の本心がわからないからだ。
全部親のせい。
とはいえ、世間的には「親のせいと言えるのはせいぜい未成年までで、それ以降は自己責任。」にされてしまう。
厳しいがこれが社会の見方だ。そこからは自己責任のもとでトラウマ的なものは自力で解消しなければ、社会人としてやっていけない。社会不適合者になると、なおさら社会の目は冷たい。
周りの人は助けないのが当然。助けるとしたら行政しかない。
人間なんて所詮動物である。
人間の脳は、簡単にいえば、古い脳と新しい脳に区別される。
古い脳は、動物的な
新しい脳は、人間的な思考をする。
人間とはいえ、所詮は古い脳がありきで新しい脳があるので、
動物的なところは残る。
つまり動物的な要素がなければ人間ではない。
人間社会はイジメという現象はなくなるはずもないのだ。
村社会で生きてみれば、それがよくわかる。
鶏を飼っている知り合いがいる。
小屋の中で鶏を放し飼いにして、鶏たちの群れがウヨウヨしている。
ある一羽の鶏が、他の鶏に小突いてちょっかいを出す。
ちょっかいを出された鶏は2パターンの反応を示す。
小突かれても平然としている鶏、
そして、小突かれたら「いじめられた!!」と騒ぎ立てアピールする鶏。
ここで面白い現象が起きる。
前者の鶏は、平然として、そのまま何事もなかったかのように振舞い、群れの秩序は保たれたまま。
後者の鶏は、騒ぎ立てたことにより、周りの鶏たちが反応し、一斉にその鶏を攻撃しはじめるのだ。
これを見て「自然界って正直だな」と思った。
つまり集団の中に弱者がいたら淘汰される。
当たり前である。
子どもや雌はともかく、大人になっても弱い個体が集団にいたら『邪魔』なのだ。
集団に危機が直面した時に、その弱い個体を助けるために構っていたら集団が滅ぶ危険性もある。
だったら弱者は切り捨てられて当然の理である。
「強者は強者を助け合い、弱者は見捨てられる。」
これは自然界が教えてくれる事実だ。
シェアハウスに20代半ばの毒親育ちの男性がいる。
毒親によって、ものの見事に脳が破壊されてしまったんだなと印象を抱く言動が目立つ。
「あなた生きること自体無理でしょ」としか思えない。
彼はアルバイトに20~30社以上申し込んだが、面接でことごとく落とされる。
雇用先はゲットできない。それもそのはず。彼は人との会話のやり取りが壊滅的に成立しない。
それは1〜2分彼と話すと分かる。しかも彼の言動の節々には周り人を小馬鹿にしている印象があり、周りの人からすると「は?何コイツ?」となる。
彼は社交性不安障害があるせいか常に怯えてビクビクしている。怯えているということは、彼にとって他人はみんな『敵』である。
『敵』認定された相手方からすると「は?コイツなんなの?」という反応をしてしまうので、彼に対しては『敵』としてキツく当たる構図が出来上がっている。
だから永遠に彼に対して味方をしてくれる者は現れない。
四面楚歌の状況を彼自ら作ってしまっている。
最初は俺以外のシェアハウス住人もそいつに対して軽く言葉を交わしていたが、今ではみんな無視に近い対応をすることになった。
『社会不適合者よ集え!』というコンセプトを掲げているシェアハウスで、彼自身の意思でニート的な生活に憧れて住み着いた。それなのに、彼自身の言動により己の居場所を喪失してしまった。実に皮肉である。
仕方ない。
あまりにも人間関係を知らなさすぎるし、人間という生物を理解していないからだ。
彼は仕事にありつけないので、生活保護を受給している。
良かったですね、日本国憲法に生存権があって。
仮に、何時そいつが死んでも俺は何も思わない。
シェアハウス内である日首吊り自殺していても、「あ、死んだんですね。」程度にしか思わない。
「辛かったんだろうね。ただ死ぬんだったら、人気のない樹海とかで移動して死ねよ」としか思わない。
「シェアハウス内で死なれて、お祓いとかの費用は家族に請求する手間も残して死ぬのは最後までアイツ迷惑な存在だったよな」と思うだろう自分が想像できる。
申し訳ないが、彼は死ぬまでこのままだと思う。(何に対して「申し訳ない」のか私も分からない。)
そして、俺は彼を通じて『過去の自分』を見ている。
今の自分から過去の自分に対して「アナタが死んでも別に構いませんけど?」という感想でしかないという意味でもある。
あれだけ過去にもがき苦しみ生き抜いてきた自分が「死んでもいいよ?誰も悲しまないから。」と言われたら絶望感でしかない。
でもホントにそうなんだ。
そもそも『生物として生きてるプライドをも喪失した人間には生きてる価値はない』のだ。
プライドをも放棄して腑抜けた人間は、勝手に死んでもらってもいい。
毒親という存在が、子に与える影響は計り知れないほど罪深い。
話を戻そう。
人間もご多分に漏れず生物である。であるから、この理は普遍である。
だいたい人権とかって、人間が勝手に作り出した思考の産物であるので、
自然界から見ると不自然なはずなのだ。
なぜ地球上の生物界の頂点に君臨するのが『人間』なのか…
それは人間の思考が勝手に定義したからである。
そんな勝手に地球を人間の所有物にされても、地球にとってはいい迷惑である。
DNAは長生きをしたい。人間なんて、DNAが生き残るための容器でしかない。
だから人間はセックスをして、新しい肉体を作り出す。
DNAが生存し続ける必要があるから。
…ということを考えたら、自分も含めた弱者はさっさと滅んでもよいし、もっと強者は栄えていくのが自然。
優勢思想万歳である。