ASDの中年男性の人生の生き方。ときどき投資。

ASDの中年男性の人生の生き方。ときどき投資。

シェアハウスで社会不適合者たちと暮らしています。発達障害(ASD)だから社会に適応できません。どうやら唯一トレードが好きだから、ひたすらトレードしてるかなぁ。

最近は大自然の中で農作業が主です。最近生きやすくなりました!

私は40代半ばです

 

独身で子どももいません

 

かつての私が人生で一番望んでいたことは結婚し子どもを授かることでした

 

40歳ほどで無職になり、結婚を諦めました

 

性的嫌悪の価値観の母親のもとで育てられたためか、恋愛経験はありません

 

性的嫌悪を明確に意識したのは、皮肉なことに無職になった後であり気付くのには遅すぎました

 

人間には適齢期というものがあり、その時期に課題に取り組まないと一生の課題として残る可能性があります

 

性的嫌悪の価値観に毒されていると気づくまで恋愛をしたいとあれこれ足掻いてきましたが、

 

足掻けば足掻くほど恋愛からは遠のく(好意を抱いた女性からは嫌われる)ばかりで、

 

周りの人が当たり前に恋愛して恋仲になったり、結婚していき子どもを授かる様子をみて酷く劣等感を抱えてきました。

 

今となっては年齢のせいか性欲も減退しているし、結婚なんてする気もないので、その意味では生きやすいです。

 

しかしながら、心の奥深いところでは性的なエネルギーは解消されずにドロドロした感情が蠢いています。

 

しかも毎日。

 

 

 

20歳の頃に恋愛感情を抱いた女性からは「プライドないの?」と冷たく言い放たれたことは忘れられません。

 

当時『プライド』の感覚というものが全くわかりませんでした。

 

プライドという感覚を初めて実感したのは、これも皮肉なことに無職になってからでした。

 

それまでプライドという言葉を聞けど、まったく感覚が分からずに生きてきたので、女性から相手にされませんでした。

 

最後に女性を好きになったのは39歳のときです。

 

人生で一番人間らしい好意を抱けた記憶があります。

 

その恋愛は成就せずに終わりましたが、自分に誇りを持てる終わり方をしました。

 

そのときが少しだけプライドの意味がわかった感じです。

 

 

 

 

ずっとずっと恋愛できる土俵に立つことを待ち望んでいたのに、気付いたときには適齢期を過ぎ去りました。

 

もちろん世の中には「恋愛に年齢は関係ない」という価値観もありますが、私の場合は

 

性的なエネルギーを消化できていないので『若さ』というものに執着してしまいます。

 

私自身が若くないといけないし、女性も若くないと性欲が湧かないので性的課題が解消される感覚がないのです。

 

これが人生の課題の根っこにこびり付いてしまっている以上は

 

残りの人生ははっきり言えば無意味な時間とも思ってしまいます。

 

 

 

 

「ホントに親って子どもの人生を殺すんだなぁ」と

 

自分自身を振り返っても、シェアハウスの同居人を見ても痛感します。

 

『親ガチャ』は失敗しても、それが原因であれ、

 

それを背負って生きなくては人生は自分のものにできません。

 

これを素直に認めなくては人生も進まないことを理解しました。

 

 

 

 

私の人生は、恋愛とは無縁なものでした。

 

個人の尊厳を奪う父親に育てられ、性的エネルギーを否定する母親から育てられ、

 

人間の生きている意欲さえ削がれ、先祖代々も子孫繁栄もクソもない感覚に侵され、

 

生きているのが苦痛でしかないときもあります。

 

 

 

「だから何?お前はやれるだろ?」

 

 

 

というもう一人の声が囁きます。

 

それは“自尊心”を携えたもう一人の自分です。

 

“自尊心”というものは私にとって脆い人生の中でやっと掴み取った希望みたいなものです。

 

「あの頃・・・過酷な職場環境で周りのみんなを牽引してよく踏ん張ってきたな」

 

「いつでも逃げ出すことができたのに、よく俺立ち向かったな」

 

障害やら抱えながらも力ずくで生きてきて、わずかに芽生え始めた『人とのつながり』という大切さ。

 

その延長線上に掴んだ“自尊心”

 

この自尊心は、私を自死されてくれません。

 

「こんな想いしてまで、自殺してたまるか」

 

 

 

最後に『二ーバーの祈り』の一節を記し、今回は終わります。

 

神さま、わたしにお与え下さい

 

自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを

 

変えられるものは変えていく勇気を

 

そして

 

その二つのものを見分ける賢さを

社会不適合者の集うシェアハウスに住んで2年半が経ちました。

 

いろんな人に出会いました

 

 

 

・20~30社で勤務してきたけどどれも長続きしなかった人(自分からキレて辞めるパターンの繰り返し)

 

 

 

・商売家系に生まれてプライドが高いが故に従業員であることに抵抗があり、今まで定職に就かずに生きる詐欺師気質の人(シェアハウス内では他人を利用しようとする)

 

 

 

・ガチめに障害福祉の支援を必要とする運命学の探究者(地域のトラブルに発展し、訴訟沙汰になったが地裁への傍聴には行けず)

 

 

 

・毒親のもとに生まれ人間関係が壊滅的に営めない生活保護受給者

 

 

 

もちろんシェアハウスには“マトモ”な人もいるけど、そういう人たちは社会人経験があります。

 

こんな小さいシェアハウスの中でも生き方は二極化しています。

 

やはり社会人経験がある人は、社会不適合者のシェアハウスに住んでも何らかの“仕事”をします。

 

しかしながら、どうしようもない人は文字通り“どうしようもない”生活をしています。

 

 

 

私もこのシェアハウスに住んだ当初は「もう人生でやりたいことないし老後か~…」という気持ちでした。

 

働かない生活をしようと思いました。

 

だけど、土地柄のせいもありますが自分が『動く』必要性がありました。

 

村社会で生きていくためには地域とのつながりが必要ですし、

 

都市型生活のように「お隣さまに無関心」なんてやっていけません。

 

そんなことしたらコニュニティから排除対象になってしまいますし、いざというときに助けてもらえません。

 

ヒドイ場合は『村八分』という現象になることも想像に難くないのです。

 

逆にいえば、そのコミュニティで貢献すれば重宝してもらえる。

 

まさにアナログ形式の人間関係が、人としての生き方の原点回帰を促してくれます。

 

(もちろんシェアハウス住人には近隣住民とは接点を持たない人もいますが、その人はいざというとき見捨てられるでしょう)

 

 

 

あとは間近に自然界を観察できる環境であるので『弱肉強食』という構図が本来の人間の姿というのも教えてくれます。

 

人間なんて「言語を操れる動物」のようなもので、社会を複雑化できるけれども、

 

所詮は世の中はシンプルであることを目の前で披露してくれます。

 

それは動物たちはじめ自然界が教えてくれます。

 

 

 

『強者は強者を支え合い、弱者は淘汰される』

 

 

 

これが自然の理です。

 

容赦なく弱者は不要です。

 

弱者は周りから攻撃される対象になるので、生きにくい状況に追い込まれます。

 

じゃあ弱者はどうすればよいか?

 

言い訳なしに必死に強くなろうとするしかないのです。

 

これを人間にあてはめると、

 

「障害があるから生きていけない」

 

「ブサイクだから相手にされない」

 

「頭悪いから上手くできない」

 

「チビだからメス(雌)から相手されない」

 

という様々な言い訳というものに対して、

 

「だから何なの?弱いなら滅べば?」

 

という一言で片づけられる様を見せつけられます。

 

人間という生き物は、こういったことを露骨に表現しないにしても

 

やはりどこかで弱者に対しては表現しますよね。

 

婉曲的に分かりづらく表現するので気が付かない人もいますが、

 

動物は非常に直接的で分かりやすい。

 

弱者が救われるには戦う姿勢を自ら奮い立たせ、強者に仲間として認めてもらうしかありません。

 

勝ち負けではなく、自尊心を取り戻して生きた奴が仲間入りされるのです。

 

 

 

 

2014年に『山奥ニート』という言葉が誕生し、全国のニートたちが触発され全国各所の田舎に

 

近しい価値観のシェアハウスが点在していき、あれから12年が経ちました。

 

元祖山奥ニートを名乗っていた葉梨はじめ(石井あらた)さんは、結婚され2年半前から山を下り、

 

子どもも授かり主夫として現在は名古屋市内で生活しています。

 

『日本一有名なニート』のphaさんはシェアハウスから退去し、現在は一人暮らしをされ

 

高円寺の書店員として働いています。

 

 

 

歳月が経つにつれ状況が変わり、いつまでも同じところには留まれません。

 

あの時期に『ニート』というブランドを着て生きてきた人たちは、現在どのように生きているのだろうか。

 

非常に気になります。

 

それは私のシェアハウスの住人を見ていると、恐怖心を抱くからですね。

 

 

 

「『働けるけど働かない』選択をしている人はまだしも、

 

『働けない』人はどうするんだろう?」

 

 

 

これはもしかしたら、AIが台頭してきた世の中でいわゆるベーシックインカムが実現するので杞憂にすぎない疑問かもしれません。イーロンマスクも2030年までに10億台のロボットを生産し、ユニバーサル・ハイインカムが実現していくだろう言ってるし。

 

でも・・・そこから漏れる人たちなら?

 

仕事をできるか否かというよりも、本質的なところは人間関係を営めるのか?というのが問題なのです。

 

経済的に潤ってもお金で人間関係を保持するのは脆いですし、そこに本物の信頼関係は感じられません。

 

お金があれば自尊心が満たされると勘違いしている人もシェアハウス住人にはいますが、

 

「悪いけど、コイツが億万長者になっても人間的な魅力は増さないよな・・・」と思ってしまう人もいます。

 

それにお金の価値観も変わっていく世の中で、お金なんて社会的ステータスの材料でもなくなるかもしれないっていうのに。

 

・・・とまぁ、私が考えすぎかもしれませんが、シェアハウス住人を見ていて最近「いよいよヤバいんじゃないか」と危機感を抱くようになりました。

 

私はこのシェアハウスでは比較的「働く」ほうではありますが、この価値観のコミュニティに居てることを良しと構えることができなくなりました。

 

「世の中から見たら単にオッサンの俺が、定職に就いていないことがどれだけ『イタイ人』に映ることか…」

 

とか最近思います。もちろん掛け持ちの仕事を随時請け負ってやっているのですが、

 

やはりお手伝いがベースになるのでお小遣い程度の収入しか得ていませんし。

 

しかしながら、私は投資をしているため運用益はあります。

 

だけれども、それが人間という動物として生きるのに価値が生じてこない感覚はなぜでしょうか。

 

ひとつ言えることは、シェアハウスの同居人に実家が太くて40代なのに仕送りで暮らしている人を見ていて辛くなるからです。

 

私が評価するのもおこがましいですが、その人はダメ人間です。

 

「コイツは親から金をもらっている。俺は自分で得た金を運用して金を得ている。違うはずだけど、同じに映ってしまう。

 

なんか動物として腑抜けた存在に位置している感覚になってしまう。俺とコイツは同類かも・・・」

 

という気になってしまいます。

 

 

 

「そろそろ生き方を変えないとな・・・人生も後半だから引き算を考えるけど、

 

死ぬ時までに人生を回収する生き方をしないと。

 

年齢制限で回収できない部分も事実あるが、それでもその姿勢だけは失いたくないわ」

 

いつまでも環境に甘えているワケにはいかない。

 

こいつはますますヤバいかも・・・と日々感じるようになった心境を綴った日記でした。

シルバーウィークはず~っと部屋で籠っていました。

 

無気力に陥る・・・

 

でもね、こういうことを何年間も続けていたら自分に嫌気が差すんですね。

 

だって、まったく人生が進んでいる気がしないから。

 

私は、自分の人生は15歳から時が止まった感覚でいます。

 

それから約30年間は何とか生き抜いてきました。

 

「結局、人生って他人の存在が必要なんだよね・・・」という気持ちがあります。

 

両親を含め他人から嫌なことをされた記憶が多々ありますが、

 

綺麗ごと抜きにしても、他人という存在があるからこそ

 

自分の中の喜怒哀楽の感情や経験が培われてきたよなぁとの想いがあるからです。

 

 

 

だから表面的には人間を避けたいと思いながらも、深いところでは人間を大事にしていきたい。

 

その距離感は人によって異なりますが、やはり何らかの形で他人とは関わっていく必要があるし、

 

他人という存在は抜きにして生きていけないですしね。

 

水道やガスやら電気やらゴミやら・・・生きていく上でやってくれる他人がいるから生活ができますし。

 

他人がやってくれる仕事に対して、単に「それが仕事でしょ?」で片づけてしまうのも

 

自分の中には虚しい気持ちもありますしね。

 

 

 

よく昔から「感謝しなさい」とは言われてきましたが、

 

やはり自分の生きてきた経験からしかそんな心境には至れないこともあります。

 

ですから『(“とりあえず”でも)生きていく』ということは、

 

自分の心境の変化をも伴っていくので、そんな自分が物事の見方が変わっているというのは、

 

これもまたオモシロイかなとも思います。

 

 

 

みんな何らかの想いがあって自分の仕事(やっていること)で何らかの貢献はしてますから、

 

他人のやることに対して蔑んだり、下に見てしまうのも自己嫌悪に陥りますし、

 

自分に対して「何様なの?」とも思うようになります。

 

他人の人生を見ると羨ましく思うことは沢山あります。

 

私の人生では、それを経験することは不可能だった。

 

距離感が近いとそれが嫉妬になりますし、それに触れない程度の距離感が一番良いかと。

 

 

 

あとこの年齢になって一番嫌なストレスが『自分から逃げる』ということですね。

 

他人は他人で自分は自分なんだけど、自分の事は自分でしないといけないので、

 

理由はなんであれ、それをあれこれ合理的な理由をこじつけてやらないのは

 

自分にとって凄まじいストレスで一気に死にたくなる。それをいつまで繰り返すんだ。

 

自分から逃げることを繰り返しても、ホントまとわりついてくるだけなので

 

それは解決しないといけないよなぁ…ホントに無気力とか言っている場合じゃないのだ。

 

年齢を重ねるほど『自分から逃げる』はキツく重くなる仕組みらしい・・・

 

 

今さらながら映画『青天の霹靂』をレビューしたいと思う。


長々と書く予定でしたが、スゲー疲れてしまうのでサクッと簡単に。

 

この映画は2014年の公開当初、私も映画館に足を運び観に行きました。

 

すごく感動したことを思い出します。

 

しかしながら、

 

よくよく考えてみると「こんなヒドイ映画ってある?」という見方もできるので

 

それを書こうと思う。

 

 

まず、この映画を知らない人のためにネタバレ込みのあらすじを書くと、、、




 

売れないマジシャン(大泉洋)は39歳。

 

幼い頃に母は姿を消し、父とは絶縁状態で、人生に希望を失っている。

 

ある日、父がホームレスとして孤独死したことを知り、失意の中で雷に打たれたマジシャンは約40年前にタイムスリップする。

 

そこで若き日の父(劇団ひとり)と母(柴咲コウ)に出会う。

 

タイムスリップ中に若き日の父と母の2人と接点を持っていくことで、

 

自分の生い立ちの歴史を知り、父も母も自分を愛していたことを理解する。

 

そして現代へ戻り、過去そのものは変わっていなかったが、マジシャン自身の受け止め方は大きく変わっていた。

 

人生を前向きに歩き始め、マジシャンとしても再出発する決意を固め、物語は希望を感じさせるラストで幕を閉じる。

 





・・・というものなんですが、冷めた見方をしてしまう自分もいます。


理由は、現実的にこんなことはありえないからです。

 

 

1、タイムスリップなどしない。

 

そして関係性がこじれた人は、そもそも接点を持つことをしないので理解する機会がない。


2、嫌いな奴のことを知りたいとも思わないし、接点を持とうともしない。


親には親の事情があった。だからといって子どもは『被害者』にされる覚えは一切ない。

 

よってこの映画は非現実的な設定のもとにあるので、感動の嵐になったからって、

 

実際に生きている人が救われる再現性は全くない。


だって本来ならば、マジシャン(大泉洋)は『愛されなかった』と思い込んだまま生きて老い死んでいくのが確定だったんですよ。タイムスリップしてしまった故に感動するストーリーになってしまっただけです。

 

完全にこの映画はファンタジーです。


毒親育ちの人は、この映画を観て“救われる”と思ったら完全に罠だと思いますね。


以上。

久しぶりに日記を書こうと思う。

 

どうにも行き詰まった感覚である。

 

年齢を重ねていけば、自分の心が炙り出しになるし

 

周りの状況も変わる中で、自分の嫌な面も直視せざるをえない。

 

ハッキリ言えばキツい。

 

『未来は変えられない、過去は変えられる』という人がいるが、

 

本当にその通りだと思う。

 

生きている時間が長いと、結局は自分の課題に直面するし、

 

時間が経過して、自分が変容した視点で過去を眺めたときには、過去は変わっている。

 

しかしながら、生まれた時点で人生は決まっている。

 

なぜあの親の元で生まれてきたのか。

 

俺の親は異常だった。

子どもが喜ぶ出来事が起こっても、喜びを表現するようなものなら、父親からは「調子に乗ってんじゃねぇっ!!!」と怒鳴られて育った。

 

そんな環境に暮らしていけば、『喜ぶこと=悪いこと』という刺激反応回路が形成されて当たり前である。

 

自分が本来感じている感情を表すことを禁じられてしまうと、感情を抑圧する習慣が身に付いてしまい、一体何が本当の自分の感情か分からなくなってくる。

 

そんな状態で成長していけば「一体自分は人生で何をしたいのか?」という状態に陥り、感情という名の“羅針盤”が働かないので、永遠に自分探しを始めてしまう。自分の本心がわからないからだ。

 

全部親のせい。

 

とはいえ、世間的には「親のせいと言えるのはせいぜい未成年までで、それ以降は自己責任。」にされてしまう。

 

厳しいがこれが社会の見方だ。そこからは自己責任のもとでトラウマ的なものは自力で解消しなければ、社会人としてやっていけない。社会不適合者になると、なおさら社会からの風当たりは厳しい。

 

周りの人は助けないのが当然。助けるとしたら行政しかない。

 

人間なんて所詮動物である。

 

人間の脳は、簡単にいえば、古い脳と新しい脳に区別される。

 

古い脳は、動物的な

 

新しい脳は、人間的な思考をする。

 

人間とはいえ、所詮は古い脳がありきで新しい脳があるので、

 

どうしても動物的な要素は残る。

 

つまり動物的な要素がなければ人間ではない。

 

人間社会は“イジメ”という現象はなくなるはずもないのだ。

 

村社会で生きてみれば、それがよくわかる。

 

鶏を飼っている知り合いがいる。

 

小屋の中で鶏を放し飼いにして、鶏たちの群れがウヨウヨしている。

 

ある一羽の鶏が、他の鶏に小突いてちょっかいを出す。

 

ちょっかいを出された鶏は2パターンの反応を示す。

 

小突かれても平然としている鶏、

 

そして、小突かれたら「いじめられた!!」と騒ぎ立てアピールする鶏。

 

ここで面白い現象が起きる。

 

前者の鶏は、平然として、そのまま何事もなかったかのように振舞い、群れの秩序は保たれたまま。

 

後者の鶏は、騒ぎ立てたことにより、周りの鶏たちが反応し、一斉にその鶏を攻撃しはじめるのだ。

 

これを見て「自然界って正直だな」と思った。

 

つまり集団の中に弱者がいたら淘汰される。

 

当たり前である。

 

子どもや雌はともかく、大人になっても弱い個体が集団にいたら『邪魔』なのだ。

 

集団に危機が直面した時に、その弱い個体を助けるために構っていたら集団が滅ぶ危険性もある。

 

だったら弱者は切り捨てられて当然の理である。

 

「強者は強者を助け合い、弱者は見捨てられる」

 

これは自然界が教えてくれる事実だ。

 

人間社会でも、金持ちたちは金持ちたちと協力し合い、世の中にお金を回し経済を潤していく。しかし弱者は資力もないので何も貢献できず、排除される対象だ。

 

動物も人間もまったく同じ社会である。

 

 

 

シェアハウスに20代半ばの毒親育ちの男性がいる。

 

毒親によって、ものの見事に脳が破壊されてしまったんだなと印象を抱く言動が目立つ。

 

「あなた生きること自体無理でしょ」としか思えない。

 

彼はアルバイトに20~30社以上申し込んだが、面接でことごとく落とされる。

 

雇用先はゲットできない。それもそのはず。彼は人との会話のやり取りが壊滅的に成立しない。

 

それは1〜2分彼と話すと分かる。しかも彼の言動の節々には他人を小馬鹿にしている印象があり、周りの人からすると「は?何コイツ?」となる。

 

彼は社交不安障害(対人恐怖症)があるためか常に怯えてビクビクしている。怯えているということは、彼にとって他人はみんな『敵』である。

 

一方的に『敵』認定された相手方からすると「は?コイツなんなの?」という反応をしてしまうので、彼に対しては『敵』としてキツく当たる構図が出来上がっている。

 

だから永遠に彼に対して味方をしてくれる者は現れない。

 

四面楚歌の状況を彼自ら作ってしまっている。

 

最初は俺以外のシェアハウス住人もそいつに対して軽く言葉を交わしていたが、今ではみんな無視に近い対応をすることになった。

 

『社会不適合者よ集え!』というコンセプトを掲げているシェアハウスで、彼自身の意思でニート的な生活に憧れて住み着いた。自分と同じようなニート気質の仲間と平和に暮らすことを夢見ていたのだろう。それなのに、彼自身の言動により己の居場所を喪失してしまった。実に皮肉である。

 

仕方ない。

あまりにも人間関係を知らなさすぎるし、人間という生物を理解していないからだ。

人間が集団で生活を営むことの最低限の作法も知らないから、周りから塩対応されてしまう。

 

そんな彼は仕事にありつけないので、生活保護を受給している。

 

良かったですね、日本国憲法に生存権があって。

 

仮に、何時そいつが死んでも俺は何も思わない。

 

仮に、ある日シェアハウス内で首吊り自殺していても「あ、死んだんですね」程度にしか思わない。

 

「辛かったんだろうね。ただ死ぬんだったら、人気のない樹海とかで移動して死ねよ」としか思わない。

 

「シェアハウス内で死なれて、お祓いとかの費用は家族に請求する手間も残して死ぬのは最後までアイツ迷惑な存在だったよな」と思うだろう自分が想像できる。

 

申し訳ないが、彼は死ぬまでこのままだと思う。(何に対して「申し訳ない」のか私も分からない。)

 

そして、俺は彼を通じて『過去の自分』を見ている。

 

今の自分から過去の自分に対して「アナタが死んでも別に構いませんけど?」という感想でしかないという意味でもある。

 

あれだけ過去にもがき苦しみ生き抜いてきた自分が「死んでもいいよ?誰も悲しまないから。」と言われたら絶望感でしかない。

 

でもホントにそうなんだ。

そもそも『生物として生きてる自尊心をも喪失した人間には生きてる価値はない』のだ。

 

自尊心をも放棄して腑抜けた人間は、勝手に死んでもらってもいい。

 

そんなわけで毒親という存在が、子に与える影響は計り知れないほど罪深い。

 

 

話を戻そう。

 

人間もご多分に漏れず生物である。であるから、この理は普遍である。

 

だいたい“人権”とかって、人間が勝手に作り出した思考の産物であるので、

 

自然界から見ると不自然なはずなのだ。

 

なぜ地球上の生物界の頂点に君臨するのが『人間』なのか…

 

それは人間の思考が勝手に定義したからである。

 

そんな勝手に地球を人間の所有物にされても、地球にとってはいい迷惑である。

 

DNAは長生きをしたい。人間なんて、DNAが生き残るための容器でしかない。

 

だから人間はセックスをして、新しい肉体を作り出す。

 

DNAが生存し続ける必要があるから。

 

…ということを考えたら、自分も含めた弱者はさっさと滅んでもよいし、もっと強者は栄えていくのが自然。

 

優勢思想万歳である。