ASDの中年男性の人生の生き方。ときどき投資。 -2ページ目

ASDの中年男性の人生の生き方。ときどき投資。

シェアハウスで社会不適合者たちと暮らしています。発達障害(ASD)だから社会に適応できません。どうやら唯一トレードが好きだから、ひたすらトレードしてるかなぁ。

最近は大自然の中で農作業が主です。生きることは難しい。

久しぶりに東京都心に行ってきた。


7月19日、参議院議員選挙の投開票日の前日。


この日は都心が選挙祭りになるはずであり、街の至るところでマイクの音が鳴り響く。


街頭演説を聞きに行くのは、完全に有名人を一目見たいからだ。ぶっちゃけ政治的主張は何でもいい。とりあえず有名人が現れる場所を狙っていく。



午前、秋葉原。


どうやら社民党から出馬するラサール石井が演説するらしい。


と思っていたら、裏金議員で有名な杉田みおが現れた。


杉田水脈は自分の中では一応有名人なので、スケジュールを変更して杉田水脈の演説を聞くことにした。というか炎天下だったし移動したくなかったので、ラサール石井へ行くんだったら来てくれた杉田水脈でいいやという思考だ。


だけど杉田水脈が演説する前に、何人も応援する人の演説があって7人目くらいで暑いし飽きてしまった。みんな同じことしか言わないし。


しかも自民党という看板を付けている限りは、大したことも主張できないようで、勢いで叫ぶしかないノリであり、話す内容は薄い。


秋葉原を後にする。


お、どうやら銀座で小泉進次郎が応援演説に登場するらしい。選挙区候補の主役(武見敬三)には興味がない。


完全に小泉進次郎を一目見たいがために銀座へ。


会場は警察が大量に動員されて殺伐とした雰囲気でピリピリしている。厳つい顔つきのSPが立ちはだかり、あんなのと喧嘩したら絶対的にぶっ飛ばされる。


聴衆一人ひとりを金属探知機でボディチェックし、手荷物検査をする。飲み物をスタッフの目の前で一口飲むよう強制され、それを通過した人には赤丸のシールを服に貼り付けられる。


というようにセキュリティが厳重である。


やはり小泉進次郎は人気がある。


進次郎の発言

「今の自民党は確かにダメなところはある。しかし、野党の政策を聞いても任せられない。だから自民党にやらせてください!」


という、「…その論理はバカなのかな?」と思いながらも、とりあえず進次郎はアイドルなので中身のない演説でも構わない。それが売りだから。


とりあえず彼は四六時中手を振り続け、聴衆に応えていた。


(ちなみに杉田水脈も武見敬三も落選した。武見敬三は政界引退することに)


小泉進次郎を見たら満足し、直後に同じ銀座交差点に百田尚樹が現れる。そう、日本保守党だ。


間違いなく自民党の演説よりはまともなことを話すので、思わず拍手してしまう自分もいた。


百田尚樹さんをあまり知らなかったが、かなりおもしろいオッチャンだった。女性候補者の有本香と選挙カーの上で漫才ばかりしていたなぁ。


(日本保守党では北村晴男さんが当選した。)




そして、いよいよ今日一番の目的地へ。


東京タワーがすぐそばにある芝公園へ。


そう、過激な発言と噂を耳にした神谷宗幣率いる参政党だ。どうやらこの選挙期間中に支持率が爆上がりしているらしい。そしてアンチの数も比例するように増え、演説の妨害をしているようだ。


参政党のマイク納め会場は芝公園だったのである。


僕はその様子を見にきた。


演説開始する1時間前に着いたんだが、会場は人々でごった返る。


「お、さっそくアンチがやってる」


プラカードを掲げていて罵詈雑言もほとばしる。


いよいよマイク納めがはじまる。


しかし、アンチが視界を塞いでおり全く登壇者が見えない。


進行していき、大トリの神谷宗幣が演説するときにはアンチたちのボルテージも最高潮に達していた。


会場では比較的前の方で聞いていたんだけど、結局アンチたちのせいで演説した人を誰も見られずに終わった。


もう音声しか聞こえなくて、それでも聴衆は『さや』コールや『参政党』コールで随所に盛り上がった。


演説終了後、会場に1時間くらい居残ったが、支持者とアンチの小競り合いが同時多発で勃発する。そうSNSで見かけるような、あの動画である。


「うーん…もし俺がアンチだとしてもシュプレヒコールを上げるのはメンドウだな」


選挙期間中には参政党が過去に出版した本のなかに『発達障害など存在しません』という趣旨の文が話題になっていた。


今現在、障害福祉のサポートを受けている当事者として、もし『発達障害は存在しない』となると困るのは自分なのだが、もう生きることに疲れた。


俺の人生はエクストラステージだ。

正直、いつ人生が終わっても構わないので、破滅するときは破滅してもいいんじゃないかと思う。


それほどまでに生きることには疲弊し、日本の政治に熱を上げるとするならばカワイイ姪がいるから。

カワイイ姪たちの世代、また次の世代のために。

ロスジェネ、障害者の私はどうなってもいい。


ハッキリ言うと、ロスジェネはもう子どもを産めないし、今さら感があり手遅れなのだ。子どもを産み人口を増やすなら20代の若者へ手厚いサポートを望む。


参政党よ、『日本人ファースト』を頼むぞ。

(ちなみに参政党の情報を調べたら、外国人を『差別』はしていない。あくまで日本人から潤すべきという『優先順位』という話である)


ちなみに芝公園には当日2万人が集まったとのこと




あぁ、疲れたけどオモシロイ1日だった。


あ、チームみらいもオモシロそうだったんだよな。20年後、30年後にはAIを駆使した社会で生きるのもオモシロイよなぁ。その頃には俺は死んでいるかな




無職になって5年が経つ。


早期リタイアといえば聞こえが良いが、個人的には働く人生が良かった。


生まれてこの方、金持ちになり悠々自適な暮らしとかに憧れを抱いたことがない。


なんせ趣味というものがないから、働かないライフスタイルを選択したからといって特に何にもすることがないし、やりたいこともない。


なんとなく村の手伝いをして時間を潰すしかなく、ふとしたときに心を掘り下げたら本当にタヒにたくなる(しかも村の仕事とはいえ、やはり自閉症状の影響のせいかロクに仕事ができない)。


何にもやることがない日は、目的地もなくひたすら電車に揺られたり、または眠剤をODして強制的に眠るようにしている。


早く時間が過ぎ去り、老化してタヒ期を早めるよう努める。


ASDの人生は、ホントに詰んでると思う。


障害福祉の世界ではキレイごとは幾らでも言える。しかし当事者として経験しなければ痛感できないことが多すぎて「どうやって生きていけって言うんや」とか「人生オワタ」勢が多い。


2ちゃんねるではガチもんの当事者の声が聞けるのだが、「そうなんだよな…」と共感しかない。


どうやら健常者は「障害者は障害年金もらえるから良いな〜」みたいなことを言うらしいが、そんなことを言う奴には「だったらガチでこの脳ミソで生きてみるか?」と言いたい。


生まれながらに定型発達になって人生を歩めるならば10億円払ってもいい。100億円でもいい。今は40歳を超えた年齢なら、恋愛も婚期もキャリアアップもどうでもいい年齢なので3億円くらいでいいかなと思う(もちろん換価では表せないほどだが)。


働いてた頃は、ホントに虚しさしかなかった。毎日忙しく働いても、不思議なことに周りの同僚はキチンと恋愛や旅行やらプライベートが充実した休日を過ごせるのに、自分は仕事がある平日はおろか、休日にはまったく動けずに1日が終わってしまう。


そんな日常で自分には恋愛や結婚などライフイベントを経験できる気配がまるで感じられず、周りの同僚たちはそれを経験していく。


社会人してるのに、まったく社会とマッチングしない寂しさや孤独感は痛烈だった。


障害者が働くって、仕事上の報連相やマナーやら能力が語られるが、こんな風にライフイベントを経験できない寂しさなどは語られない。個人的には仕事よりもこれが辛すぎた。


「なんのために生きてるんだろうな…」


毎日毎日残業が当たり前で夜中に勤務が終わる病院で勤めて、しかもちょっと組織では上の立場だったから責任を負われ、あれこれ走り回って仕事しても虚しさや寂しさで涙が流れてくるし、終いには何にも感じなくなって無になり、心身が破綻した。


その後、障害者用の職業訓練校に通っても、仕事上のマナーやスキルを養うだけ(当たり前だけど)。


「こっちは20年も社会人やってるんですが…」という気持ちは黙殺し、だけど国のカリキュラムに従うしかない。義務教育しか受けてこれなかった周りの障害者は20代くらいの、なんなら引きこもり出身の人も珍しくないから仕方ない。まったく同じカリキュラムを履修する。「いやいや、入校する前に職務経歴書提出したやんけ…」と思いながら、初歩的なビジネスマナーを学ばされる。


就職できたところですぐ離職する人種だし、「就職させる意味ないやんけ」と馬鹿らしいと思いながら通学した。


だったら職業訓練校では生活保護の正しい知識の普及や行政の“窓際作戦”に対抗できる受給のノウハウを教えたほうが良い(もはや『職業訓練校』の意味を成していないが)。


障害者が『働く』ということ。


これは世間的には賃金が上がらない社会構造の中で、働きたくない人たちがFIRE目指すとか何とかって言われてるが、それでも働く素質のない我々障害者からすればどれだけ健常者が羨ましいことか。


歯の浮くような甘美な言葉で喧伝される障害福祉界を眺めると、当事者たちは「またアイツらキレイごと言ってら」と思いながらも今日も社会の片隅に追いやられ、肩身の狭い暮らしを余儀なくされるのである。

最近は自閉症状が悪化しているのを感じる。


生まれて以来、この脳みそとしか付き合ってきた経験しかないので、もうその中での波の調子は察知できる。


もちろんベースとして普段から自閉傾向があるが、それがなぜか強めに出るときと弱めに出るときがあり、今は強く出る時期である。


周りの人からのフィードバックがあれば、なお分かりやすい。


仲良くしていた健常者から、少し煙たがれている。週1・2日でバイトしていたところで1年以上働いていたが、悪い波がきてからダメになった。


こうなってしまった場合は、即他人と会わないようにするのが重要である。


お互いに陰性感情を抱いて関係性が破綻してしまう前に距離を置くのだ。


これは障害者側の礼儀やマナーと言えるかもしれない。


クールダウンの期間を設けると表現してもいい。


そしてそのまま二度と会わなくてもいい。


ここで肝要なのは、障害者側はあれこれ理解してもらおうと行動したら余計に事態が悪化する一途である。お互いにとって悪くなる。これは人生で幾度も経験した。


経緯は省略するが、結論「違う生き物だから、お互いに住む環境が違うから共存はできないね」というだけである。


これ以上あれこれするとお互いが消耗し疲弊し、本当に何も建設的なことを生まない。


世間的には障害理解だとかいうんだけど、ぶっちゃけあんな指南は役に立たないのは幾度も経験済みである。


障害は理解してもらえないんだから。


たとえばわかりやすく車椅子生活になったとする。健常者は「大変だな」とは思うが、行動的体験を積んでないので生活が具体的にどう不自由かなんて想像ができるわけがない。それを具体例を示し納得できたとしても、障害を抱えて一生涯を過ごすことの心理や苦難なんて理解できないだろう。それが発達障害みたいな目に見えない障害だと尚更理解できるわけがない。


わざわざ社会は少数派の人を理解していこうと思わないし、もし理解する必要があるなら家庭にそういう人がいた場合だろう。


まったくの他人を理解する時間があるなら、社会活動をしていたほうが良いと思う。


健常者「理解しよう」

障害者「理解してもらおう」

これは不毛な試みだとも思う。


共生社会、ダイバーシティ、インクルーシブだとか障害に対しての歯の浮くような言葉の数々には本当にナメたこと言ってんじゃねぇよと思う。


『障害』を『障がい』と表記するのも心底どうでもよい。当事者側からすれば「そんなの何の意味あるんや?それで差別が解消されるんかい?」と言ったところだ。


健常者と障害者が共生なんかしたら、イジメやら虐げられる構図になり、余計に障害者は生きづらくなってしまう(もちろん健常者側に適応したい障害者がいても、それはそれでいい)。


棲み分けが必要なのだ。

人間は空気中で生き、魚は水中でしか生きられない。


自分はある種、優生思想には賛成派である。わざわざ障害者に対して去勢手術を施す必要はないが、弱者は放っておいてもいい。


自然界と同じ道理で、別に強い弱いとかじゃなく、その時代の技術や価値観で適者生存のサイクルに合致したなら生きるし、漏れたら淘汰されるというだけである。→それが人間語で「強い」「弱い」と表現されるだけ。


人間は疲れる。


思考にアイデンティティを付与しているので、生物として本来の生き方から逸脱してしまうのだ。


俺も含めて。


無為自然に生きたい。無為自然にタヒにたい。

「みんな◯ぬときは、巨大隕石落下とかの巨大地震やら津波で壊滅的に人類が消滅しないかな」


とか自分は直接手は下さないけど、自然現象を利用した大量殺戮を願うことはある。


もちろんその被害者には自分も含まれる。


そう、生きるのがツライのだ。


かと言って、今の日本社会では安楽タヒは許されていないし、自◯も許されていない。


生きていたくないのに、生きろという強制力はウザったいものがある。


原因はわかっている。


あまりにも人間界で生きるのには向いていないからだ。俺と同じASDのオランダ人の20代の女性が「タヒにたくはないけど、生きることに向いていない」という理由で安楽タヒをした。


このニュースを聞いたのは3年くらい前だが、正直羨ましいと思った。


日本でも安楽タヒは合法化されてほしい。


看護師として勤めてたときも、寝たきりの意思表示できない患者がいて、家族が疲れ果ててしまい「もうタヒなせてやってくれませんか?」と言われたこともある。


家族側からすれば医療費はかかるし経済的な負担も限界にきていたらしいけど、そんな寝たきりの患者と何年も付き添わなきゃならない労力。


しかも、家族なんてみんな仲が良好なわけもなく、仲の悪い間柄の片割れが寝たきりになったとき、家族側が虐待をするという現場も目の当たりにしたこともある。


看護師の立場だから現場で「タヒなせてあげましょうね」なんて口が裂けても言わなかったけど、内心「タヒなせてやれよな」と思っていた。


そもそもなぜそんなに生きることを執着したり、甘美な言葉で表現するのかが不思議である。


俺なんて「生きてきたなら、いつかタヒぬから別にそんなもんじゃね?」というあっさりとしたものだ。


「生きることを肯定したなら、死をも肯定しなきゃ意味が破綻してね?」と思っていた。


生死は対極にあるもんじゃなくて、表裏一体なんだから。


実は都市伝説界隈のコロナワクチンで人口削減計画を企てる話も「そりゃあ、地球上に住める面積なんて限られているから、どっかで人口は減らさないといけないよなぁ」とも思ってたし、地球上には無限に人口が増えていけるわけがなかろう。


だから権力者側が人為的に人口を操作するのも当たり前なんだろうなとしか思わない。


とにかく自分はある種の破滅主義者なので、この先の日本は自民党が牛耳ってどこまでギリギリ日本を苦しめていけるかの世界線も見てみたいし、または山本太郎みたいなれいわ新選組が政権を握り、真逆の政策で国を変える世界線も見てみたい。


とにかく日本が良くなろうとも、発達障害者の自分には恩恵を受ける世界は想像ができない。


過去の記憶にいつまでも苦しめられるし「もう勘弁してくれよ」と思い、はやくタヒにたい。


もし生まれ変わるなら、定型発達脳(健常者)に生まれて、毒親育ちではない家庭に生まれて、キチンと恋愛して、好きな人とセックスして人並みの健全な感情を味わいたい。それだけしか望んでいない。この望みが一般的にはどれほど『一般的』なのか、その隔たりが社会を知れば知るほどに絶望的なまでの期待して生きてきた自分の歴史に発狂してしまうのだ。


硬いコンクリートに頭を狂い叫ぶほど殴打したり、前腕を噛み砕き血が滴るほどに苦悶したり、この体験は同胞じゃないと理解なんてできるわけがない。

なんか、アラフォーになってから法律というものに興味を持ちはじめた。


きっかけはシェアハウスの現住人や元住人にいろんな境遇の人がいたからだ。


元住人のなかには、犯罪者だったんじゃないの?という疑いの人がいてコミュニティが荒れたり、行政から保護されないと生活ができない人がいたり、いきなり偏屈なジジイが住みはじめて早朝から騒音を立てたり、言葉巧みに自己利益に誘導したりする詐欺師がいたりとトラブル続きだったためか、なぜか実際に自分が警察や自治体に足を運んだ経験をしたからだ。


こういう経験っておもしろい。その渦中の被害者であるときにはツライのだが。


この歳になるまで気付かなかったが、法律は言語的能力が高いASD脳にはピッタリなんじゃないかと思う節がある。


なんか芋づる式に論理で構成されていて、その体系化された図解に当てはまるところが素晴らしい。


法の種類、法の解釈、法の適用…こんな風に成り立っていたんだなと感心させられて、さらに関心を抱いてしまう。


義務教育では道徳の授業があったが、はっきり言えば法律を学びたかったなとも思う。


そもそも道徳なんてのは「学ぶ」という外発的な要因で育つもんじゃなくて、経験とかして内発的な要因で育てるものだろう。


「道徳を学ぶ」って意味がわからない。

奴隷化教育かよ。


言語的IQが高いからか、言語を追うのは全然苦にならない。むしろしっくりくる。


法律のルールには慣れてないだけで接触頻度を上げていけば馴染んでいくし、今現在は法文を読みづらいと思っているがすぐに問題ではなくなるだろうと思う。


なんか完全にルール化されてるし、体系付けられている世界で曖昧なものがないので、ASD人にはフィットするんじゃなかろうか。


しばらくは人生の暇つぶしになりそうで良かった。