最近は自閉症状が悪化しているのを感じる。
生まれて以来、この脳みそとしか付き合ってきた経験しかないので、もうその中での波の調子は察知できる。
もちろんベースとして普段から自閉傾向があるが、それがなぜか強めに出るときと弱めに出るときがあり、今は強く出る時期である。
周りの人からのフィードバックがあれば、なお分かりやすい。
仲良くしていた健常者から、少し煙たがれている。週1・2日でバイトしていたところで1年以上働いていたが、悪い波がきてからダメになった。
こうなってしまった場合は、即他人と会わないようにするのが重要である。
お互いに陰性感情を抱いて関係性が破綻してしまう前に距離を置くのだ。
これは障害者側の礼儀やマナーと言えるかもしれない。
クールダウンの期間を設けると表現してもいい。
そしてそのまま二度と会わなくてもいい。
ここで肝要なのは、障害者側はあれこれ理解してもらおうと行動したら余計に事態が悪化する一途である。お互いにとって悪くなる。これは人生で幾度も経験した。
経緯は省略するが、結論「違う生き物だから、お互いに住む環境が違うから共存はできないね」というだけである。
これ以上あれこれするとお互いが消耗し疲弊し、本当に何も建設的なことを生まない。
世間的には障害理解だとかいうんだけど、ぶっちゃけあんな指南は役に立たないのは幾度も経験済みである。
障害は理解してもらえないんだから。
たとえばわかりやすく車椅子生活になったとする。健常者は「大変だな」とは思うが、行動的体験を積んでないので生活が具体的にどう不自由かなんて想像ができるわけがない。それを具体例を示し納得できたとしても、障害を抱えて一生涯を過ごすことの心理や苦難なんて理解できないだろう。それが発達障害みたいな目に見えない障害だと尚更理解できるわけがない。
わざわざ社会は少数派の人を理解していこうと思わないし、もし理解する必要があるなら家庭にそういう人がいた場合だろう。
まったくの他人を理解する時間があるなら、社会活動をしていたほうが良いと思う。
健常者「理解しよう」
障害者「理解してもらおう」
これは不毛な試みだとも思う。
共生社会、ダイバーシティ、インクルーシブだとか障害に対しての歯の浮くような言葉の数々には本当にナメたこと言ってんじゃねぇよと思う。
『障害』を『障がい』と表記するのも心底どうでもよい。当事者側からすれば「そんなの何の意味あるんや?それで差別が解消されるんかい?」と言ったところだ。
健常者と障害者が共生なんかしたら、イジメやら虐げられる構図になり、余計に障害者は生きづらくなってしまう(もちろん健常者側に適応したい障害者がいても、それはそれでいい)。
棲み分けが必要なのだ。
人間は空気中で生き、魚は水中でしか生きられない。
自分はある種、優生思想には賛成派である。わざわざ障害者に対して去勢手術を施す必要はないが、弱者は放っておいてもいい。
自然界と同じ道理で、別に強い弱いとかじゃなく、その時代の技術や価値観で適者生存のサイクルに合致したなら生きるし、漏れたら淘汰されるというだけである。→それが人間語で「強い」「弱い」と表現されるだけ。
人間は疲れる。
思考にアイデンティティを付与しているので、生物として本来の生き方から逸脱してしまうのだ。
俺も含めて。
無為自然に生きたい。無為自然にタヒにたい。