最近は心がツライ 生きることは憂鬱 | ASDの中年男性の人生の生き方。ときどき投資。

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シェアハウスで社会不適合者たちと暮らしています。発達障害(ASD)だから社会に適応できません。どうやら唯一トレードが好きだから、ひたすらトレードしてるかなぁ。

最近は大自然の中で農作業が主です。生きることは難しい。

「みんな◯ぬときは、巨大隕石落下とかの巨大地震やら津波で壊滅的に人類が消滅しないかな」


とか自分は直接手は下さないけど、自然現象を利用した大量殺戮を願うことはある。


もちろんその被害者には自分も含まれる。


そう、生きるのがツライのだ。


かと言って、今の日本社会では安楽タヒは許されていないし、自◯も許されていない。


生きていたくないのに、生きろという強制力はウザったいものがある。


原因はわかっている。


あまりにも人間界で生きるのには向いていないからだ。俺と同じASDのオランダ人の20代の女性が「タヒにたくはないけど、生きることに向いていない」という理由で安楽タヒをした。


このニュースを聞いたのは3年くらい前だが、正直羨ましいと思った。


日本でも安楽タヒは合法化されてほしい。


看護師として勤めてたときも、寝たきりの意思表示できない患者がいて、家族が疲れ果ててしまい「もうタヒなせてやってくれませんか?」と言われたこともある。


家族側からすれば医療費はかかるし経済的な負担も限界にきていたらしいけど、そんな寝たきりの患者と何年も付き添わなきゃならない労力。


しかも、家族なんてみんな仲が良好なわけもなく、仲の悪い間柄の片割れが寝たきりになったとき、家族側が虐待をするという現場も目の当たりにしたこともある。


看護師の立場だから現場で「タヒなせてあげましょうね」なんて口が裂けても言わなかったけど、内心「タヒなせてやれよな」と思っていた。


そもそもなぜそんなに生きることを執着したり、甘美な言葉で表現するのかが不思議である。


俺なんて「生きてきたなら、いつかタヒぬから別にそんなもんじゃね?」というあっさりとしたものだ。


「生きることを肯定したなら、死をも肯定しなきゃ意味が破綻してね?」と思っていた。


生死は対極にあるもんじゃなくて、表裏一体なんだから。


実は都市伝説界隈のコロナワクチンで人口削減計画を企てる話も「そりゃあ、地球上に住める面積なんて限られているから、どっかで人口は減らさないといけないよなぁ」とも思ってたし、地球上には無限に人口が増えていけるわけがなかろう。


だから権力者側が人為的に人口を操作するのも当たり前なんだろうなとしか思わない。


とにかく自分はある種の破滅主義者なので、この先の日本は自民党が牛耳ってどこまでギリギリ日本を苦しめていけるかの世界線も見てみたいし、または山本太郎みたいなれいわ新選組が政権を握り、真逆の政策で国を変える世界線も見てみたい。


とにかく日本が良くなろうとも、発達障害者の自分には恩恵を受ける世界は想像ができない。


過去の記憶にいつまでも苦しめられるし「もう勘弁してくれよ」と思い、はやくタヒにたい。


もし生まれ変わるなら、定型発達脳(健常者)に生まれて、毒親育ちではない家庭に生まれて、キチンと恋愛して、好きな人とセックスして人並みの健全な感情を味わいたい。それだけしか望んでいない。この望みが一般的にはどれほど『一般的』なのか、その隔たりが社会を知れば知るほどに絶望的なまでの期待して生きてきた自分の歴史に発狂してしまうのだ。


硬いコンクリートに頭を狂い叫ぶほど殴打したり、前腕を噛み砕き血が滴るほどに苦悶したり、この体験は同胞じゃないと理解なんてできるわけがない。