保江邦夫先生が実践しているキリスト活人術について記述されている著作だけれど、完成に至るまでの摩訶不思議な経緯を読むと、保江先生ってやっぱり本質的に「愛」の人なのだということがよくわかる。深見東州先生からセミナーなどを通じて「かんながらの道」を習った時、全ての基礎は「愛念(あいねん)」であることを学んだけれど、保江先生は、同じことを「愛魂(あいき)」と表現している。「愛念」と表現すると「心の世界」という感じだけれど、「愛魂」となるとダイレクトに「魂の世界」である。本書を通読すれば、「合気(道)」の本質は「愛魂(あいき)」だということがよく分かるし、これに付随して日常生活で役立つことがたくさん記述されている。2013年3月初版。

 

 

【2012年12月22日】

 昨年の十二月二十二日をもって、すでに世界は極端な変貌を遂げてしまったのですが、その事実に気づくことができている人は決して多くはありません。(p.4)

  この年月日は、いわゆるアセンションが起こるとされていた日。物質的な次元では何も起こらなかったように見えたけれど、「本当は圧倒的な差異が存在している」と書かれている。

 例えば、以下のように。

 

 

【認識を変えていけば、過去の既得事実も変えることができる】

 数学の分野の概念を持ち出して申し訳ないのですが、複素関数論という古典的数学に登場する「リーマン面」という概念に例えると、・・・(中略)・・・、一つの平面上を動き回っていたと思ったら、いつのまにかその平面とは原点や直線上でのみ接している別の平面の上にいたという話なのです。その異なる複数の平面をつなぎ合わせたものが「リーマン面」にほかなりません。(p.5)

 2012年12月22日 に「アセンション」または「シフト」が起こると言われていたことを、物理学者である保江先生は、「リーマン面」という用語で、このように表現している。

 すでにリーマン世界とも呼べるほどに有機的で多様な側面を示す我々の世界においては、今このときに、我々の認識を変えていけば、未来での世界の様相が変わっていくだけでなく、過去における世界の既得事実までをも変えることができるのです。(p.6)

 「今このときに、我々の認識を変えていけば」とあるけれど、具体的に言うなら、「時間は、過去から現在そして未来へ流れる」という地球人にとっての根深い“当たり前じゃん”・“当然じゃん”という時間に関する認識、この認識を変えていけば、ということ。

 《参照》  【バシャール】 ワクワク 無時間のセオリー

 中今に織り込まれている並行世界(保江先生の表現ではリーマン世界)に、時間の過去や未来はない。故に、新たな過去や未来を想定すれば、そのような並行世界をランダムに体験することができる。地球人に特有な直線的時間意識を堅持して、従来通りの過去や未来を想定したいなら、想定したなりの並行世界を体験することも可能。このことは、下記リンクにも書いておいた。

  《参照》   『キミノ名ヲ。』 3巻 梅谷百 《後編》

            【歴史を書き換える】

 

 

【人は何に感動するか】

 私が武道の奥義を追い求めるなかで、心の奥底に長年抱いていた疑問があります。それは力のある特定の人だけができて、それ以外の人には絶対できないという世界に生きること、そしてそれに優越感を感じること ――― そうしたことへの疑問でした。

 ところが愛魂上げをすることで、意図せずして、そうした特別な世界に決別することができたのです。

 人は何に感動するか。「自分だけができる」という優越感にではなく、「自分ができたことは他の人にもできる」という事実に対してです。それこそが真の喜びであり、感動です。自分だけが特別だといった自慢は、感動に値しません。あなたより強いとか、自分だけができるとか、自分は上でほかの人たちは下だとか、そんな小さな価値観にとどまる古い世界は、もう終わったのです。(p.30-31)

 保江先生が指導する道場の月謝は僅か千円で入会費もないらしい。これも、経済的に大変な人であっても誰もができるようになる場を提供しようとする先生の一貫した愛のある運営方法の表れだろう。

 スピリチュアルなマーケットにおいて、裕福な人しか出られないような高額なセミナー参加費を設定している方々はテンコ盛りいるけれど、スピリチュアルな能力において保江先生の実力・実績に遠く及ばない人々が殆どだろう。オープンな愛は口先だけで表現し、実践においてはクローズドな経営意欲が先行するような人々ばかりである。それで本当に積徳が可能なのか? 救済どころか劫の累積が上回り、アセンションどころか自縄自縛のディセンションベクトルに乗ってしまっているだろう。

 優越感に依拠するあり方は、進化してゆく生き方として本質的な過ちであり、どうあがいたところで、周波数の上がりつつある今後の世界では、自縄自縛をもたらすこと以外の何物でもない。

   《参照》  『戻ってきたアミ』 エンリケ・バリオス (徳間書店)

             【やっかいなもの】

 すでに地球世界は、オープン・イノベーションを基調とする潮流になっている。

 

 

【左脳ではなく右脳】

 要するに「かむながらの道」としてあるもの、神様の技のようなものを伝えるには、魂を解放させる何かが必要なのです。その時に初めて、左脳ではなく、右脳を通して伝わるものがあるのです。

 ・・・・・(中略)・・・・・言葉で伝えようとし、それを言葉で受け取ろうとするとき、多くの人は左脳を使います。言葉の講義だけでは、やはり右脳の世界は伝わりにくいというのが事実です。(p.35)

 宗教にも顕教と密教があり、経典に依拠する顕教は左脳(言葉)で学ぶもの、儀軌を中心とする密教は右脳(実技)で学ぶものということができる。しかし密教とはいえ経典や儀軌に記述された文言をいくら左脳で理解して精緻な言葉で表現できたとしても、それでは何の意味もない。密教で行われている伝法会の本質は寝ている間に伝授されているのではないだろうか、とチャンちゃんは思っている。本人は伝授されたことを、その時、自覚していない(記憶がない)のである。

 世界は変わったと言いましたが、ここでもう一度言いましょう。左脳だけの世界はもはや終わったのだと。かつてキリストがまだ若い頃、ユダヤ教の教会に行って両替所などを壊して荒らしました。両替商もまた左脳の世界です。左脳の世界は一度壊して、そこから再出発する時期が今、到来しています。(p.35)

 ここに書かれている聖書の話しは、パリサイ(ファリサイ)人に対するイエスの行動であり、ユダヤ教の教会とは、モーゼのユダヤ教ではなく、ハザール人が信仰していたユダヤ教の教会のこと。ハザール人の信仰は「ゴイム」の思想を持つ残忍な「バビロニア・タルムード」をルーツとしている。左脳の世界を壊すとは、世界支配者(ハザール=カバール=国際金融資本家=イルミナティ=DS)たちを一掃することにもつながる。

   《参照》  『聖書の暗号は知っていた』 伊達巌 (徳間書店) 《中編》

           【ロスチャイルドの霊的系譜】

 「左脳≒経済」で、経済世界は、主に都市部に住む人々によって担われている。故に、地球善化の最適解・最速解は、「左脳の営為を止めること=経済を担う海岸部の都市を海に沈めること」 ではないだろうか。コロナ騒動は、テレワークという生活形態の転換を促しているけれど、地方に実家がある人々が失業することになったら、それを好機としてUターンすべきだろう。その機会を生き方を変える契機として活かせない人々は、都市部に住み続けることでみすみす海に飲まれてしまう可能性があるだろう。

 

 

【シスター渡辺和子】

 私の大学の理事長であるシスター渡辺和子は著名な方です。『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎)という著書がベストセラーになりご存じの方も多いと思いますが、2・26事件のときの教育総監渡辺錠太郎の長女で、目の前で父親が射殺されたときにかたわらにいた方でもあります。(p.44-45)

   《参照》  『置かれた場所で咲きなさい』 渡辺和子 (幻冬舎)

              【渡辺錠太郎・教育総監】

 この後、保江先生がシスター渡辺からたった一度だけ聞いたという修道院の話しが記述されていて、キリスト活人術の重要な骨子の一つとして説明されている。

 

 

【しもべになって何も考えない】

 その真意、「しもべになって何も考えない」の最も大事な場面は、死ぬ瞬間です。死ぬ瞬間に「思い残すことはないと思う」、あるいは「悔い改める」のは、どちらも考えています。

 では、どうすればいいのか。

 あなたの子供の頃を思い出してください。日が暮れるまで外で遊びまわり、遊び疲れて家に帰ってきて、こう言いませんでしたか。玄関を開け、

 「ただいま。お母ちゃん、おなかすいた!」

 それと同じことをするのです。死ぬときに無心に言うのです。

 「ただいま」

 これだけで誰でも天国に行けます。これは秘伝中の秘伝です。(p.54-55)

 カトリックにおける“しもべ”とは、“個を排して神に全託する者”のこと。

 自力本願ではなく、神に全託する他力本願。

 これこそが奇跡を招く右脳パワー全開の奥義ということだろう。

 蛇足ながら、浄土真宗のルーツはキリスト教(カトリック)のはず。

 

 

【日本の職人のすごさは・・・】

 日本の職人のすごさは器用さや努力だけではなく、そこに魂を入れていることです。入魂している。―― そこがポイントです。だからこそ物が活きます。包丁一本作る名人、それを研ぐ名人と、それぞれの世界に職人がいますが、その人たちはモノを活かすために長年努力を重ね、物を見事に活かしています。(p.59)

 日本刀の本当の凄さは、込められている魂を感じることでしかわからない。

 美術品として語るなら左脳で何とでも言えるだろうけれど、真贋を見分けるのは右脳のみ。

 神事において用いられる日本刀が、結びをなせるのは、そこに魂が入っているからこそ。

  《参照》  『人と神と悟り』 日垣の庭宮主 星雲社
           【剣による結び】

   《参照》  『大和的』 友常貴仁 (三五館) 《前編》
           【神器日本刀】

   《参照》  『絶筆 日本人への遺言』 草柳大蔵 海竜社
           【日本刀の文化性】

 

 

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