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  『アミ小さな宇宙人』 の続編。 読んでいて楽しいし、とっても有意義な本である。1996年7月初版。再読。

 

 

【文明人の三条件】
 アミは文明人と呼ばれるには、次の三つの基本的な条件を満たしていなければならないと言う。
 1つ、愛が、宇宙の基本法であることを知ること。
 2つ、国境によってバラバラに分裂している世界を、ただたった1つの国に統一すること。
 3つ、愛が、すべての世界機構の根本となっていること。 (p.14)
 この三大条件が成り立っていない世界は、必ずや科学力の猛威によって滅んでしまう。かつての地球上で、このような自滅が何度繰り返されてきたことか。
「ある世界が、その破滅から救われるための唯一の力が愛であると認識した時に、初めてその世界は生きのびることができる。文明の基本としての愛を認識できないでいる限り、その惑星は常に滅亡の危機にさらされるんだ。だってライバル意識や混乱が消えないからね。それが今、君たちの惑星で起きていることなんだ。このような危険な時期に、人類の救済に貢献する仕事ほど重要なものはないんだよ」 (p.205)

 

 

【思考の雑音】
「ぼくには他人が考えていることをキャッチできるという大きな欠陥がある。君たちはとてもよい未開人だから、考える時にものすごいボリュームの雑音を出す。ボリュームをいっぱいに上げたラジオの音を聞かないでいるというのはやさしいことじゃないよ。
 まだ、君たちには自分の思考を鎮めるってことを学んでいない。もし、その方法をわれわれが知らなかったとしたら、どうなると思う? テレバシーが発達しているから、聞こえてくる不協和音だけでもう耐えられない状態になるよ」 (p.194)
 「コロコロと変転極まりないから “心” という」 とよく表現されるけれど、思考(念)は本当に納まるところをしらない。雑音のような思念の停止というのは、瞑想の熟練者ででもなければそうやすやすとは出来ない。純化した思いに満たされるというのは意外に困難なことである。それほど地球人というのは、未開人ということなのである。

 

 

【 “移動する” ではなく “位置する” 】
「ベドゥリート、もし、れれわれの円盤の動く速さを計算しようというなら、それは時間の浪費だよ。われわれは即時に “位置する” んだ」
「でも、ほんの数分だとしても、ある場所から別の場所へ行くのにいくらか時間がかかっているじゃない。どうして少しも時間がかからないって言うの?」
「そうはいってないよ」
 アミは笑って答えた。
「そうじゃなくて、円盤は一瞬のうちに目的に着いてしまうんだよ。別の場所へ行くのにかかる時間は、この円盤の装置が目的地への距離や位置を測ったり、通常の “時間・空間とは異なる” 次元を通ってからいかに安全に目的地に現れるか、準備するためにかかる時間なんだ。わかる? だって隕石の通過するような所は避けないといけないからね」 (p.225-226)
 うん、よく分かる。
 宇宙船は “光速” で “移動する” のではなく、 “念速” とでもいう速さで “位置する” のである。それは、さながら荒唐無稽なアニメのような状況であるけれど、現在の地球の科学が遅れているだけである。

 

 

【アミの星】
 まるでおもちゃの世界を見ているようだった。
 そこは子供向けのアニメーションに出てくるような小人の町によく似ていた。色とりどりの鮮やかな色で塗られたきのこの形をしている家があるかと思うと、球体をして空中に浮かんでいる家もあった。(p.196)
 子供の頃、粘土で何か作るとなったら、きのこの家ばかり作っていたことがある。
 大人たちは、幼稚な子供たちと思って笑っているのだろうけれど、未開人類は大人の方である。

 

 

【戦争や不正といった悪を生みだしているもの】
「戦争や不正を生みだし、そして、それを許しているのは神ではなく、君たち自身だよ」 (p.213)
 戦争や不正を、善悪の二元の大元の神のせいにするのは、人間が編み出した二元論思考の詐術というべきなのだろう。
 繊細なる愛の波動の源である神そのものに、悪はない。魔(間)を忍び込ませたのは、どこまでも人間である。
   《参照》   『質問ありませんか 2』 五井昌久 (白光出版)
              【サタンとか魔って何?】
 

 

【やっかいなもの】
「最期に克服しなければならない欠点は、ちょうど、そのカメレオンみたいなヤツなんだ。それは精神的な高慢さ、あるいは精神的エゴという、進化の道をかなり進んだと感じている人を襲うとてもやっかいなものなんだ。とても見つけるのが大変なんだよ。でもその方法が一つだけあるんだ」
「その方法って?」
「誰かに対して、軽蔑を感じる時、その人のことを “精神的にあまり進歩していない” とさげすむ気持ちを抱くたびに見つけることができるんだよ。まさにそこに潜んでいるんだ。精神的エゴは、ともすると自分を進歩しているかのように錯覚させるんだよ。そして微妙に他人を軽蔑するようにさせる。でも真実の愛は誰も軽蔑しない。ただ奉仕することを望むのみ。そこにとても大きな違いがあるんだ」 (p.219-220)
 馬鹿にされるのは不愉快と思っていながら、人を馬鹿にしている自分に気付くことはしばしばあるけれど、それって自分自身の愛未満を自覚する時でもある。
 法華経の経典の中に 『常不軽菩薩品』 というのがある。その中には、経典を広める功徳ばかり書かれているけれど、本来は、愛を完成させるために 「我汝を軽しめず」 という 「不軽」 即ち、精神的エゴである軽蔑心克服の大切さを説いた内容なのであろう。
 ところで、軽蔑より露骨に表れやすい精神的エゴといえば、嫉妬の感情を想起するけれど、これを愛情表現の一側面と捉える人がいるから下記をリンクしておこう。
   《参照》   『不思議の科学』 森田健 (同朋舎)
             【嫉妬は愛情のバロメーター?】

 

 

【愛と執着】
「愛ゆえに母狼は、自分の子に危害を加えようとする者に対してより獰猛になる。人間も、一般的に言って自分たちの愛のためには他人に対して残酷になりエゴイストになる。こういった愛が戦争を生みだす。こういう愛がきみたちの世界をとても危険な状態にしているんだよ」
「いつわりの愛だね」
 と、ぼくは理解したつもりになって言った。
「いや、そうじゃないんだ。それも愛なんだよ。ただ低い度数の愛なんだ。われわれはそれを執着と呼んでいる。執着ゆえに、盗んだり、嘘をついたり、殺したりする。生き抜きたいというのは一つの愛の形だ。でも、ただ自分自身や自分の家族、小さなグループや自分の属している団体や党や派閥に対してのみだ。悲しいことに、そういった生き方のせいで、すべての人たちが命を失う寸前なんだ・・・それはみな過度の執着の結果なんだよ」 (p.235-236)
 キリスト教は、愛の度数にしたがって、エロス(男女の愛)、フィレオ(兄弟の愛)、アガペ(無償の愛)と使い分けている。
 仏教では、「タンハー」 という言葉が 「渇愛」 とか 「愛着」 と訳されているけれど、いずれも低い度数の愛の場合である。アガペに対応するのは慈悲なのであろう。
   《参照》   『人は生まれ変わる』   船井幸雄  ダイヤモンド社
            【魂が進化(アセンション)すれば・・・】

 愛の度数が低いままに、科学技術が進歩してゆくと、人類全体の生存が脅かされるようになる。現在の地球のように・・・。

 

 

【自然の定義】
 地球より進んだ文明についての話の中で・・・
「実はそれはなんと巨大な宇宙船のことなんだよ。それがもっとも優れた文明の形なんだ・・・宇宙に文明は数百万とあるんだよ」
 ぼくは、少し考えた後で言った。
「人工的な方がずっと優れているって・・・・よくわからないけど、ぼくは自然と一緒に生きるのが、一番進んだ生き方かと思っていたよ」
「人類が考え、作り出したもので、愛の法則に調和しているものは、みな自然なんだよ。人類が永遠の原理と調和して行動する時、宇宙のすべてが人類の資産となる。この資産はできる限りの想像力や技術を使って、幸福のために利用することができるんだよ。(p.242)
 「愛の法則に調和しているものは、みな自然」 この定義は素晴らしい。
 神道では 「自然は神なり」 と言うけれど、自然は愛の法則に則しているからこそ神なのである。
 人類が進化して本格的な宇宙時代に漕ぎ出すまでは、地球上の自然が大いなる鑑となっているはず。

 

 

    このアミ・シリーズの続編  ⇒  『アミ3度目の約束』

 

 

<了>