《前編》  より
 
 

 

【病気や怪我の素】
「人間は病気にかかりますが、肉体にその症状が出てくる前に、すでにオーラの部分に病変の情報が顕れます。それは怪我でも同じです。・・・中略・・・。病変の素になるものの代表が、意外にも『感情』なのです。
 例えば、喜びの感情はその人のオーラを輝かせるし、憎しみや怒りの感情はオーラを暗くし、くすませます。重く固まってしまうと、次第に肉体に現象化していくのです。オーラと人の感情は常にフィードバックし合っています。ですから、自分の考え方や感情に無頓着でいるのは、実はとても危険なことなのです。怪我はそれが一瞬で現象化したものと言えます」
「けが?」  (p.214)
 感情と病気の相関は認めやすい。
  《参照》  『世界は祈りでひとつになる』 白鳥哲 (VOICE) 《前編》
           【「感情」と「臓器」の関係】

 しかし、怪我も感情が素だと言われると、ちょっと理解しづらい。むしろカルマと言われた方が理解しやすいけれど、カルマも結局は感情が原因なのだということ。
 さっきも話したとおり、オーラには過去世の感情も書き込まれています。鋳型の方からすると、感情という点では過去からでも現在からでも同じ情報なのです。ですから、何も悪いことをしていないのに、どうしてこんなにひどいことになったのだ、と思われるような理不尽な出来事も、実は過去世の時の感情が引き寄せている可能性だって考えられるのです。そうすると、本人には自覚がないのに、ある日、突然に事故が起きて怪我をしたということに、説明がつくこともあるのです。それはカルマという言い方もされます。もし、怪我などが、同じ部位に何度も繰り返し起こるとしたら、それこそ、クライアントの過去世からの原因を調べる必要が出てくるかも知れません」
「それでは、オーラに現れた変化を直せば、病気は起こらないということですか」
 と、一人の者が尋ねた。
「可能性は高いですね。ですから、もっとこの分野の研究が進めば、予防医学はオーラの領域に踏み込むことになるだろうと思っています・・・中略・・・」 (p.214-215)
 オーラの鋳型(エーテル体やアストラル体といった、肉体の上位にある次元体)に現れている病気や怪我の素を「治せるかどうか」は、3次元の肉体を持つ重たい周波数の世界では、どうしても本人の「気付き」に大きく関与する。ヒーラーの能力の問題ではない。基本はあくまでも本人の「気付き」の問題。
  《参照》  『地球人革命』 松久正 (ナチュラルスピリット) 《前編》
           【人生の課題と病気の治癒】

 周波数が上昇しつつある地球とともに進化を選択する人は、未来医療のヒーリングが完備した側へ行くだろう。
  《参照》  『宇宙の魔法』 Alice (ヒカルランド) 《前編》
           【未来の医療とヒーリングのメカニズム】

 

 

【浄化方法】
 未来の医療とヒーリングが完備していない側を選択する人々、ないし、自らの魂のオデッセイを辿りたい人々は、従来(現状)通りの古典的な浄化方法で自己浄化することも可。
「悪い感情が積もり積もって、悪い方の連鎖反応を起こしているのが今の時代です。これが地球規模で積み重なっているのです。ですから、各々が自分の抱え込んだ悪感情に気づいて、浄化させる必要があります」
「その、浄化とはどうするのですか?」
「一番の早道は『感謝』です。ありがとうの心です。これには、ものの波動を一瞬にして正常にして輝かせるパワーがあります。しかし、この『ありがとうございます』と言える心を養うのがかなり難しい。」(p.216)
 『感謝』という基本が分っておらず修養未満の人は、「給料を減らすなら、働かない」という思考パターンをしているから、真っ先に解雇対象になる。そして、ローンと子どもを抱えている状態で解雇⇒生活に困窮⇒家族や近隣に当たり散らす⇒より一層の困窮、という悪しきサイクルに嵌り込んでゆく。「感謝」ではなく「恨み」がベースであり、「貧」すれば「貪」する、という分かり易い下り坂人生をまっしぐらに突き進むことになるだろう。
 意識の進化を、最低限度すら達成していない魂は、浄化方法など一考だにせず、困窮を窃盗で凌ごうとするから、カルマの深淵に深く沈むだけで、そこから出ることがない。
   《参照》  『誰も知らない開運絶対法則』 白峰・有野真麻 (明窓出版) 《前編》
             【ありがとうございます】

 

 

【オーラや夢に現れるシンボル】
 夢の解釈では、夢の中に出てくるものはすべてシンボル化されていると考えます。オーラに書き込まれている過去世も同じように、シンボル化されています。
 例えば、インターネットで調べ物をする時には、象徴するキーワードを組み合わせて検索をするよね。その検索する『キーワード』が、オーラの場合、『象徴的な形』をとっているわけです。『アイコン』と同じだ。
 言い換えればオーラにナイフのアイコンが描かれている。だからそのアイコンにアクセスすると、芋づる式に短剣を使った過去世が検索できる。そんなイメージだ。(p.234)
 潜在意識・深層意識の領域ってシンボルの世界。
 下記リンクにあるように、高次元世界は、形象としてしか存在できないのだということを知っておくべき。
  《参照》  『天河流動縁起』 祜松泰成 (コスモ・テン) 《後編》
           【サナート・クマラの神識体】

 

 

【魂が成長すると】
「今の話ですが、魂が成長すると武器を平和的に使うというわけですか?」
「そうです。ナイフを闘うためではなく、料理に使ったり、木を削って道具を作ったり。魂はそんな使い方を学びたいんじゃないかな。
 その点で、イルギーナがネイティヴ・アメリカンの時には白人の男を殺さずに、シャツを切るためだけに使ったというのは素晴らしい選択だと思う。もし、あの時に殺すために使ったとしたら、再び、アルク・コダイコの苦しみを味わうことになった。イルギーナの魂は同じ過ちをしなかった。相手の命を尊重して他の方法を選んだのだから、素晴らしいことだと思います。愛と平和は魂にとっては大切な価値観なのです。私たちがこの地球に生まれてくるのは、これを達成するためだと私は思っています」 (p.269)
 情報が伝わりやすい現代社会にあっては、ディスインフォメーション(偽情報)は、殺人以上のカルマを生む。
 進化未満の者は、自らの邪悪を隠蔽するために、事実無根の悪しき噂を流してまで他者を貶めることに情熱を傾けるけれど、その行為のどこが愛なのか。
 彼らがさらに深く魂のことを学べば、殺したい相手が自分の分身なのだということがわかるようになるだろう。
 この地球全体がワンネスであるということは、すべてが自分自身だということなのだ。・・・中略・・・。
 これは自ら発見しなくてはならないものなのだ。(p.271)
 スピ系を学んできた人々にとっては「そうだね」という記述であり、学んでいない人々にとっては、「なに言ってるの! ばかばかしい!」という記述なのかもしれない。

 

 

【『許し』を学ばないと】
 許せない心は新たな不幸を呼び寄せます。『許し』を学ばないと、魂は転生したあと、逆の立場を体験しようとするからです。両方を体験して、『愛』や『許し』を実践するのが魂の課題だからです (p.276)
  《参照》  『手紙』 日本映画
          【いろんな立場で学ぶ】
          【許すということ】
 結論を書き出してしまうのは簡単だけれど、本書を最初から食い入るように読んできて、カマラとイルギーナとリウ、3者にとって、殺す・殺されるという、それぞれの立場での心境を理解し、受け入れることができた人は、この記述に至って派手に泣き濡れてしまったことだろう。
 受け入れることができれば、カルマは解消される。
 ヒーリングの目的は、それまで気づけなかった自他すべての感情を知って受け入れることにある。
 但し、
 肉体を持って生きている人なら、退行催眠(ヒプノセラピー)というヒーリングが有効だけれど、肉体も持たない怨念霊さんが相手の場合、この方法は使えない。怨念霊さんが怨念を持つに至った原因は、怨念霊さん自身の過去世にあることを、怨念霊さんに見せてあげないと、なかなか改心できない。これが出来るシャーマンさんは、現在の日本に、どれほどいるのだろう。

 

 

【愛すると死が待っている・・・?】
「僕は愛すると死が待っている。そんな感じがする」
 女性に一番人気のあるリウが思いがけないことを言い出した。
「・・・中略・・・。僕は女性が好きだけど、愛すると恐れを感じてしまう。それが何なのか、ずっと正体を知りたかったけれど、今日のテーマの記憶の中の死について考えていたら、どうやら僕の中で死と愛がセットになっている感じだと思った。人を愛すると、僕の人生の先がないような。そんな感じだ。なんでだろう。だから僕は生きててもつまらない」(p.314)
 男女を問わず、リウと同じように感じている人は、少なくないのでは・・・と思ってしまう。
 数年前、スピなスクールに通っていて、帰りに喫茶店で「どうして結婚しないの?」と訊かれたとき、「お金がないから」と答えれば簡単だったけれど、スピなス―クールで出会った人にそんな答えは通用しないことは分っていたから、マジに「ヘミングウェイの『武器よさらば』って知ってる? 最後の結末。つらすぎるよねぇ」と応えたものだった。リウと全く同様に感じていたのである。
 たまたま多感な中学生の時に、この小説を読んだからだけなのか、それとも過去世に同様な体験があったからこそこの小説が強く印象に残ったのか、それは分らない。
 ただ、当時読んだ小説って、エリック・シーガルの 『ある愛の詩』 にしても、三浦綾子の 『氷点』 にしても 『塩狩峠』 にしても、悲しいエンディングのものばかりが、グサグサと心に突き刺さっているから、中学高校といった青春時代に、こんな悲しい小説を読むことって、すべての若者にとって、本当に良いことなのかどうか、かなり疑問だと、今も思っている。
 横道に逸れたけれど、この問題について、本書では
 愛すると死んでしまう宿命なのか。
 これはきっと、もっと深い所でこうなるカルマを作ったのだろうな。
 そこまでいかないとこの愛と死の連鎖は断ち切れないかもしれない。 (p.329)
 で終わっている。
 著者さん、続編を書いてくださいよ。

 

 

<了>