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 古事記に記されている神話の内容には、世界各地の神話と共通する部分がかなりあることは、よく知られているけれど、この本はそのような内容を記述したものではなく、文字や言葉に秘められた心や精神を読み解く内容になっている。
 「仮名」の意味(=「真名」)を理解しながら読み進めることが大切であり、それは著作全体の流れの中でよりよく理解できるように記述されているけれど、この読書記録はどこまでも部分の書き出しであって、全体の流れを忠実に再現などしていない。しかし、一番最後に、非常に重要なリンクをつけておいた。2013年3月初版。

 

【「やさか」と「いやさか」】
 「や」は「八」で、複数、多数、無限(∞)の意味。
 「さか」は、逆、境、裂、咲、栄など、活動や変化を意味する。
 「やさか」は、無限の【活動】や無限の【変化】を意味しますが、そこには活動する「何か」があり、変化する「何か」があることに気付いて下さい。
 その「何か」が【い】なのです。
 いのちの【い】、発展繁栄しようとする【意】です。
 この【い】をあえてハッキリと表面に出すときに「いやさか」となり、【い】が含まれていることを言葉として表面に出さなければ「やさか」となるだけです。 (p.152)
 神道の用語として「いやさか」を聞いたことがない人はいないだろうけれど、「さか」だけで「栄える」が想像できるから、「繁栄」の意味は想像できるけれど、「い」と「や」の意味は、学んでないと分からない。
 「いやさか」を単純に分かりやすく直訳すれば、「命、意欲、テンコモリ、栄えよぉ~~~」である。
    《参照》   『人類が生まれた秘密をあかす』 深見東州  たちばな出版
              【人類誕生の理由】

 

 

【左と右】
 日本民族は左を「上」とみなしています。・・・中略・・・。言語的な点で言うならば、左は「ひた」すなわち「直」という言葉から、右は「みぎり」すなわち「曲り」という言葉から来ています。
 「曲り」は悪いと言っているのではありません。
 「直」に従って、色々と働き助けるために曲がることになっているという意味なのです。
 日本では、左のために、右の方は色々と曲がることになっています。
 【いのち】の中枢である心臓が、ほぼ身体の「左側」にあるのも、これを思えば納得できます。(p.74-75)
 左は「霊たり」、右は「身ぎり」。日本は霊主体従の視点から「左」が上という説を聞いたこがある。
    《参照》   『美人のお作法』 友常貴仁 (インデックス・コミュニケーションズ)
              【左・上位】
 日本は「左>右」。ところが、西洋では逆。「左<右」である。
 日本民族は【一心同体】を大切にし、強い力というより、すべてを受け入れていく大きな優しい愛の心、つまり【和魂】を主としています。
 したがって、大きな優しい愛である左の方が主人公で、強い右のほうは優しい心持に従属して、それを助ける性質とみています。
 そのようなわけで、天照大御神は宇宙の左目から生まれ、月読神は右目より生まれたのです。(p.75)

 

 

【「奇魂:くしみたま」と「幸魂:さきみたま」】
 「くしみたま」は、漢字をあてると「奇魂」になりますが、この「奇」は当て字です。
 さまざまな個性・特質をもった独立した人々を、一心同体とするような不思議な効用をする魂であることから「奇」の字をあてたものと思われます。・・・中略・・・。
 「くし」は、物を統一しようとする働きをあらわす言葉です。 (p.78)
 髪をまとめ上げる時に使う「櫛」、神前に備える「玉串」は「魂のくし」の意味。
 「さきみたま」は漢字をあてると「幸魂」になりますが、この「幸」も当て字です。
 日本言葉としての「さき」は、内容を実現しようとする様子、数多く豊富となる様子、追進の様子をあわせ持った意味です。
 「さき」は、物を分裂・前身させる働きをあらわす言葉です。(p.79)
 実現の意味としては「咲く」とか「栄える」。豊富の意味としては「裂く」とか「割く」。追進の意味としては「崎」とか「先」。

 

 

【「荒魂:あらみたま」と「和魂:にぎみたま」】
 荒魂の作用・働きには二つの方面があり、それに名を付けて「くしみたま」「さちみたま」と呼んでおりますが、その実態は和魂です。(p.78)
 荒魂は、ものごとを豊富にし前進させ(さちみたま)、それらを統合して(くしみたま)成らすという二つの働きがあるということ。
 確かに、これらの実態は和魂である。
 荒魂は現実的な視点、和魂は精神的な視点での表現ともいえる。

 

 

【参上り(まいのぼり)】
 天に参上る時、山川悉に動(とよ)み、国土皆震(ゆ)りき。(p.81)
 須佐之男神が天照大御神に会うために行動を起こす場面が、上記のように記述されている。
 【参上り】は、神代の入り口であり、真の人生の幕開けであり、天孫天降りの糸口なのです。
 人の生活、人の悟りは、実に【参上り】のみが入り口なのです。
 大いなる全体繁栄という理想をめがけて、どこまでも進もうとする奮発心、これが【参上り】です。
 この【参上り】が、現実生活すべての根本となっております。(p.81-82)
 上記にある「天孫天降り」とは、「高天原」の理想がこの「現実界」に宿ろうとする「意識の作用」のこと。
 須佐之男神は「荒ぶる神」と表現されることがあるけれど、人は、荒魂を象徴する須佐之男神が【参上り】する時の心意気と同等であってこそ、すべての入り口に立てると言っている。
 簡単に言えば、「勇猛心が無かったら、人生の入り口に立てないよ」ということか。

 

 

【天の安の河】
 安の河の「安」は、漢字としては家をあらわす「うかんむり」の中に「女」という字を書いていますが、これは女性が仕事をせずに家の中に居るという表現で、ゆとりある様子や余裕の状態を意味しています。
 でも、日本民族の「やす」という言葉は「弥進」の義であり、「いよいよますます善くなろう」「いよいよますます素晴らしくなろう」という意気込みをあらわしているのです。(p.86)
 「安河」の「安」は、「弥栄に進む」という意味。
 「かわ」は【いのち】と同じで、ますます流れるけれども、消えてなくなってしまうことはありません。絶えず動いていても消えることがないのです。
 すなわち「かわ」は、動の極致と不動の極致が一つに融合した姿をあらわしており、国や町村や家々などを成り立たせている【いのち】を「かわ」と呼んでいる理由です。
 国や町村や家々は「安の河」であって、私たちがこれらと一つに融合していないときは、決して安らかな心には成りえないのです。
 その「河」に「弥進」という形容をつけたものが「天の安の河」なのです。(p.86)
 「ますます弥栄え進みゆく、国であり町村であり家々である」というのが、古事記にある「天の安の河」の意味するところであるなら、現在の日本はそうなっているだろうか。
 日本国政府は、「闇の支配者」の意向に則して、経済的な二極化を押し進め、徴税はますます苛烈になりつつあり、ワクチン接種などを通じて容赦なく日本民族の人口を削減しつつある。「ますます衰退してゆく、国であり町村であり家々である」というのが現実の姿だろう。これで一体全体どこが「天の安の河」なのか。

 

 

【天の安の河のうけひ】
 この大生命そのものである「弥進の河」を真ん中にはさんで、天照大御神は左岸に立ち、須佐之男神は右岸に立ち、男女の別を超越した誓いを行ったのです。(融合・統合)
 天照大御神は「現実界」の「荒魂」を受け取り、須佐之男神は「高天原」の【和魂】を受け取られました。
 つまり、あっぱれなる弥栄の【清明心】である【和魂】と、勇猛果敢に進もうという「荒魂」とが合一したのです。・・・中略・・・。
 天照大御神は【いのち】の輝かしさを象徴しています。
 でも、その【いのち】の【和魂】は、ただそのまま在るだけでは何も光らず輝きません。
 「現実界」(豊葦原)が【いのち】の表現の場だということを明確に認識し、その表現を実践行動していこうとする「荒魂」を用いてこそ、【いのち】は真に光り輝くことができるのです。(p.88)
 「天の安の河のうけひ」は、高天原(神霊界)の「和魂」と、豊葦原(現実界)の「荒魂」が融合・統合することで、顕幽一致が実現したことを言っている。
 須佐之男神の剣から生まれた三女神、天照大御神の勾玉から生まれた五男神という数字上の内容は、「天の安の河のうけひ」の本質には無関係であるらしい。下記のリンクの説によるなら、五男三女の内容は、換骨奪胎に近いデタラメな創作ということになる。
    《参照》   『「超古代」の黙示録』 後藤まさし (たま出版) 《前編》
              【「御難賛助」の誓い】

 

 

【「いふき」と「うけひ」】
 古事記には「気吹」とあるけれど、これを「いふき」ないし「いぶき」と読む。
 「ふく」は、風が吹く、息を吹く、火を噴く・・・中略・・・などの用い方があります。
 「ふく」の意味は、創造・生成・活動・発動ということになりますが、これは「産霊(むすひ)」の「むす」と大変似ている意味あいなのです。
 【いふき】は「い」の創造・生成・活動・発動のことですので、まさに森羅万象すべてがますます栄えて発展する様子のことです。
 【いふき】とは、「弥栄に向かう意」を全身全霊の命がけで発動することです。(p.157)
 「い」は「命」、「意」などの意味。
 「ひ」は「霊」、「火」などの意味。
 「いふき」によって、天照大御神の【ひ】が剣に「うけひ」され、見事に「生きた太刀」となったことから、結果的に、多紀理毘売命、市寸島毘売命、多岐都毘売命の三柱が「みこうみ」されました。
 つまり、「みこうみ」は、【ひ】の分裂増殖のことで、繁栄です。・・・中略・・・。
 このことは、天照大御神の【ひ】が、須佐之男神の質(特質)をあらわす太刀の中に見事に【み】を結んだことの証です。(p.158)
 「うけひ」は、「受け霊」。
 天照大御神の「いふき」を受けるという「うけひ」によって、須佐之男神の持つ太刀(質)から三女神が生れた。命が生まれたということは、「いふき」が生じたことになる。
つまり、「いふき」⇔「うけひ」。

 

 

【八意思兼神(やごころおもいかねのかみ):ことあげせぬ智慧の神】
 八意思兼神の「八意」とは「弥心」(イヤサカの心)、そして「思兼」とは、あちらもこちらも、あれもこれも、四方八方を全て兼ねて思い給う神ということです。
 詳しく表現するならば、万物・全体・全員(八百萬神)の思いを兼ねそなえて思慮し、これをあっぱれな弥栄【清明心】を通じて統一・融合し給う神なのです。(p.101)

 主に西洋では「主義」というのが盛んでございますが、・・・中略・・・「主義」「教義」というものは、とかく偏っており、片方の主義を主張すれば、もう片方の反対の主義をとなえる必要が起こり、無用なケンカを重ねていきます。
 「思兼神」は全てを兼ね思うことができる思慮の神であり、「ことあげせぬ智慧」の神でございます。(p.102)
 日本文化において「八」は、複数、多数、無数の意味だから、テンコモリの意見を兼ねて思うという、えらくシンドイというか、貴重なまとめ役の神様。
 布袋様も全体最適を旨とする日本神霊界に帰化すると、袋の中身が変わってくるらしい。
    《参照》   日本文化講座 ① 【 七福神 】
              【 布 袋 様 ( 男神:中国出身 ) 】 

 

 

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