《前編》 より
 

 

【オオカミ】
 6世紀後半になると今度は匈奴系の騎馬民族、「突厥」が北アジアに勢力を伸ばした。風俗、習性は匈奴に似て、日の出を拝み、天神を祭った。さらに突厥は狼を始祖、つまりトーテムと考えた。特定の動物を先祖あるいは神とする考え方は、多くの民族に見られるが。日本の秦氏も狼をトーテムとする中央アジア系の民族で、新羅と対馬経由で倭国に渡来したのである。実は日本語の「おおかみ」の語源も「偉大なカムイ(神)」だという。(p.54-55)
   《参照》   『古代日本人・心の宇宙』 中西進 日本放送出版協会 《前編》
              【聖なる動物たち】

   《参照》   『縄文八咫烏直系! 吉備太秦と世界のロイヤルファミリーはこう動く』 板垣英憲 (ヒカルランド)
              【夏⇒(秦⇒高句麗⇒新羅経由)⇒出雲⇒備中】

 

 

【日本と新羅の交流】
 かつての日本は、唐よりも新羅との交流の方がはるかに多かった。飛鳥時代から平安時代にかけての150年の間に、日本から新羅に派遣された使者は、記録されているだけでも31回。唐には10回だけだから、新羅には唐の3倍もの公式派遣があったことになる。さらに新羅から日本に来た公式の使いは45回で、唐からの使いは、たったの2回である。 ・・・(中略)・・・ 卑弥呼が新羅に使者を遣わしたことは、日本の史家から無視されている。(p.64)
 日本国内にこんなことが書かれている歴史書はないだろう。明らかに意図的に事実が隠蔽されているのである。

 

 

【新羅の文武大王と軽皇子(文武天皇)】
 大王は「東海の龍となって、国を倭寇から守る」という遺言を残して死んだとも言われているが、もちろん7世紀には、倭寇など存在していなかったのだから、これは数百年後の後世に創作である。しかし文武王が「東の海に姿を消した」という伝承が残ったのは、まぎれもない事実である。(p.66)
 半島を統一した功績によって文武大王と呼ばれる人物であるにもかかわらず、不思議なことに古墳も墓も残っていない。「水中陵」と称される海岸の岩場も伝承の類で、それを立証するものは何もないという。
 一方、倭国(大和)では文武大王が死んだとされてからしばらくして軽皇子(かるのみこ)が文武王として即位している。この軽皇子は、謎に包まれた人物で、いずこからともなく日本の歴史に突如として登場するのだが、正史においては、天武天皇の孫とされている。(p.67)
 軽皇子という名称を辿ってみると、
 三国統一に活躍した新羅の金庾信は、金官伽耶の建国王・金首露の12代目にあたる。半島を統一した新羅・文武王も、その甥であった。
 伽耶は古代日本の文献にはいろいろな名称で登場するが、韓(から)、軽(かる)、去来(かろ)、茅(かや)、賀陽(かや)、駕洛(から)などとも表記された。そして軽皇子は、「伽耶の皇子」を意味する。さらに駕洛国は亀旨(くじ)峰があったゆえに、「くじ」とも呼ばれた。(p.142)

 

 

【高句麗と日本】
 7世紀に高句麗が政治的に滅亡したことが高句麗人の渡来に拍車をかけ、東国に多くが定着。高句麗が滅亡して半世紀後の8世紀初頭には、高句麗から亡命した貴族や政府要人と家族ら約1800人が武蔵国に移され、高麗郡が置かれている。(p.116)
 武蔵国とは、現在の埼玉県と東京、そして神奈川の一部を含む地域。
   《参照》   日韓交流
             ■ 埼玉県の高麗神社 ■
 中でも高句麗人などの渡来人との関係がとりわけ深いのが長野県で、この地を開拓したのは高句麗人だった。駒ケ岳の「駒」は。高麗つまり高句麗のことである。 ・・・(中略)・・・ 。
 信濃(長野県)では、高句麗王族、貴族が改名を願い出て、日本風に ・・・(中略)・・・ 名乗るようになった。(p.116)
 改名の前後は『日本後紀』に書かれている。
 新羅や伽耶の王族たちは、対馬を経由して北九州に上陸し近畿地方などに住みついたのだけれど、高句麗の王族たちは、日本海の真ん中付近にあった島を経由して、新潟県付近に上陸し東国といわれた中部地方や関東地方に住みついたらしい。15~16世紀の古地図に記載されていた日本海の真ん中付近にあったその島は、地殻変動によって海面下に没し、現在は大和堆としてその痕跡を残している。

 

 

【製鉄技術が意味するもの】
 木炭による製鉄業は、常に森林の近くへと移動した。 ・・・(中略)・・・ 周辺の森林地帯を伐採してしまった伽耶人は、海峡を渡って木材の豊富な列島に大量に移住し、植民したのである。
 古代人にとっての鉄は、金銀に並ぶ非常に貴重な金属で、 ・・・(中略)・・・ 製鉄、冶金は特殊技術であり、その技術がもたらす恩恵は、経済的な局面だけにとどまらない。 ・・・(中略)・・・ 。ちなみに日本語の「かま」は純粋な韓国・朝鮮語でもあり、半島の釜山という地名も製鉄に関係する。(p.132-133)
   《参照》   日韓交流
             ■ 「釜山」と古代の日韓交流 ■
 燃え盛る火が、最強の武器と食糧増産をもたらしてくれると考えれば、製鉄技術は火の崇拝に直結する。つまし、拝火教(ゾロアスター教)と製鉄が、無関係ではないことも理解できよう。
 製鉄は王族の特権であると同時に、そのノウハウは国の重大な機密であり、王族と祭司の地位は不可分となる。新羅と伽耶の王姓が「金」であり、また一番有力な伽耶の都市国家が「金官」伽耶であったのも、製鉄に由来する。(p.134)
   《参照》   日韓交流
             ■ 「君がね」という単語に潜む日韓交流の影 ■

 

 

【十七条憲法】
 数秘学は西洋で発達したが、東洋の陰陽思想も数字によって表現される。そこでは奇数の9は陽の極とされ、偶数の6が陰の極となる。そして8は陰の中で最も弱い数で、最も強い9と最も弱い8を組み合わせて17となる。
 第1条の「和」は、9と8の和である17が示す君と臣の合一による和であり、強力な理で固められる和であるという。これは支配者の不退転の決意を示す和であって、「お手々つないで、みんな仲良く」式の生易しい和などではない。ここでは強力な氏族も高級官僚も、絶対君主の下の一介の民にすぎない。(p.153-154)
 17の解釈は様々に可能であるから幾通りにも言われるけれど、ここでは、一糸乱れぬ騎馬民族の指揮系統を意図するかのような解釈になっている。
   《参照》   『聖徳太子の「日本が沈む日」秘書 『未来記』 の真相』 友常貴仁 三五館
             【十七条憲法に見る仏教との統合】

 

 

【「革命」を認める天子思想と、「万世一系」の現人神思想】
 太子は正真正銘の国際人であり、日本を世界的文化国家にしようという意欲に満ちていた。その聖徳太子のモデル国家は、中国ではなく、当時の先進国・ペルシャであった。
 17条憲法は、天皇を現人神として、天皇は国家そのものであるとしている。これは中国皇帝の「天子」とは根本的に異なる概念である。(p.154-155)
 中国の「天子」思想は、天の意思を損なうものであれば、支配者を変えるという「易姓革命」思想を持っているけれど、現人神の概念と万世一系の思想は、「易姓革命」思想を認めていない。拒んでいる。
 現人神の概念と万世一系の思想は、非常に西アジア的であり、ペルシャ的なものである。(p.155)
   《参照》   日本文化講座 ① 【 七福神 】
               □□□ 例外 □□□

 

 

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