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 明治天皇のお孫さんである著者によって書かれた古代史。皇室のみに伝わる情報が盛り込まれているんだろうから、これを読んだら、歴史学者と言われる人々の古代史なんて、まともに読む気になれなくなっちゃうことだろう。過去の読書記録の中で、何度かこの本の内容に言及してきたから、再読して読書記録を書いておいた。2004年9月初版。

 

 

【聖徳太子と法隆寺の秘密が歴史観を一変させる】
 日本史上最も有名な人物、それは聖徳太子であろう。しかし、聖徳太子の真の姿は、われわれがこれまで抱いてきたイメージとは180度違う。いや、聖徳太子だけでなく日本古代史の常識そのものが、本書の論考において完全にくつがえされる。(p.16)
 これが、この本の本文の書き出し。
 斑鳩という地名には、想像以上にペルシャ的な意味があるのをご存知だろうか。
 斑鳩は、「斑の鳥」を意味する。この伝説的な鳥は、ペルシャの女神の使いと考えられていた。(p.16)
 法隆寺・夢殿に安置されている救世観音。ゾロアスター教にルーツがあるゆえ、長く秘仏とされてきた。(p.17)
 救世観音像の光背は火炎であり、手に持つ宝珠も火炎状である。ゾロアスター教=拝火教。
 飛鳥寺の伽藍配置も、ペルシャ神界を地上に模倣したものであり、設計者は古代ペルシャの世界像を飛鳥に具現したのである。仏教の儀式と考えられている盂蘭盆会も、実はペルシャのゾロアスター教の儀式である。(p.28)

 

 

【聖徳太子の母】
 聖徳太子の母は、生年も享年も不明であり、非常に謎が多い女性である。
 『書紀』の「欽明紀」には「埿部穴穂部皇女(はしひとのあなほべのひめみこ)」とあり、「穴穂部間人(あなほべはしひと)」とも呼ばれるが、この場合の「埿(はし)」、そして「間(はし)」が、ペルシャを意味する。これは新羅・真興王の「阿羅波斯(あらはし)山」の「波斯(はし)」の場合と同様である。 ・・・(中略)・・・ 「阿羅」とは、伽耶の有力国家だった金官伽耶を意味している。そして「波斯」とはペルシャのことであり、この地名は、王の背景を暗示するものである。
 太子の母の名も、これと同様、そのルーツを示している。(p.19)

 「穴(あな)」とは「阿羅(あら)」=伽耶のことであり、日本では「荒」とも表記された。そして、太子が生まれた磐余(いわれ)というのも、実は半島の伽耶にまつわる地名である。(p.20)
 この本には、朝鮮半島の新羅や伽耶の王族たちが飛鳥奈良時代に天皇となっていったのであり、その王族たちはペルシャをルーツとする、という主旨が書かれている。学校で習う日本史では、こんなことは一切教えていない。

 

 

【「聖徳太子」の名称】
 意外に思うかもしれないが、「聖徳太子」の名称は、はるか後代の平安時代になって創作されたものである。 ・・・(中略)・・・ 。「聖(ひじり)にして徳の高い生き仏」として、信仰の対象にまで持ちあげられたのは、後世の僧侶たちが太子のイメージ作りに専心したことが大きい。たとえば『上宮聖徳法王帝説』は江戸時代になって世に広められたもので、著者は法隆寺の僧侶として太子が仏教の聖人であるという伝説を強調した。日本における仏教の興隆と太子信仰は、こうして比例関係に置かれるようになったのである。(p.22)

 

 

【秦一族のルーツ】
 太子の追悼寺である広隆寺を建てた秦河勝(はたのかわかつ)は太子に近いブレーンで、太子の妃・橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)も秦氏の出である。この秦氏のルーツは中央アジアであり、本来の拠点はタリム盆地の亀茲(クチャ)の北方にあった。(この地は後述するように、聖書にも描かれた大洪水伝説のまさにその現場でもあった)。
 秦氏の名称の起源は、秦の始皇帝の「秦」ではなく、五胡十六国時代に匈奴の一派が建国した「秦」である。この秦国が滅びた後、秦一族は財宝と共に、すでに同族がいた倭国に渡ったのである。(p.24)
   《参照》   『日本人ならぜったい知りたい十六菊花紋の超ひみつ』中丸薫/ラビ・アビハイル/小林/久保《前》
             【秦氏】

 

 

【ノアの大洪水とシュメール文明発祥の地】
 シュメール人は紀元前5000年頃に、東方からメソポタミアに移住してきたのであり、その時点ですでに壊滅的な大洪水を体験していた。 ・・・(中略)・・・ 
 結論を言えば、大洪水が発生したのは、シュメール文明発祥の地、タリム盆地に他ならない。ちなみにタリム地方の伝統的装飾品は、シュメール王族が使用したものと同一である。(p.37)
 タリム盆地(=タクラマカン砂漠)は、崑崙山脈と天山山脈に囲まれた完璧な盆地であるがゆえに、異常な降雨が何日も続いたとか、異常な高温が続いて両山脈上の氷河が一挙に溶けだすようなことがあったならば、タリム盆地は避けようもなく湖状態になってしまう。
 ノアの大洪水が、タリム盆地限定の事態だったとは言えないらしい。下記リンクに示すように、本当に世界規模の大洪水が起こっていた証拠はあるようである。
   《参照》   『失われたメシアの神殿「ピラミッド」の謎』 飛鳥昭雄・三神たける (学研) 《前編》
             【実在したノアの箱舟】

 

 

【シュメール人】
 シュメール人は ・・・(中略)・・・ 海洋貿易をも営み、インドその他の地域とも交流し、自ら「大海人」とか「龍の末裔」などと称した。(p.40)
 古代日本史(記紀)に、大海人という人物が出てくる。後に天武天皇となった大海人こそが、この著作における最も重要なキーパーソンである。
 『旧約聖書』のアブラハムはノアと同様、明らかにシュメール人である。アブラハムの時代には、シュメール帝国はとうの昔に滅亡していたのだが、シュメールの末裔は文化人、知識人、教師として尊敬され、シュメール語は祭司階級には必須の言語であった。(p.40)
 キリスト教およびイスラム教のルーツとなったアブラハムも、日本に来てシュメールに縁の深い土地に鎮まっている。

 

 

【斉明天皇】
 斉明にとってのゾロアスター教は、単なる異国趣味ではなかった。飛鳥地方にはこのカナートに加え、北から南への2条の水流、浄罪火、ペルシャの祝日である春分(キリスト教地域ではイースター)、アナーヒターを祭るお水とり行事など、ペルシャ的・ゾロアスター教的な要素が多く残されている。
 明日香村にある酒船石という巨石は、古代ペルシャの伝説上の聖なる酒・ハオマ(古代インドではソーマ)を作る装置だった。(p.215)
 斉明は、倭国(日本)人でなく、百済の武王の妃である。

 

 

【「天孫」思想と「万世一系」思想をもつ騎馬民族】
 離散したシュメールの末裔がもたらした文明に触発されて、各地で都市国家が発生したが、古代ギリシャ人も早くから東方に進出し、各地に植民地を築いていた。
 紀元前1000年頃、南ロシアから中央アジアの草原地帯に出現したスキタイ人は、このギリシャ人と経済的に共生関係にあった史上初の騎馬民族である。そして、この民族も日本という国も成り立ちに、大きな影響を及ぼしているのである。 ・・・(中略)・・・ 三種の神器については知っていても、三種の神器が実はスキタイ起源の概念であるということは、聞いたこともないだろう。(p.44)

 この「天孫」思想と直属の男系子孫にのみ継承権を認める「万世一系」の思想は、ユーラシアの騎馬民族に受け継がれ、様々な国家を建設・統治していくのである。(p.45)
 「三種の神器」も「天孫」思想も「万世一系」思想も、いずれも騎馬民族が起源であるといっている。

 

 

【新羅とスキタイ】
 慶州にある新羅独特の古墳は紀元前5~前4世紀のスキタイ王墓の系統で、それが慶州にもたらされたのは、騎馬民族の東漸の時期と一致している。(p.52)
 以前、韓国の留学生に「三種の神器」のことを話したら、「日本にもあるんですか!」と驚いていた。慶州は韓国の京都といわれる古都だけれど、慶州のある新羅は、ソウルのある百済とは異なる王族が支配していた。地理的に中国に近い百済はその文化圏になりやすく、遠い新羅は中国を通り越した中央アジア・西アジアをルーツとした王族が支配していたのである。