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 『太陽の神人 黒住宗忠』の著者として記憶していたけれど、既読本の書架でこの本が何となく気になり15年ぶりの再読。97年7月初版。

 

 

【産霊(ムスビ)】
 日本の神話は、全部ムスビで構成されています。言い換えると、
 「陰陽が合わさって、新たなものを生み出す」
 という思想になります。
 ムスビとは和合であり、現代風にいうとコミュニケーションとかネットワークという意味になります。神道ではムスビは産霊と書きます、それは陰陽、すなわち異質のもの同士を結び、新しい生命を生み出す働きのことをいっています。(p.31)

 日本の歴史上で、ほかの民族に比べて宗教戦争がほとんどなかったのは、このムスビの思想からきているのです。日本人の“寛容”の精神も、日本特有の神仏習合的な世界も、実は皆このムスビの思想にルーツがあります。そういう意味では、ムスビは本当に素晴らしい概念です。(p.32)
 神道の中心概念をひと言でいうならば、産霊(ムスビ)になる。
   《参照》   『枠を超える発想』 石井憲正 致知出版
             【日本文化はムスビの文化】

 言霊上、神話=親和となるくらいだから、日本の神話は暗くない。終末だなんてヤボな発想もない。日本神話の未来は、天の岩戸が開いて太陽が燦々と輝くのである。

 

 

【富士山―御嶽山―位山―白山】
 地図で確認すると解りやすいけれど、古代史を語る上で欠くことのできない山々が一直線上に並んでいる。
 富士さんと白山を結んだライン上に、御嶽山と位山があります。
 『竹内文献』では、高天原=越中・飛騨中心説をとっており、特に飛騨は日玉(日の高天原)であり、原初の神々が活躍した神域であるとしています。古史古伝の『九鬼文献』でも、「天の神祭り」の段に、越根中津国(飛騨・越中)に高天原があったとされています。
 その中心的な山が位山です。(p.46)
 『竹内文献』は、越中・飛騨を中心として記述しているのに対し、『秀真伝』は、富士、東北、近江が中心となって記述されている。飛騨付近は、世界的に見ても、地質学的に最も古い地層からなっている。
 飛騨高山の中心地・位山の山頂付近には、「天の岩戸」という巨石があります。位山の中腹には二段になった祭壇石も残っています。(p.115)
 白山・位山については下記リンク。
   《参照》   『日本人ならぜったい知りたい十六菊花紋の超ひみつ』 中丸薫他 《後編》
             【16菊花紋の中心に在る日本人】

 

 

【伊都能売神(イヅノメノカミ】
 それをきちんとまとめる役が伊都能売神。イヅが陽・男を、メが陰・女を表わします。イヅノメとは陰と陽を表す、一種のムスビの働きなのです、ククリヒメはどちらかというと、あの世におけるムスビ担当ですが、イヅノメはこの世のムスビを担当します。神々にも役割分担があるのです。(p.75)
 白山の主祭神は菊理姫といったりククリ姫といったりする。
 伊都能売には、「この世とあの世を結ぶ」という意味合いもあるだろう。
   《参照》   『解決策』 三休禅師 (たちばな出版)
             【「霊主体従」 と 「いずのめの働き」】

 

 

【二上山】
 『竹内文献』によると、フキアエズ朝59代・天地明玉主照天皇は二神山(=二上山)に葬られたことになっています。 ・・・(中略)・・・ 。
 また、二上山には天神5代の女神が葬られているともされています。武内宿禰夫婦も二神山に葬られた、とあります。
 山麓には射水神社があります。射水神社には天の真名井があります。(p.217)
 二上山は、富山県高岡市と氷見市の境、富山湾にほど近い所にある。この付近からは立山・飛騨連峰がよく見えるから、武内宿禰さんは氷見あたりで神々に祈っていたのかもしれない。

 

 

【三種の神器は人の心の有り様を表わす】
 『日本書紀』では、天照大神が鏡をもってこう言います。
 「この鏡はもっぱらわがミタマとして、わがミタマをいつくがごとくいつきまつれ」
 これは鏡を自分のミタマとして拝礼しなさいということで、これが自霊拝の原点になります。
 剣は勇気を表わします。剣は両面に刃がついていますが、これは相手を傷つければ、自分にも返ってくるということの象徴です、逆に、相手を讃えれば自分が讃えられます。ぜひ、良き言葉(言霊)で周りの人々を讃えてください。そうすると、自分にもそれが返ってきます。
 勾玉は活動力を表わします、玉(魂)が渦巻き状に回転すると、勾玉の形になります。これは人間がエネルギッシュにイキイキと活動する様を示しているのです。(p.227)
   《参照》   『化粧する脳』 茂木健一郎 (集英社)
             【鏡】
   《参照》   『土曜神業録 1』 深見東州  たちばな出版
             【身体が神体 → 自霊拝】

 

 

【マチュピチュのとなりにある“聖なる山”】
 インカのマチュピチュは、ムーから逃れた人たちが高山に逃れた遺跡だと言われています。そのとなりに“聖なる山”があります。その山に関しては、インディオの間で、
 「大転換のときにその封印が解かれて、世界に光をもたらす」
 という言い伝えがあるといいます。
 それが何を意味するかは不明ですが、原初の霊性である聖なる山の神々が動き出すのも、もうまもなくだということです。(p.282-283)
 マテュピチュ自体の話は多いけれど、この話はあんまり語られることがない。

 

 

【トホカミヱミタメ】
 祓いの言葉のひとつだけれど、おおよその意味は・・・
 トホカミヱミタメは「造化詞(むすびのことば)」ともいわれ、天の御柱が地の高天原に降り立ち、地の御柱が天の高天原へ昇ることで、天地が一体となる型を示しています。 ・・・(中略)・・・ 。
 トホカミヱミタメはまた、「遠津御親神、笑み給え」という意味でもあります。(p.325)
              【一二三(ひふみ)祝詞】
 下記リンクの中に、トホカミエヒタメの八神のことが記述されています。
              【「八咫の原理」を象徴するヲ】
              【トホカミエヒタメ】

 

 

【「大自然霊」】
 古代には大自然神への祭祀が信仰の中心となっていました。それが特定の教祖の教えを信じる宗教へと変わっていきました。もちろん宗教でも祭祀を行いますが、“自分の宗教の神”への祭りが主になっています。自分の宗教の神を祭ることには熱心ですが、「大自然」を祭るという発想には乏しいようです。(p.285)
 “自分の宗教の神”という発想自体が、恐ろしく偏狭な宗教であることの明白な証拠なのだけれど、その渦中にある人々は案外そうとは思えないのである。偏狭は辺境であり偏狂である。遍く行きわたらないどころか、角を突き合わす。
 「大自然霊」を “生きた神”とするための祭りを行い、そのご開運を祈ることです。神のご開運を祈ると、その神徳(守護力)がこの世に大きく顕現してきます。そうやって強くなった守護のオーラに包まれれば、よくいわれる2012年以降の地球の変動がたとえあったとしても、それは人間の生命に関わる悲劇的なシナリオではなくなってくるのではないかと思います。(p.287)
 「神を祭る限りにおいて世界は永続する」というのが神道の立場。神々を祭る日本人は大勢いるから、日本と世界は何とか保っているけれど、そんな人々がいなかったら日本も世界もとっくにオカシクなっていただろう。
 祭る対象の神が、“自分の宗教の神”などというのならば、終末と選民思想がタイアップしている「チョ~独善宗教神」である。
 神道系の日本人が世界の永続を願って祭る神様は、チョ~独善ちゃんですら忍耐強くムスんであげて、なんとか新らしい世界を作ってゆこうとする、とんでもなく走ってもなく泳いでもなくウルトラお人好しの神様なんだろう。

 

 

<了>

 

  山田雅晴・著の読書記録

     『《ムーとユダヤ》そして《シリウス・プレアデス・オリオン》の宇宙神々の系譜』

     『2013年から5万6千年ぶりの地球「超」進化が始まった』

     『神々の聖地』